ここ数日でとみに増えたため息を自覚し、イグニスは一人、眉間に皺を寄せる。
 自分の意思で、意図的にクレアから距離をとっているとはいえ、休憩時間にも会えないのは痛い。
 元々叶わぬ身分違いの片思い。
 いつかは諦めなければならない相手だ。その期日が明確にされただけであって、自分とクレアの関係は何一つ変わってはいない。
 自分は姫君の騎士であり、姫君はいつか相応しい身分の男へと嫁ぐものだ。
 いい加減、諦めねばならない。
 そっと今日何度目かのため息を吐き、イグニスは城内に用意された自室の扉を開く。

「……。…………」

 下働きの部屋より多少ましなだけの自室に、イグニスは異質なモノを見つけ、扉を開けた時と同じ姿勢のまま、そっと扉を閉めた。
 今、何か。およそ自室に居るはずのないモノを見た気がする。
 廊下に立ったまま扉に額を付け、数泊の深呼吸。
 それから、改めて扉を開き――すぐに部屋の中へと飛び込んだ。

「な、何故、ここにっ!?」

「だって、イグニスったら、呼んでもクロードをよこすのだもの」

 後ろ手に扉を閉めながら、イグニスは自分の目を疑う。
 今回ばかりは姫君恋しさが見せる幻であって欲しかった。
 柳眉を寄せて拗ねるクレアの顔は変わらず愛らしいのだが、如何せん違和感がありすぎる。粗末な部屋のこれまた粗末な寝台の上に座る、豪奢なドレスの姫君。男の部屋に忍び込み、腰を下ろす場所としてはこれほど不適切な場所はないのだが、おそらくはクレアが寝台を選んで座っているのは、そんな理由ではない。
 部屋の中には椅子もちゃんとあるのだが、クレアのお尻には寝台が一番柔らかかったのだろう。
 末っ子という以上の理由で大切に育てられたクレアに、硬い椅子に座った経験などないはずだ。
 人形のように行儀良く、膝の上で手を握り締めているクレアに睨まれ、イグニスは目を逸らした。

「それで、なにか御用ですか?」

「特にないわ」

「は?」

 どうやら怒っているらしいのに、明確な理由なく部屋まで押しかけてきたと言うクレアにイグニスは瞬く。
 元々我の強い性格をしていたが、意味の無い行動をとる事はなかった。

「用なんてないわよ。呼んでもこないから、来ただけだもの」

 クレアを避けはじめたイグニスへの、クレアなりの意趣返し。
 遠ざけたい姫君に、逆に近づいてこられてしまい、イグニスとしては失敗もいい所だった。

「イグニスが一緒にお嫁に行けないのは理解したし、納得もしたわ。
 いない生活に慣れないといけないのもわかってる。
 でも、だからって……呼んでも来ないなんて、あんまりよ」

 クレアは目じりにほんの少しだけ涙を浮かべ、ぎゅっとドレスを掴む。あまり強く握ってしまっては皺ができると気になったが、皺ができたらそれもイグニスのせいにし、皺伸ばしそのものを『用事』にしてやればいい。

「慣れた方がいいのもわかるけど、居るのに会えないのは……」

 寂しいわ、と続いてもれたクレアの言葉に、イグニスは脳天を木槌で殴られたかのような衝撃を受けた。
 我侭で手のつけようのない姫君ではあったが、時折見せる神妙さがたまらなく可憐な姫君でもある。どうしても整いすぎた容姿が先に目に付く姫君ではあったが、外見の美しさだけではとても長年仕えてはいられない。

「……これまでが、おかしかったのです。
 私もクロードも、もう少し距離を持ってお仕えするべきでした」

「それも嫌。そんなだったら、わたしのお友達はフィリーだけになっちゃう」

 望む物は全て与えられたが、離宮から出る自由と、友達だけは与えられなかったクレア。
 偏愛するあまり、カルバンはクレアに歳の近い友人を用意しなかった。より父親へ依存するように、と画策して。
 イグニスやフィリーがクレアの側にいられたのは、小姓と侍女だったからだ。決して対等の友人として側にいることを許されたわけではない。

