「本当?」
夕食時に聞いた兄の言葉にヒカリは声を大きくした。
「そんなことするの?」
「ああ」
太一は鳥の唐揚げを皿に取って、うなずいた。
「うちの応援団長が、決めたんだよ」
「でも、制服とかどうするの?」
呆れたような、それでも興味深い視線でヒカリは太一を見つめた。
「どっかから借りるって。なんかやたら気合い入っててさあ……」
太一はいくぶんげんなりした表情を見せ、ヒカリと母の顔を見比べた。
「来なくてもいいからな」
「なんで?」
「どうして?」
同時に聞き返した母とヒカリの顔はやはりよく似ている。
「なんでって……野郎の足なんか見て何が楽しいんだよ」
「やあね。太一の女装なんかどうでもいいわよ」
母はあっさり言った。
「空ちゃんが学ラン着るんでしょう? 女の子が男装なんて宝塚みたいね。おもしろそうじゃない」
「おもしろくねえよ」
「何、スカート履くのがイヤなの?」
「それもそうだけど……」
太一は心底イヤそうな顔を見せた。
「貸し衣装代って自腹なんだぜ。それもけっこうするし……」
太一はちらりと母を見つめた。学校行事だし、ひょっとしたらいけるかもしれない。こんな予定外の出費は、やはり母に頼るに限る。
「あら、大変ね」
母の言葉はそれだけだった。ここは、はっきり言わないとダメかと思ったが、母は笑顔で続けた。
「でも、お小遣いあげたばっかりでしょう。大丈夫じゃない」
太一はがっくりとうなだれた。こんな笑顔の母には、何を言ってもダメだ。父と母のやりとりから、それを学んだ太一はため息をついた。今月は、節約するしかないようだ。
体育祭での恒例の行事である、各ブロック対抗の応援合戦は毎年異常なほどの盛り上がりを見せる。
なにしろ芸術点という名目で点数が入るので、毎年各ブロックは、点数獲得のため、趣向を凝らした応援を見せようと、時には教師の頭を抱えさせるくらいの企画を出してくるのだ。
その中で、太一のブロックの女装・男装はまだ、ましな方と言えたかもしれない。全員が入るくらいに大きな被りものを制作するブロックもあるし、人文字とマスゲームで審査員にアピールするブロックもある。
衣装以外はだいぶ平凡な応援のかけ声に落ち着いた太一のブロックは、練習もさほど大変なものではなく、せいぜい喉を涸らしてしまう生徒が出たくらいだった。
「あーあ」
体育祭を明日に控えての帰り道、太一は情けない声を上げ、空を見上げた。
「今月の小遣い、もう千円もない……」
「大変ですね」
光子郎はなるべく声をいつもの調子に保ったまま返事した。
「いいよなあ。光子郎のところって人文字だろ。俺もそっちが良かった」
「仕方ありませんよ。それにけっこう大変なんですよ、人文字だって」
「でも、タダだしな」
身もふたもない太一の言葉に光子郎は苦笑した。
「練習時間は短かったでしょう」
「それは、そうなんだけど……」
太一は余程今月分の小遣いを、貸し衣装代として出したことがくやしいのか、光子郎に愚痴を洩らす。
「だいたい、普通は女子の制服借りればいいと思うだろ。うちの女子、セーラー服だしさ」
「そうですね。でもサイズが合わない人もいるんじゃないんでしょうか」
「そういうやつが貸衣装を使うんだよ。なのに、女子の連中なんて言ったと思う?」
「さあ?」
太一は、できるだけ甲高くそのときの言葉を再現するように、感情を込めて声真似をした。
「男子って汚いからイヤ! だってさ。 汚いって、ちょっと失礼だよな」
悪いとは思ったが光子郎は吹き出してしまった。
「なんだよ」
「だって、それはしょうがないでしょう」
「しょうがなくねえよ! くそっ、ルーズソックスなんか履けるか」
「ルーズソックスまで履くんですか?」
初めて聞いた情報だ。
応援団長が決めたんだと光子郎に太一は説明した。
「すね毛隠すんだってさ。うちの団長、女装趣味でもあるんじゃねえかな」
先ほどよりも更に身もふたもない言葉で太一は言って、肩をすくめた。
「馬鹿馬鹿しいよなあ」
いいえ、とてもいいことだと思います――とは言えず、光子郎は太一との分かれ道まで、曖昧な返事を返し続けた。
体育祭当日。
応援合戦は昼食後の午後のプログラムの一番最初にあるので、それまではもちろん太一たちのブロックは普通の体操服姿だ。
体育系の部に所属する生徒たちにとっては、晴れ舞台とも言える体育祭だが、太一の顔は浮かなかった。
「おい、負けてるぞ」
本部の横に設置された得点表を見て、横の友人に不満そうにつぶやいてみる。
「しょうがないだろ。今年の赤ブロック、陸上部のやつらが固まってるんだから」
「なあ、石田の応援すごくないか」
横からまた別のクラスメイトが声をかけてきた。
障害物競走も中盤にさしかかったところだったが、確かに歓声がすごい。
カメラを構える少女たちの姿も多く、太一を始めとして、大多数の男子生徒の顔はおもしろくないものになっている。
――なんだよ、きゃーきゃー騒ぎやがって、みっともない。だいたい石田のどこがいいんだよ。この辺が普通の男子生徒の感情かもしれない。
太一の場合は、微妙に違う。
(あいつ、何、手なんか振ってるんだよ!)
