「暑いな」
待ち合わせの噴水前に立っていた太一は、やって来た光子郎にまずそう言った。
「そうですね。でももう七月ですし」
「お前が帰ってきたときはそうでもなかったのにな」
木陰を選んで歩きながら、太一は襟をつまんで首筋に風を送った。
「急に暑くなった気がする」
昼間の公園にはさすがに人影も少ない。セミの鳴き声だけがうるさいくらいに聞こえるだけだ。
遊歩道を行きながら、太一は聞いた。
「どっか行きたいとこあるか」
「そうですねえ……」
「けっこうあちこち変わってるぜ」
「だったら、いっそのこと東京見物でもしましょうか」
太一が笑った。
「なんだよ、それ」
「色々見て回りましょうってことですよ」
「そうだな」
二年ぶりに日本を歩く友人にうなずいて、太一は公園から駅へと向かった。
以前よりも賑やかになった場所、寂れてしまった店、人通りは相変わらずの通りや繁華街、変わった場所もあれば、
何も変わっていない場所もある。
あちこちを見て回り、さすがに疲れたのか二人は手近な喫茶店で一休みすることにした。
「けっこう歩いたなあ」
「節約しようなんて太一さんが言うからですよ」
「電車代もバカにならないからな」
太一はアイスコーヒーを頼んで、くっくっと笑った。
「それに歩いた方が健康にもいい」
「え――」
光子郎は一瞬、真顔になって太一を見つめた。
「何、変な顔……」
太一は言いかけて、自分の足を見下ろした。
「ああ、そっか」
太一は右足をさすった。
「もう治ってるんだぜ? 歩くぐらいなんともないし、むしろ歩いた方がいいって医者に言われてるからな」
ウエイトレスがアイスコーヒーを二つ、盆の上に載せてやって来たので、会話がとぎれた。
太一はミルクだけ入れて、余ったガムシロップをつついた。
「本当だからな、光子郎」
「ええ」
何も入れず、光子郎はコーヒーを啜った。かすかな苦みが舌を刺す。
「別に歩き方も変じゃないだろ。前はもっと足を引きずる感じだったから」
太一はふっと遠い眼をした。
「――ごめんな、妙な話して」
光子郎は首を振った。なんと言えばいいのだろう。
「こんな湿った話はもうやめて、あっちの話し聞かせてくれよ」
「あっち……ああ、大学のですか?」
「そう。どんなやつがいるんだ? 俺、想像したけどわかんねえよ」
太一に請われるままに、光子郎は在学中の大学の話を始めた。太一は合いの手を挟んだり、うなずいたりして、楽しそうに光子郎の話を
聞いている。
専門的な話や技術的な話ははぶいて、自分が手がけている研究についても簡単に話す。
太一は興味深そうに質問を投げかけてくる。
「じゃあ、それができたら、ええと……」
「処理速度が今よりも三倍は早くなります。それに加えてエネルギー効率も格段に向上しますから、まずタイムロスというデメリットが無くなります。
ですから……そうですね、費用も今の三分の一程度に抑えらることになります」
「すごいな」
分かったのか、分からないのか、ともかく太一は感心したようにうなずいて、上着のポケットを探った。
タバコを取り出して、口にくわえる。
「太一さん、吸うんですか?」
「え……ああ、たまにな」
無意識でタバコを取り出した太一はタバコを口から取った。
「吸わない方がいいかな」
「いや、びっくりしただけです」
「ちょっと試したら、くせになったみたいで」
太一は言い訳するようにつぶやいて、タバコに火をつけた。
煙を光子郎にかからないように何度か吐くと、灰皿にタバコを押しつける。
「――出ようか」
立ち上がった太一はひどく疲れているように見えた。今日半日近く歩いたためでなく、ずっと前から疲れ続けているようだと、光子郎は思った。
不安と緊張との糸がいつも太一の中で張りつめて、それが太一を疲れさせているように見えて仕方ない。
光子郎の分までさっさと支払って、店員の声を背にして太一は外に出る。
陽の光の下に出た太一はそのまま消えてしまいそうなくらい儚く見えた。
あわてて後を追った光子郎の胸にはもう抑えきれない感情がふたたび生まれだしていた。
※
帰国してから、光子郎は週に最低三回は太一と会うようになった。太一から呼び出すこともあるし、光子郎が誘うこともある。
ときには毎日会うこともあった。
太一の方も大学が夏期休暇に入ったこともあるし、時間の都合はいくらでもつくらしい。
光子郎と会うようになって、太一の顔から少しづつではあるが、かげりがとれていくのが光子郎には嬉しかった。
