いつかの二人

 

「お兄ちゃん、何してるの?」

本棚の前に陣取って、漫画をめくっている兄の背中にヒカリは声をかけた。

「うわっ!」

太一は読んでいた漫画本をあわてて隠そうとしたが、辺りには他に漫画が散らばっていたのだから、意味はなかった。

太一のせいで足下まで飛んできた本を取り上げて、ヒカリは首をかしげる。

「どうして私の本を読んでるの?」

華やかな色柄の、少女向けのコミックばかりが太一の周りには積んである。

その手にあるのはヒカリが最近買ってきた、やはり女の子向けの漫画だ。

「べ、別に」

太一はあわてたように首を振ると、取り出した本を片づけ始めた。

「おもしろかった?」

「――おもしろくねえよ。こんなの!」

「そう? お兄ちゃんがいつも読んでるのより、私は好きだよ」

「お前、こんな男がいいのか?」

太一はヒカリが持っている単行本の表紙に描かれた少年の絵を指した。

「こいつ、情けないぜ。なんで好きなやついるのに、他の女と付き合うんだよ」

「それはしょうがないよ。だって、この人に騙されたんだから」

「そんな見え見えのウソに引っかかる方がバカだよ」

なんだかんだ言って、しっかり太一は読んでいたらしい。

漫画を片づける手もそこそこに太一は少女漫画における男の描かれ方に文句を付け始めた。

「だいたい、あんな顔の男がいるかよ」

「そんなこと言われたって……」

「どうして野球やってるのに汗くさくないんだよ!」

「それは、漫画だからだってば」

ヒカリは真面目に話す兄に呆れて、漫画を片づけ始めた。太一はまだ何か言っている。

「お兄ちゃん、用意終わったの?」

話をそらそうとヒカリは聞いた。

「明日から修学旅行なんでしょう。荷物用意したの?」

「まだ終わってない……」

太一はあわてて、机から修学旅行のしおりをつかむと「母さん!」と叫びながら部屋を出ていってしまった。

「……でも、なんで私の漫画なんて読んでたのかな?」

ヒカリは首をかしげ、本を片づけ続けた。

「太一、カメラ持ってきた?」

「まあ、一応」

空に話しかけられて、太一は曖昧な返事を返した。

新幹線の中、こんなときは真っ先に騒ぐ太一の静かな様子に空は不思議そうな顔をした。

「太一、酔ったの?」

「酔ってねえよ」

太一はぶっきらぼうに答える。目がちょっと赤いので、空はぴんときた。

「分かった。昨日眠れなかったんでしょう。やあねえ、子供みたい」

「ほっとけ」

図星だったらしく、太一は窓の方に顔をそむけた。

空が文句を言おうと口を開きかけたところに、ヤマトが通りかかる。

「太一、おとなしいな」

「昨日眠れなかったんだって」

ヤマトが吹き出す。

「ガキかよ」

「うるさい!」

太一は席をのぞきこむヤマトを見上げたが、すぐに顔をそらす。

「もう寝るからあっちに行けよ」

「なんだよ、つまんねえな」

「ヤマトくーん」

女子の声がヤマトにかかる。幾つか前の座席に座る少女たちがヤマトを見つけて手を振った。

「お菓子食べない? 色々あるよ」

ヤマトは太一を見たが、太一は窓の外を見つめるばかりだ。

空が苦笑した。ヤマトも笑って、行ってしまう。

「太一、やっぱり気分悪いんじゃない?」

「平気だって……」

太一はため息をついた。

「俺だって、たまには静かでいてもいいだろ」

「八神、トランプしようぜ!」

目を閉じようとした太一に、後ろの席から声が掛かる。

「おっ、いいな」

太一は立ち上がってさっさと席を移動する。

いつも通りとも言えなくもないその明るい表情に空も肩をすくめて、声をかけてきた友人とのおしゃべりに戻っていった。

「寺なんか見たってつまんねーよ」

太一は清水寺への三年坂を昇りながら、つぶやいた。

「おい、太一!」

「ああ?」

近寄ってきたサッカー部の友人が一人、太一を突き飛ばした。

「わっ!」

突然のことに太一がよろけて、前を歩く何人かにぶつかる。

ぶつかられた最後の一人が太一の背中を支え、太一を立たせた。

「何やってるんだ?」

太一を支えたヤマトはカメラを片手に持って、太一に不思議そうに聞いた。

「俺が聞きてえよ!」

太一は友人をにらみつけた。

「おい、何するんだよ」

「悪かったって」

友人がけらけら笑って、数人の友人と太一の肩を叩いた。

「ここさ、転んだら三年以内に死ぬって言うからさあ……」

「俺で試したのか!」

太一はむっとした顔になって、ヤマトから離れると自分を転がそうとした友人を、逆に転がそうと追いかけだした。

「おい、太一……」

太一を呼び止めたが、太一は聞こえなかったのか、行ってしまった。

ヤマトはつまらなそうに顔をしかめる。

「なんだよ、あいつ」

「石田、ぼうっとすんなよ」

後ろから肩をこづかれて、ヤマトもため息を付くと歩き出した。

 