スタートラインに立ったヤマトが退場門近くに向かって手を振った。
その辺にいた少女たちから黄色い声が上がる。
太一は自分では気が付かなかったが、かなりきつい目でヤマトをにらみつけていたらしい。
「八神って石田と仲良かったんじゃないか」
太一のあまりの視線の鋭さに、おずおずと隣の少年は声をかけてみた。
「けっこう一緒にいるし……」
「……それは、その」
ぐっと太一は詰まって、もごもごと口の中で何かつぶやいた。だが、上手い言葉がみつからない。
「――腐れ縁だよ」
言い捨てて、次の競技に出場するのを理由に太一は応援席から抜け出した。
頬が熱いのは、走ったばかりなのだからと言い聞かせてみたが、どうも落ち着かない。
(一緒にいても、別に変じゃないよな)
小学生の頃からの同級生なのだ。別におかしくはない。
ただ周りが思っているのよりは、もう少し踏み込んだ関係になってはいるので、それが恥ずかしい。
ヤマトと一緒にいるということは、まあいちゃついていると思ってもいいだろう。
(キス以上は、やっぱりまずいよなあ)
校舎の中での、未成年とは思えない様々な行為を思い出して、太一の頬はまた赤くなった。
(気をつけよ……)
ヤマトが何か文句を言っても絶対に聞くまいと心に決めて、太一はまたトラックの方を眺めてみた。
ヤマトは何着だったのだろうか。
ちょっと背伸びして応援に来ている人々の肩の隙間から覗いてみると、ヤマトは一位でゴールしている。バットに額を付けて何回か回るという最後の障害のせいだろうか、足下がふらついているが、それでもトップはトップだ。
ライバル同士のブロックだったが、太一はそれでも嬉しそうに小さく笑った。
(やるじゃん、ヤマト)
弾むような足取りで、入場門に向かう。次の種目はクラス対抗リレーだ。
(俺も負けないからな)
はちまきを結び直して、太一は顔を引き締めた。
――アンカーに選ばれた太一が、二位から一位へと駆け抜けていく瞬間、自ブロックの応援席でヤマトがこれ以上ないくらいに得意そうな表情を浮かべたのを見たのは、タケルとヒカリだけだった。
「ヒカリちゃん、写真撮った?」
「ばっちり」
逆転してトップでゴールへ入った太一の写真をファインダーに収めて、ヒカリは得意そうに笑った。
「タケル君は?」
「僕、お兄ちゃんの顔撮ってみたんだ。すごく得意そうな顔してたし、あとで見せたら、きっと真っ赤になるよ」
タケルは、少々意地悪そうな笑みでカメラを持ち上げてみた。
ヒカリはタケルの言葉にまた笑ったが、やがて笑みをおさめると真剣に言った。
「――うちのお兄ちゃんには見せないでね」
「どうして?」
「お兄ちゃん、絶対ヤマトさんのこと、もっと好きになっちゃうから」
「ああ……」
なぜだか納得してしまうタケルだった。しかし、ただ言うことを聞くだけではつまらない。
「太一さんの写真、僕にもくれる?」
「いいけど、ヤマトさんにはあげないでね」
「わかってる」
うなずいて、二人で退場門の方へ歩いていきながら、タケルは思い出した。
(お兄ちゃん、カメラ持ってたよね?)
とりあえずこのことは黙っておこう。
兄に写真をあげないでと言ったときの、ヒカリの目つきを思い出して、タケルはちょっとだけ身震いをした。
触らぬ神にたたりなし――そんな言葉が浮かんだのを不思議には思わなかった。
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