お邪魔してます
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 物わかりの悪い親父ではないつもりだ。
 しかし、帰宅していきなり見たのが息子ではない上半身裸の少年で、しかも首筋や胸にキスマークが散っていたら、手に持っていた荷物を落とすくらいはしてもいいんじゃないのだろうか?
 あまりのことに呆気にとられていたら、その子はタオル片手にドアの向こうにあわてて消えてしまった。
「親父!」
 ヤマトがキッチンから顔を見せる。ゴマ油の匂いからして、今日の夕飯は中華ってところか。
「どうしたんだよ? 今日は遅いって言ってただろ」
 なんだか、顔が赤いぞ。火を使ってたせいか?
「いや、意外に早く片づいたんでな。ここんところ遅かったから、早く帰ってこようと思ったんだが」
 途中で買った総菜を見せようとして、足下に落としていたことを思い出した。コロッケなんだが、形が崩れているかもしれない。
「あ、そうなのか」
 そんなに露骨にがっかりした顔を見せるなよ。自分の家のはずなのに居づらいじゃないか。
 そう言えば、あの子はどこに行ったんだ?
「……どうも、こんばんは」
 ヤマトの部屋のドアが開いて、今度はちゃんとTシャツとズボンを履いたさっきの少年が頭を下げた。Tシャツじゃ、ちょっと首のところは隠れないが、胸の辺りの歯形が見えないだけましかもしれない。
 こっちを見るその顔にはなんとなく見覚えがあった。
「ああ、君は……」
「石田君の同級生の八神です。さっきはすいません」
 恥ずかしそうな様子に、とりあえずこっちは愛想笑いでごまかしておく。
「八神……太一君だったかな」
「はい」
 そうそう、よく家に遊びに来る子じゃないか。別に遊んでる風には見えないが、やっぱり最近の子は進んでいるんだな。なにしろ中二でキスマークだ。やっぱり時代は進むということかもしれない。
 それほどじろじろ見てるつもりじゃなかったが、太一君でなくヤマトの方が俺の視線に気づいたらしい。怒ったように、さっさと着替えてこいと怒鳴られた。
「そう、せかすなよ」
 こいつの細かいところは奈津子に似たんだろう。ワイシャツはクリーニングに出せと注意されて、ちょっと文句を言いたくなる。
 いくらなんでも同級生の前で、そうやかましく言われると自分が不甲斐なく見えるじゃないか。
「まだ洗ったばかりだぞ」
「洗ったのは三日前だ。前から言ってるだろ、早く出さないと染みが取れにくいんだよ」
 こりゃダメだ。あきらめてネクタイをゆるめながら、部屋に入る。
 一言、言うと二か三になって返ってくるし、口うるさいとは思うんだが、それが全部当たっているのが悔しいところだ。
 まあ、知り合いの女房持ちは二か三どころか十くらいになって返ってくるって言うから、うちはまだましな方かもしれない。もっとも俺の場合は女房じゃなくて息子だが。
 言われたとおり、ワイシャツだけ別にしてズボンや背広を仕舞う。その辺に放り出しておくと息子はうるさいのだ。
 適当な服に袖を通していて、ふと気づいた。
 あのキスマーク、えらく新しいものに見えたのだ。
 思わず頭を抱え込む。
 誰が相手だか、知らないが学校帰りに待ち合わせして会ったのだろう。その帰りに友人の家、つまりここに来たってことか。
「まったく最近のガキは……」
 俺もついにこんなセリフを口にするようになったか。
 しかし、ヤマトと同級生ってことは中二だろう? 条例にひっかからないか?
 すれたようには見えないけど、本当に今の子は俺の年代から見ると、よくわからんところがあるしなあ……。
 部屋のドアを開けかけたところで、また気づく。
 友人同士、やはりそれなりの情報交換はしているだろう。交友関係だって、繋がっているだろうし……ヤマトも誰かと付き合っているとかそういうことはないだろうか。
 いや、いけない訳じゃない。中学生だし、そっち方面に興味を持っても当たり前の年頃だ。俺だって思い当たることの一つや二つはある。だからといって、その何だ。
 ――ああいう関係というのは早すぎだろう。
 俺だって、いくらなんでも初めての経験というのは……まあ、それは置いておくとして、問題はヤマトだ。まさかあいつも経験済みだとかそんなわけじゃないだろうな?