太一の心が自分に会うことで、少しでも明るくなっていってくれるのならそれだけでも光子郎には満足に思えた。
その日、太一の家に連絡しようと光子郎はいつものように受話器を取り上げようとしたが、ちょうどそのとき電話が鳴った。
太一からかと、電話を取った光子郎は遠慮がちなその声の主にびっくりした。
「大輔君?」
「あ、はい……お久しぶりです。光子郎さん」
大輔はすまなそうにそのまま今から会ってくれないかと光子郎に告げた。
「時間がなかったらいいんですけど、光子郎さんが日本にいる間に会いたいんです」
「それは構いませんけど……今からでいいんですね?」
「はい、じゃあ――」
大輔は駅近くの喫茶店を指定してきた。
「俺たちそこで待ってますから」
そう言って電話を切った大輔だったが、光子郎は眉を寄せた。
「俺たち?」
もっとも大輔の連れが誰なのか、店に入った光子郎にはすぐに分かった。
「タケル君!」
「久しぶりです、光子郎さん」
すらりとした長身に整った顔立ちが記憶にあるよりもずっと完成され、大人びている。
気のせいか兄であるヤマトにも似てきている。
横の大輔が太一と同じでそれほど変わってないように見えたからいっそうタケルの成長ぶりが目立ったように思えた。
「すいません、突然呼び出したりして」
大輔は頭を下げた。
「ヒカリちゃんから、光子郎さんが帰国してるって聞いて……」
「そうだったんですか」
光子郎は納得して、タケルと大輔の向かい側に腰掛けた。
「今日、来てもらったのは、実は太一さんのことなんです」
タケルが背筋を正して言った。
「太一さんがどうかしたんですか?」
「……会ってみて、どう思われましたか?」
「どうって……」
光子郎が困ったような顔になる。大輔がタケルを肘で突っついた。
「そんな聞き方あるかよ」
「じゃあ、どう聞けっていうんだよ、大輔君?」
「そ、それは……」
つまる大輔に微笑してから、タケルは光子郎に視線を戻す。
「ぶしつけな質問ですみません。でも、僕たちどうしても気になって」
タケルと大輔の真剣な顔に押され、光子郎は太一に会ったときの印象を思い出しながら、話した。
「――変わってませんね。でも、何か違う気がします。心に何かためてるような……そんな感じがしました」
タケルと大輔は顔を見合わせ、うなずきあった。
では、彼らもそう思っているのだと光子郎は分かった。
大輔はまっすぐな眼で光子郎を見つめる。瞳の真剣さはどこか太一にも似ていた。
「俺たちがこんなこと言うの、太一さんにも光子郎さんにも失礼なことだって分かってます。でも、言わせて下さい」
大輔はゆっくり言った。
「太一さん、変わりました。俺たちと会うときや、家族と一緒のときは全然普通です。でも、なんか違うんです。顔で笑ってても、
心じゃ笑ってないって言うか……」
「いつも心がそこにいない感じなんです。いつも誰か……何か考えているみたいで」
タ ケルは汗をかいたオレンジジュースのグラスを揺らした。溶けかけた氷がカラカラとうつろな音を立てる。
大輔が身を乗り出した。
「余計なことって分かってます。でも、太一さん、光子郎さんと会ってると、楽しそうなんです。……光子郎さん、太一さんの側にいてあげて下さい」
見つめてくる二人の懸命さに光子郎は微笑した。
「分かってます……僕だってそうできればいいと思ってます」
「じゃあ!」
「でも、これは僕一人が思ってもどうしようもないことです。太一さんの気持ちもありますから」
「だけど――」
言いかけた大輔をタケルが制した。光子郎は笑って続ける。
「もちろん、僕にできる限りでは太一さんの側にいます。太一さんがヤマトさんのことをまだ忘れていなくても、僕は側にいたいですから」
タケルと大輔が眼を見張った。
「光子郎さん……」
大輔が顔をしかめたが、光子郎は気にせずタケルに聞いた。
「タケル君、ヤマトさんは今――?」
「まだ、あっちです。たまに葉書がくるくらいで……父はそういうもんだって言ってるけど、母は心配してます」
大輔は唇を噛んだ。
「あんなやつの話なんていいよ!」
「大輔君」
たしなめたのは光子郎だったが、タケルは首を振った。
「いえ、いいんです」
二人の間でこのことに関しては何度も話されてきたことらしい。タケルは兄を責める大輔に何も言わなかった。
「俺、太一さんがあいつのこと好きならそれでいいって思ってた。太一さんがあいつのこと選んだんだから、いいって。でも……」
