「町外れに放置しておいた馬がいなくなりました」
「そうか。少々予定は狂ったが、まずまずかな」
小姓の口からもれた報告に、デュランは青い目を細めて苦笑いを浮かべる。
相変わらず自分を頼ろうとしないイグニスが小憎らしく、可愛くもあった。
大事な妹をくれてやるのだから、一人で切り抜けるぐらいの気概を見せてくれなくては困る。その点でいえば、まずまずと言ったところか。
クレアを危険な目に合わせたことは腹立たしいが、無事逃げ切ったのでよしとする。
「デュラン様、騎士クロードが接見を求めています」
「クロードが? 遅かったかったな」
クロードが現在血眼になって探している二人は、すでに逃げ去った後だ。それも、急いで用意したとはいえ最高の軍馬に乗って。
全速力で街道を走って距離を稼ぎ、雨がその足跡を消してしまえば、二人の捜索は再び困難となる。
そして、デュランにもクレアを父親に売り渡すつもりはない。
「ずいぶん酷い顔だね」
デュランのクロードに対する印象は、育ちの良い室内犬だった。小型で綺麗に姿を整えられているが、臆病でキャンキャンとよく吼える。
それがどうだ。
たった数年――むしろ、ここまで様変わりしたのはここ一月(ひとつき)の間だろう――見ないうちに、飢えた狂犬のような目に変わっていた。
最低限の身だしなみは整えているが、髭が伸び、疲れが色濃く出る顔に生気はない。
「まずは少し休んだらどうだい? ていうか、いったい何日寝ていないんだ?」
「兄はどこにいますか?」
以前受け取った手紙同様、挨拶もなく用件のみを口にしたクロードに、デュランは瞬く。
変わってしまったのは、どうやら顔つきだけではないらしい。
「私も現在全力で探している所だよ。君こそ、どうしてここへ?
たしか君は、東の捜索を任されたと聞いていたけど」
「デュラン様がこちらへ向かったと聞きましたので」
肩を竦めておどけてみせるデュランに、クロードは表情を崩すことなく続ける。
「デュラン様なら、兄の行動を先読みすることも可能だと思い、追ってきました」
兄の行動を読んで先回りしようとしても、兄の方が弟の考えを読み、その裏をかいて逃げるため、クロードにはイグニスを捕らえることができない。
では、その兄が敵わなかった相手ならば、兄を捕らえることも可能なのではないか。
そう考えてクロードはデュランを頼った。
その読みは正しい。
デュランはイグニスにこそ会ってはいないが、クレアとの対面は果たしている。
兄の行動は読めずとも、他人の行動は読めるのか、とデュランは笑う。
恐ろしく鼻の利く猟犬に育った。
「……まずは一杯、紅茶でも飲んで休んだらどうだい?」
「紅茶は嫌いになりました」
他ならぬ敬愛する兄に一服盛られたので。
「では、湯浴みでもして体をほぐしては?」
「兄を捕らえたら、ふやけるまで浸かることにします」
湯浴みなどする時間があれば、それだけ遠くへと馬を走らせ、数多くの人間へと話しかけて情報を得たい。
「疲れているようだね。睡眠をお勧めするよ」
「ご心配なく。兄を捕らえれば、心置きなく眠れます」
兄を捕らえた後に得られる眠りなど、カルバンに与えられる覚めない眠りでしかないが。
眉ひとつ動かさず答えるクロードに、デュランはため息をはく。
これでは取り付く島もない。
逃がすためにも、生かすためにも。
兄を捕らえるまでは立ち止まらぬとわかるクロードに、デュランがしてやれる事は少ない。
「……では、クロード。
貴殿に十二時間の睡眠と湯浴み、食事を命じる。あと、身だしなみもなんとかしろ」
「デュラン様っ!」
休んでいる暇などないというのに、なおも休めと命じるデュランに、クロードは食って掛かる。しかし続いたデュランの言葉に、クロードは僅かに表情を緩めた。
「可愛い妹に会いに行くというのに、むさくるしい汚れた男なんぞ連れて行けるかっ!」
「あ、……はい!」
自分の要求にデュランは応じてくれたのだ。
クレアはデュランにとって大切な妹姫。
みすみす駆け落ちなど見逃すはずもないのだ、とデュランの言葉にクロードは安堵した。
小姓に案内されて部屋を出るクロードを見送り、デュランはそっと目を伏せる。
「クレアとイグニスは絶対に捕まらないよ、クロード」
二人は知っている。
すべての義務を放棄して逃げ出した二人に出来る、残された者たちへの最後の責任。
隠されるように育てられたクレアの顔を知る人間は少ない。それを知る近しい人間は、クレア失踪の責を問われる側に立ち、まず殺される。
それをさせないためには、二人は逃げ続けるしかない。クレアが捕まれば、捜索のために必要だと延命された人間――例えばクロードや侍女――が殺されるのだ。
だから必死で逃げ続ける。
相手が誰であれ、二人は捕まることができない。
そして、クレアがそれを望むのなら、デュランはクロードを生かす。
それはつまり、デュランがクロードを二人の居場所へと案内することは決してないということだ。
「一週間ほど休ませてやれ。私は寄り道をしながら屋敷へ帰る」
色々と省かれた指示ではあったが、小姓の少年はそれだけですべてを理解した。
「はい」と短く答えると、まずはクロードの食事に一服盛るため、少年は食堂へと足を向ける。
その背を見送ってから、デュランは外套へと手を伸ばした。
「さて、可愛いクレアのために、もう少し働くか」
自分の娘であったかもしれない妹。
娘であって欲しいと願う少女。
その幸せのため、デュランは周辺の地形を脳裏に描く。
何があっても、クロードを二人に追いつかせるわけにはいかない。
そのためには、自分が領内を走り回ってクロードから逃れる必要があった。