「いかん、いかん!」
 だいたいまず知識がないだろう。こういう場合何かあって泣くのは概して女の子の方だ。
 いや、しかし知識だけが豊富なのも最近の子の特徴だ。……それに相手が経験豊富な年上ってこともあるかもしれないと思いついて、俺は複雑な気分になった。
 父親としては心配でもあるし、同じ男しては羨まし……そうだ、もうひとつあった。あいつのバンド人気があるらしいじゃないか。
 俺には曲がいいのか悪いのかは残念ながらわからんが、やたら女の子から手紙やプレゼントやらをもらってくるし、やっぱり相手といえばあの辺か。
「参ったな」
 こういう場合、頭から怒ると反抗するのは経験済みだ。ソフトに、だけど言うべきところはびしっと厳しく決めて……。
「おい、親父。なにぐずぐずしてるんだよ。早く来いよ」
 乱暴にドアを叩きながら、ヤマトが呼んだ。――俺が今日遅いっていって、早く帰ってきたもんだから機嫌が悪いようだ。
 太一君と、どっか遊びにでも行こうと思っていたのかもしれないな。
 その太一君は皿を並べるのを手伝ってくれていた。
 いい子なんだがなあ……一体どんな子と付き合ってるんだ。なぜか気になって仕方がない。
 ふと彼を見下ろしてどきっとした。さっきまでは丸見えだったキスマークが絆創膏で隠れているではないか。
 そう言えば着替えているとき、何かキッチンでごそごそ音がしてたな。ヤマトが教えたのかもしれない。こりゃますます怪しいじゃないか。共犯者同士はかばい合うとか何とかって推理小説で読んだことがあるぞ。    
箸をヤマトから受け取っていた太一君を思わず呼んでいた。
「太一君」
「はい」
 手渡された俺の箸に、礼を言いつつ、聞いてみる。
「首のところ、虫にでも刺されたのかい」
 意地悪というか、いやらしい質問だなあとは思ったが、どうせ俺は中年なのだ。恥を掻いたってしるもんか。
 そうだ、息子のためなのだ――そう自分に言い聞かせてみた。
 太一君はちょっと赤くなって答えた。
「……そんなところです」
 気のせいかもしれないが、太一君は一瞬だけヤマトをにらみつけたような気がした。もしそうなら意外に迫力があったにらみだ。
 誰かに似ていると思って、思い出した。怒っている元女房だ。それもあなたのせいよ! と怒鳴ってくるときの顔。
 こういうのは割と理不尽な理由が多いんだよな。
 あれは、ヤマトが喋りだした頃だったかな……。ちょっと飲んで帰ってきて、ナツコに抱きついたら、はたかれた。
 子供の前でだっていちゃついてたっていいじゃないか、夫婦なんだから、と言うとあなたはデリカシーがないと怒られた。教育上いけないのだそうだ。
 どうしてこんなときに、そんなことを思い出したのか我ながら不思議だ。
「親父、ほら座れよ」
 乱暴に背中を押された。こいつ、絶対怒ってやがる。
「ビール」
「自分で出せよ」
 今、座れといったのは誰だ。しょうがなくビールを取りに行こうとしたら、太一君が立って取ってきてくれた。しかもグラスまで持ってきてくれている。
「ありがとうな」
 なんだかさっきのことが悔やまれてくる。
 しかし、よくグラスがある場所が分かったなあ。ヤマトがきっちり片づけているせいで、俺でもたまに何がどこにあるか分からないんだが。
 ――電子レンジにコロッケを入れていたヤマトが乱暴にドアを閉めた。
 ああ、本当に怒っている。友人をいじめたのは悪かったよ。だけどなあ、息子を持つゆえの心配というのも分かってくれ。

 テレビの音がちょっとうるさく聞こえるくらいに、会話がぽつんぽつんとしか進まない。
 太一君だって気まずそうじゃないか。一生懸命話を盛り上げようとしてくれているのに、ヤマトときたらぶすっとした表情だ。
 注意する意味で足を蹴っ飛ばしたら、思いきり蹴り返された。思わずビールにむせて、あわてて口を押さえる。
「みっともないな、親父」
 こ、こいつ……。
「ヤマト、悪いけど、そっちのソース取ってくれ」
 太一君がヤマトの側にある瓶を指さしている。ヤマトの目が和んだ。まるで猫好きが、猫を見るみたいな目だ。
 そうか、親父よりも友達の方が大切か。なら、俺だってやるぞ。
「はい、八神君」
 大人げないとは思うが、仕返しの意味も込めて、俺はヤマトよりも先に瓶を取ってやった。
「これとマヨネーズを一緒にかけて喰っても旨いぞ」
 ヤマトがにらんできたが、気にしない。その目ではまだまだ青い。もっと睨みを効かさないと、そんな目じゃ子猫だって逃げないぞ。
「あ、ああ……どうも」
 太一君が驚いたのか、手元がぶれた。
 取り匙が皿に落ちて、見事にマーボー豆腐の汁がヤマトの手にかかる。
「あつっ!」
「ヤマト」
 太一君が腰を浮かす。あわててヤマトの手を引いて、キッチンで手を冷やしに行った。
「いいって、大したことない」
「でも、赤くなってるだろ」
 仲がいいじゃないか。ヤマトは少し人付き合いが下手な感じがするのでなんだか意外だった。
 さすがに心配に思ったので、テーブルから呼んでみる。
「ヤマト、大丈夫か」
「平気だ」
 素っ気ない声だ。逆に太一君が心配そうに聞いている。
「ヤマト、明日バンドの練習があるんだろ。ごめん」
「気にするな」
 おい、態度が違うぞ。声も顔も違う。そこまで機嫌を損ねているのだろうか。まさか父親が自宅に帰ってきたくらいでむっとするなんて、やはり夜出かけようとでも思っていたのかもしれない。


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