初日の予定は寺や神社を中心にした観光だったので、なんだか皆不満そうな顔をしている。

「なんで坊さんなんかのお経を聞かなきゃいけないんだよ」

「それは太一が勝手な行動したからじゃない」

班行動のはずなのに、勝手に一人でふらふらしていた太一はいつの間にか、観光先のお寺の説法を聞く人々の間に混じり込んでいたのである。

静かに説法を聞く周りの人々のなか、出ていくきっかけをつかめず、足はしびれるわ、集合時間に怒られて先生には叱られるわで、
さんざんな太一だった。

そのままバスで今日から二日宿泊することになるホテルへ向かう。

ホテルでは幾つかの班ごとに別れて部屋に入るが、だいたいはクラスによって固まっていた。

夕食までの一時間半程度は自由時間になっていたので、太一はホテルの一室を目指して歩きだした。

係りによっては仕事もあるのだが、太一の係りは夕食時の班員たちの誘導というものだったので、たいして忙しいわけでもない。

カードゲームに誘われたり、ホテルを探検しようと言う友人たちに手を振って、シーツを取りに行く少年や少女たちの間を通り抜け、
太一はヤマトのクラスが泊まる部屋辺りにまで歩いていった。

ちょうどよくヤマトが部屋から顔を覗かせたところだ。手に修学旅行のしおりが握られている。

まだ太一には気づいていないが、太一はヤマトに合図しようと手を振ろうとした。

「石田君」

同じ班らしい少女が親しげにヤマトに声をかけてきた。

「私たちのクラスがお風呂一番最初だったよね」

「ああ」

しおりを開いて、ヤマトはそれを確認するとうなずいた。

「六時半からだ」

「ありがとう。……ね、今日行ったお寺にさあ――」

そちらが目的だったのか少女たちはヤマトと話し始めた。

楽しそうでもないが、とくに迷惑とでも思わなかったのかヤマトは適当にうなずいたり、返事を返し始める。

太一に気づいた様子はなかった。太一は上げかけた手を下ろし、ポケットにつっこむと自分の部屋へと歩き出した。

 

「八神、食わねえの?」

「……食ってる」

それまでぼうっとしていた太一はあわてて、皿の上の食事を食べ始めた。

広い大食堂で全六年生が一緒に食事を摂っているので、部屋はかなりうるさい。

教師たちの注意の声もおしゃべりの声にかき消されて、聞こえないくらいだ。

初日ということもあるかもしれないが、それにしてもうるさかった。

太一の横でも友人たちが、他の生徒話し声に負けないように大声で喋っている。

夕食も時間が進むに連れて、皆、席を移動したりしていたので仲が良いもの同士、ほとんどが男子女子別々に別れて、
食べるよりもおしゃべりに忙しい。

太一の周りの友人達もそれぞれの話しに夢中だ。

ほとんどの生徒達は夕食を食べ終えているので、まだ食べる方に口を動かしているのは太一だけだった。

「京都タワーってさ、夜行くんだったよな」

「明日だっけ?」

「なあ、おみやげって最後の日にしか買えないのか」

「そういや大橋のやつ、生八つ橋もう買ったってよ。帰るときには腐るよな」

笑い声と、話し声が交互に入り混じる。太一はつまらなそうに箸を口にくわえた。

まだおかずは残っているが、食べる気はない。

ちらりとヤマトのいる場所に目をやる。気のせいか、あの辺の女子は移動していない。逆に女子が増えている気もする。

彼女たちの視線も気にせず、ヤマトは呑気に魚の骨を丁寧に取っていた。

器用そうな箸の動きがなぜか急に憎たらしく思えて、太一は小さく舌打ちした。

もう食べないくせに、何をしているというのだ。

魚の小骨を取っている暇があったら、こっちに来てくれたっていいではないか。

確かに班も違うし、クラスも違うが――友達ではないか。

(友達?)

たぶん、ヤマトはそうなのだろう。

くわえていた箸を置くと、太一はちょうど話題を振られたので、友人達と話し始めた。

ヤマトの方はもう見なかった。

 

二日目は、午前中は昨日の続きのように京都の寺社を中心に回って、午後いっぱいは映画村で自由行動である。

時代がかったもの珍しい映画村のあちこちを見て回りながら、太一は腰につけたままのデジヴァイスに服の上から触れてみた。

こつりと固い感触がある。

これを使っていた頃、これが必要だった頃はヤマトもすぐ側にいた。

普段通りの生活に戻ったからといって、とくにヤマトと距離が出来たわけではないが、皆で冒険していた頃とは違うのも確かだった。

アグモンはどうしているかなと太一は思い、みんなと仲良くしているのだろうと空を見上げた。

ゆっくりした時間が流れるあの世界は変わっていないだろう。平和で穏やかな時間の中でデジモン達は暮らしている。

今も、これからも変わらずに、あの世界はある。

だが、こちらでは時間は流れ、春休みの事件からも、何カ月も経っているのだ。

修学旅行が終わってしばらくすれば、きっと卒業式の練習が始まるだろう。

それからは中学生になり、高校生、大学生、社会人――あっという間に年を取って、大人になる。

色々な人々と出会い、親しくなっていくにちがいない。

太一は何メートルか先を歩く空の後ろ姿を見つめた。彼女もデジヴァイスを眺めたり、触れたりして、こんなことを考えたことはあるのだろうか。

 空だけでなく、他の選ばれし子供たちも、あの夏の思い出とこれからの未来のことについて思ったことはあるのだろうか。

「――八神、どうしたんだよ」

遅れた太一に気づき、友人達が振り返る。

「今、行く」

太一は友人達に追いつこうと走り出した。