それほど大きくはないトランクを引いて姿を見せた青年は、到着口にはつきものである迎えの人々の顔に、予想していたのとは違う人物の顔を見つけ、驚きの声を上げた。
「太一さん!」
光子郎が自分に気づくよりも早く見つけていた太一は笑顔で片手を上げた。
「よっ、久しぶりだな」
あわてて、がらがらとトランクを引っ張り、太一のもとへ駆け寄った光子郎はさっと辺りを見まわす。
「ああ……」
太一はすぐに光子郎の視線の意味を悟り、疑問に答えてやった。
「親父さんの車が壊れたから、代わりに迎えに来たんだ」
「そうだったんですか。すみません」
「いいよ」
あいかわらずの律儀さだと、太一は苦笑して、光子郎の手からスーツケースを取ろうとした。
「大丈夫です」
「別に遠慮しなくてもいいんだぜ?」
「自分で持てますよ」
光子郎は笑った。
「いくつになったと思ってるんですか」
「そうだな」
太一はうなずいた。
「あっちに車置いてるから、行こう」
「あ、はい」
太一が重い荷物を持った光子郎に合わせ、ゆっくり歩く。
暖かいものが胸に溢れたが、同時に太一の足に目をやってしまう。
歩き方は普通だった。ほっとして、太一の横顔を見つめる。
記憶にあるより少し痩せたようだが、ほとんど変わっていない。光子郎に見せた笑顔も口調も接し方も、これといった変化はないが、それでも明るさの裏にある暗い影のようなものがたまに見え隠れしている。
「背が伸びたな」
太一は光子郎の視線に気づいたのか、顔をこちらに向けた。
「ええと、何年ぶりだっけ?」
「二年ですよ」
光子郎が高校を卒業してすぐ、アメリカへ発ってからそれだけの月日が流れていた。
「やっぱりあっちの食べ物って背が伸びるのか?」
自分とほぼ同じくらいの目線になった光子郎に太一はちょっと複雑な顔をしている。
「さあ……どうなんでしょうね。でも向こうには僕よりも背が高い人は多いですから」
「さすが、アメリカ」
太一は意味もなく感心して、シルバーの車を指した。
「あれ」
ポケットからキーを取り出して、ドアを開けるとトランクも開ける。
「入るか?」
「大丈夫です」
トランクにスーツケースを押し込むと光子郎は助手席に座る。
シートベルトをするのを確認して太一はキーを回す。
エンジンがかかると同時にステレオから音楽が流れ出した。
「あ、悪い」
「いえ、いいですよ」
止めようとした太一に首を振って、光子郎は曲に耳を澄ませた。
「この曲……」
「スタンド・バイ・ミーって言うんだ」
車を発進させ、太一は微笑した。
「変だな」
「何がですか?」
「いや、光子郎と久しぶりに会うのに、そんな感じがしないなって思ったんだ」
「そう言われるとそうですね」
「まあ、メールとかしてたしな」
道路は夕方のせいか混んでいる。ずっと続く長い渋滞に苛立ちを見せることもなく、太一は流れる曲をじっと聴いているようだった。
細かな雑談を交わして、ふっと話がとぎれる。
「太一さん」
光子郎がぽつりと言う。
「ん?」
「僕、ヤマトさんに会いました」
太一がはっと光子郎に目をやる。泣き出しそうな瞳だったがすぐに感情を覆い隠す。
「そっか……」
小さくつぶやいて、太一は目をそらした。
「あいつ、アメリカにいるわけ?」
何気ないふりをしようとしているが、ハンドルを握る手が細かく震えている。
「教授と一緒にいらしてたんです。一日しか泊まりませんでしたけど」
プッと後ろの車がクラクションを鳴らした。空きすぎた前車との距離を詰めて、太一はふたたび光子郎に目をやった。
「……どうだった?」
「元気そうでした」
太一は何か言いかけて、口をつぐんだ。
「すみません」
どうしてヤマトのことを口にしてしまったのか。その理由に思い当たって光子郎は自分自身ショックを受けた。