「ね、イグニス。どうしても、一緒に行けないの?」

「残念ながら」

「一緒に行って」

「ダメです」

「一緒がいい」

「無理です」

 数少ない友人をどうしても連れて行こうと、クレアは粘る。それに素気無く答える事しかできないイグニスは、やるせない想いに苛まれた。
 クレアが自分を求めてくれるのは嬉しいが、それは大人になる時期を迎えた子どもが、お気に入りの玩具を取り上げられないよう、懸命になっているだけだ。
 イグニスが男として求められているわけではない。

「どうしても?」

「どうしても、です」

 取り付く島のない返答に、さすがのクレアも肩を落とす。しおれた花を錯覚させるクレアに、イグニスはつい肩を抱きしめそうになり、腕に力を込めて自制するのに苦労した。

「イグニスもクロードと同じで、本気で我侭姫から開放されるって、喜んでいるのね?」

「そんな事はありません!」

 間を空けずに否定したイグニスに、クレアの気分は僅かに浮上する。
 イグニスが距離を置くようになった数日。過去の行いを思いだしては、あまりの我侭姫ぶりに、自分の事だというのに閉口したクレアには、嬉しい言葉だった。

「じゃあ、一緒に行ける方法を考えて!」

 己は我侭だ。貴族の娘は縁談相手を選べない。嫁ぎ先に男は連れて行けない。
 この我侭を叶えるのは無理だという事も、イグニスの姫君は理解している。
 そして理解した上で言うからこそ、我侭は我侭と言うのだ。

「……今回はまた、とんでもない我侭ですね」

「仕方がないわ。わたしを我侭に育てたのはイグニスだもの。責任もって、一生側にいなさい」

 ツンッと顔を背けながら、それでもイグニスの反応が気になるようで、チラチラとクレアは彼の顔色を窺う。
 クレアの我侭を、イグニスが受け入れなかった事など一度もない。今度もきっと折れるはずだ、と確信しているのに、今回はどこか不安がある。
 心細げな姫君に、イグニスは負けた。

「……善処します」

 正確には、覚悟を決める。
 この我侭で寂しがりの姫君に、一生付き合おうと。
 愛しの姫君が別の男に抱かれ、身籠り、母となるのを見守ろうと。
 クレアを我侭に育てた自覚は、確かに自分にもあるのだから。

「ホント? だからイグニス大好き!」

 しぶしぶと頷いたイグニスに、クレアはパッと顔を輝かせた。――この笑顔を見たいがために数々の要求に応え、結果としてイグニスは我侭姫を育て上げてしまったのだ。
 クレアの期待に添えるよう、頭の片隅で婚家に着いていく方法を模索しながら、イグニスは苦笑いを浮かべる。

「それはそうと、姫様」

「うん?」

 自分の要求が通ったばかりのクレアは機嫌がいい。イグニスの苦笑いの理由になど考えも及ばないようで、ニコニコと笑いながら応えた。

「お嫁入りの決まった姫君が、若い男の部屋になど来てはいけません」

「どうして? イグニスはわたしの騎士よ」

「それでも、ダメなものはダメです」

 ようやく自分が非難されていると気づきはじめたクレアは、唇を尖らせる。元々整った顔をしているので、クレアは多少顔をゆがめても美貌が損なわれる事がない。笑顔が可愛い女の子は腐るほどいるが、怒った顔までもが可愛い美人は稀だ。

「でも、昔から――」

「昔からダメだと言ってきました。……全然聞いてはくれませんでしたが」

 指摘され、クレアは少し考える。
 そういえば、そんな事を昔から言われていた気がした。使用人の部屋に主家の姫が遊びに来てはいけない、と。

「そうだったかも。……ごめんなさい」

「はい」

 潔く自分の非を認めたクレアに、イグニスは苦笑を微笑みに変える。
 クレアのこの素直さが愛おしい。――素直に反省するだけであって、注意した点が改められる事は滅多にないが。

「それでは、お部屋までお送りいたします」

 恭しくイグニスが手を差し出すと、一度小さく笑った後、その上にクレアの白い手が重ねられた。

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