「姫様、ご無事ですか!?」
扉を細かくノックされ、続いた恋人の声にクレアは目を丸くして驚く。
湯浴みは終わったがまだ服を着ていないクレアは逡巡したが、イグニスの切迫した声に、肌着姿のまま扉を開けることにした。
「どうしたの? なにか……」
扉を開けるのと同時に部屋の中へと飛び込んだイグニスは、クレアの顔を見て安堵から頬を緩め、肌着姿に気がついて僅かに目を逸らす。衝立にかけたままのクレアの服に気がつくと、再び表情を引き締めた。
「これを持ってください」
そう言って買ったばかりの荷物をクレアの手のひらに載せると、イグニスは大股に歩いて部屋を横切り、衝立にかけてあったクレアの服を掴んだ。
「あと、これとこれも」
自分の服と全ての手荷物を渡されて、クレアはふらりとよろける。
「……重い」
思わず口からもれたクレアの不平に、珍しく構うことなくイグニスは外套を広げた。
「我慢してください。一番重い物は、私が持ちます」
全ての荷物を自分に持たせて、この上一番重い物なんてあるのだろうか? とクレアが荷物を抱え直すと、先程まで雨に濡れていたとわかる冷たい外套に頭からすっぽりと包まれた。
「え?」
「しばらく口を閉じていてください。落ちたり上ったり、振り落としそうになったりするかもしれませんが、絶対に手放しませんので、そこだけはご安心を」
つまり、一番重い荷物とは、クレア本人のことである。
「え? え?」
咄嗟に事態が飲み込めず、クレアは目をしばたたかせるが、イグニスにはそれに構っている時間はなかった。
ひょいっと荷物ごとクレアを抱き上げると、もう一度窓の下を確認する。
「馬は惜しいですが、たぶんもう無理です。取りに行けば捕まります」
抑えられた声音と荷物ごと抱えられた状況に、クレアは遅まきながら事態を理解し、イグニスの指示に従って口を閉ざす。
「逃げ切りますよ」
そう宣言したイグニスに、クレアは無言で大きく頷いた。
先にクレアに宣言したとおり、イグニスは窓から宿の屋根へと上り、屋根伝いに移動し、時には隣の家の屋根へと飛び降りながら、なんとか町外れまで逃げ切った。
途中見下ろした通りでは、何人かの兵士を見かけることとなった。
案の定、自分達の存在はばれていたらしい。
夜の闇と雨に紛れての逃走は容易ではなかったが、クレアが言いつけどおり一言も悲鳴をもらさなかったため、なんとかなった。
さて、馬という足を失ってしまい、追っ手は目と鼻の先。山に入って逃げたとしても、今回ばかりは分が悪い。どうした物かと周囲を探ると、イグニスの視界の隅で黒い影が蠢いた。
追っ手に気づかれたか、とイグニスが顔を向けると、黒い影の正体がはっきりと見える。
黒い影の正体は、人間ではなかった。
「……馬? なぜ、こんな所に……」
雨降る夜に、馬小屋にも繋がれていない黒毛の馬が、天からの恵みのようにイグニスの前に居た。
近寄って確認をしてみると、馬具もしっかりと準備されている。
これならば、すぐにでも乗って逃げることが可能だ。
持ち主に悪いと逡巡はしたが、イグニスは馬を拝借することにした。見知らぬ誰かより、クレアが大事だ。落ち着く場所にたどり着けたなら、必ず信用できる者を作り、その人物の手を借りて返却する、と良心と馬の持ち主に心の中で誓った。
姫君を外套に包んだまま馬の背に乗せ、イグニスは鐙に足をかける。そのまま馬の背に跨ると、時折クレアを振り落としそうになりながらも全力疾走で町を飛び出した。
馬の蹄の跡が残るのは気になるが、雨が消してくれると信じて。
まずは追っ手から距離を稼ぐことが重要だった。