まさか、そんなはずはないと思っていたのに――。
「なんで、光子郎が謝るんだ?」
「……だって、太一さんは」
「ヤマトと別れたから?」
太一は鋭く言って、罰の悪そうな顔になった。
「ごめんな。久しぶりにあいつの名前聞いたからびっくりしたんだ」
「――太一さん」
「光子郎」
太一は前を向いたまま、少しきつい口調で言った。
「別にヤマトのことはもういいんだ。そのことで気を使うなんてやめてくれ」
「……はい」
「――もう三年になるんだよな……」
太一の言葉は光子郎ではなく、自分に向けられていた。
太一と別れた。
光子郎がそうヤマトから聞かされたのは、ヤマトがフランスへ留学生として旅立とうとするその日にであった。
「もうだいぶ前の話なんだけどな」
ヤマトは歪んだ笑みを見せた。
「お前は俺と太一のこと知ってるやつだし、ちゃんと言っておこうと思ったんだ」
いつとも、なぜだ、とも光子郎は聞かなかった。理由もその時期も察しがついたのだ。
「そのうち太一もお前に話すと思う」
もうヤマトが乗る飛行機の出発時刻は近い。本当はもっと見送りの友人もいたのだが、ヤマトが搭乗口に行こうとしたのでみんな帰っていったのだ。
光子郎だけが、ヤマトに呼び止められ残っている。
「光子郎」
ヤマトはまっすぐに光子郎を見つめた。
「――お前ももうすぐアメリカに行くってことは知ってる」
MITへの進学を希望する光子郎は、入学時期よりも一足先に渡米して入学のための準備をすることになっているのだった。
「だから、もし――」
そう言ったヤマトの目を見るのが光子郎にはつらかった。太一も同じ気持ちだったのかもしれない。
「もし太一が俺と別れたって話してきたら、短くてもいいから太一の側にいてやってくれないか」
光子郎は迷ったが、ヤマトが荷物を持ち上げたので口早に聞いた。
「それは、僕が太一さんを好きだと知った上でそう言ってるんですか?」
ヤマトの眼が苦しげな嫉妬に近い光を浮かべた。
「ああ。――俺より、お前の方が太一の側にいるからな」
それは違うと言いかけたが、ヤマトはすでに背を向け歩きだしていた。
だが光子郎が太一からヤマトとのいきさつを聞いたのは、渡米してからである。
ある日届いたメールの最後に素っ気なく、そういえば俺、ヤマトと別れた、とだけ記されていた。
それ以来、太一からのメールに決してヤマトという単語は出てこない。
気まずい沈黙の中、車はのろのろと進みようやく光子郎の家の前まで来たときには、日が完全に沈んでいた。
待っていた光子郎の両親にお礼を言われ、恐縮したのか太一は照れくさそうに首を振って、車に乗り込む。
「太一さん、本当にどうもありがとうございました」
「いや、遅くなっちまって悪かったな」
家までの道のりのことはもう匂わせず、太一は普段通りの太一だった。
「なあ、光子郎。いつまでこっちにいるんだ?」
「一ヶ月くらいです。八月に入ってもしばらくはいられますけど」
「そっか、じゃ、遊ぼうな」
太一は手を振って、窓を閉める。
「連絡するから」
いつもの笑顔だった。
なぜか胸が痛んで光子郎は手を振り返すことができなかった。
(――太一さんは、まだヤマトさんのことを)
その答えが知りたいがために、光子郎は無意識にでもヤマトのことを口にしていたのだ。
どうしてなのかは、すぐに分かる。アメリカでの二年間では太一を忘れることができなかったということなのだ。
太一がヤマトを忘れることができていないように、光子郎の心はまだ太一に惹かれている。
いつまでも立ちつくしている息子を不思議に思った母が声をかけてくるまで、光子郎はじっと太一が去った方を見つめていたのだった。
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