大輔は顔を上げた。
「――光子郎さんは太一さんのこと、好きなんですよね?」
光子郎はうなずいた。気持ちを口にすることに迷いはなかった。
「ええ、好きです」
「だったら、あいつのことなんか忘れさせてやって下さい!」
大輔は一瞬、迷ったがそのまま続けた。
「太一さん、一時期むちゃくちゃ荒れてたんですよ」
今度は光子郎が眼を見張る番だった。
タケルが小さくうなずく。
「本当です。家にも全然帰ってこないで、変な人たちと付き合ってるってヒカリちゃんに相談されたことがあります。――今はもうそんなことないですけど」
「その時も俺たちじゃ何もできませんでした。……丈さんがいたから太一さんそんなこと止められたようなもんです」
丈はこの先、大学院の方に進むつもりらしいと太一から聞いた。
皆、夢をかなえるためにあるいは見つけるために、道を違えていく。
――自分がいない二年間に太一に起こったことはどれほどのものだったのだろう。そして彼の側にいた人々は。
「俺、もうどうしたらいいのか分からないんです。太一さんが荒れてたときと、今とどう違うっていうんですか。表に出すか出さないか、
それだけじゃないですか……」
大輔の目がぐっと潤んだ。
「俺でいいっていうんだったら太一さんのために何でもします。でも、俺じゃダメなんだ」
タケルがなだめるように大輔の肩に手を置いた。
「タケルでもそうなんです。丈さんでも……」
「僕だってダメかも知れません」
光子郎はつぶやいたが、タケルは首を振った。
「光子郎さんと会うようになって、太一さん、違います。前みたいな顔で笑うようになってます」
光子郎は黙った。太一を見つめ続けていたタケルが、大輔が言うのだからたぶんそうなのだろう。それを喜ぶべきかどうか光子郎には解らない。
涙を拭う大輔と、なぐさめるように大輔に話しかけるタケルに、時の流れを感じるばかりだ。
「……今日はすみませんでした」
別れ際にタケルが頭を下げた。大輔はまだちょっと腫れた眼をこすっている。
大輔をちょっと見てから、光子郎は気になったことを聞いた。
「タケル君、大輔君と?」
「え……あ、そうです」
タケルはさすがに照れたのか顔を赤くした。
「そうだったんですか」
「そういうことになっちゃって……まだまだですけど」
大輔は先に行きかけて、二人がひそひそ話しているので呼びかけた。
「おい、先にいくぜ。タケル!」
「ちょっと待ってよ、光子郎さんが……」
「いいですよ。気をつけて」
タケルは何か言いたげに光子郎を見つめた。
「分かってます。今日は色々ありがとう」
光子郎がうなずくと、タケルもうなずいた。
それ以上何も言わず、タケルは大輔の後を追っていった。
午後を少し回って日は、いよいよ高い。
家に向かう光子郎の表情は複雑なだった。
セミの声が家々の壁にこだまして、すさまじい音となり響いていく。
鍵を開けようとして、すでにドアが開いているのが分かった。
「?」
ノブを回す。
玄関に靴がある。もう見慣れた太一の靴だ。
「太一さん?」
来ているのかとあわてて光子郎は家に入る。リビングのソファーに太一は座っていた。
テーブルに麦茶の入ったグラスが、ほとんど口を付けられることもなく置かれている。
風が入り、母が窓にかけている風鈴が涼しそうな音色を立てた。
「太一さん」
光子郎は呆れたような声を出した。どうしてこんなに暑いのに眠れるのだろう。
窓からはたましか風は入ってこないし、扇風機もエアコンも使っていない。
ため息をついて、光子郎はエアコンのスイッチを入れると、太一を見つめた。
行き違いになったのか――家を出るときは母がいたから太一を招き入れたのだろう。
額や鼻の頭に汗をかき、太一は寝苦しそうに眉を寄せて眠っている。
光子郎はタオルを水で濡らして、太一の汗を拭ってやった。
ふと太一が何かつぶやいた。声にもならないつぶやきだったが、光子郎は太一が誰を呼んだのか分かった。
「ヤマトさんか……」
彼は太一の心をどれだけ占めているのだろう。
二人はどんなことを話して別れたのか、少なくともお互いが嫌になってや、気持ちが冷めてしまったから別れたのではないはずだから、光子郎は気になった。
「あの事故……」
二人の別れのきっかけともいえる数年前の事故を光子郎は思い出していた。
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