「喜びなさい、クレア。おまえの縁談が決まったぞ」

 開口一番。そう告げた父親に、クレアは青い瞳を丸く見開いた。
 自分は貴族の娘として生まれた身。いつかはそういう話が来るものだとは思っていたが、さすがに楽しいお茶の時間に突然宣告されるとは思ってもいなかった。
 クレアは母親譲りの黒髪を微かに揺らして小首を傾げ、口に含んでいた紅茶を喉の奥へと押し込んだ。

「縁談、ですか」

「そうだ。おまえのために最高の旦那様を見つけてきてやった」

「……ありがとうございます」

 満面の笑みを浮かべる父カルバンに、クレアは実感が湧かないながらもにこやかに微笑んで応える。突然の縁談話に驚きはしたが、それだけだ。他にどんな表情をしたら良いのかもわからなかった。

「秋に行った鷹狩りを覚えているな?
 あの時、さる高貴なお方がおまえを偶然目に止めてな。是非、おまえを花嫁にと仰っている」

 元々細い目をさらに細めて微笑むカルバンに、クレアは昨年の鷹狩りを思いだす。

(つまり、あの鷹狩りは今日のためだったのね)

 珍しく父が自分を城壁の外へと連れ出したと思ったら、裏にはしっかり思惑があったのだ。

「相手は王都に屋敷を構える名門中の名門、モルガナ公爵だ。
 財も名誉もある彼ならば、おまえの将来は安泰。一生何不自由なく暮らせるだろう。
 それに、公爵といえば王族にも近い。
 王都で異変でも起これば、すぐにでも継承順位は繰り上がり、ゆくゆくは――」

 白い髭を撫でつけながら語る父を見つめ、クレアは瞬く。
 どうやら破格の縁談相手を見つけてきたらしいことは理解できたが、自分に選択権があるわけではない。相手の爵位など、あまり興味が持てなかった。クレアはただ、貴族の娘に生まれた義務を全うするため、父親の選んだ相手に文句一つ口にせず嫁ぐしかない。

「……まあ、難しい話はいいだろう。
 来年の春にはおまえも輿入れだ。そのつもりで花嫁修業に励みなさい」

「はい、お父様」

 素直に頷く末の姫に、カルバンは眦を下げる。子供は十五人いたが、クレアは特別に可愛らしい。母親似の美貌につい我侭放題に育てはしたが、間違っても父親に逆らうようには育てていない。
 じきに十六歳の誕生日を迎える娘の花嫁姿を想像し、カルバンは湯気の消えたティーカップへと手を伸ばした。






「……それでは、父はおまえの母に会ってから、仕事に戻るとするよ」

「はい、お父様。今日はお会いできて嬉しかったです。またお茶をご一緒してください」

 花のかんばせを綻ばせて自分を見送るクレアに、カルバンは二度、三度と頷く。文句のつけ所などない、愛らしい自慢の末姫だった。
 愛娘とのお茶の時間に名残は尽きないが、カルバンは仕事に戻るために席を立つ。クレアとその母親のためだけに整えた庭園へと続く東屋(あずまや)の出口に向い、両脇に控えた二人の青年に眉を寄せた。
 異なる母を持つ、似ていない兄弟。
 弟の方はどこにでも居る黒髪黒瞳に、中性的な容貌の美青年だ。髪は流行の形に整えられており、身に纏う装飾品も仕立てが良い。
 兄の方は外国の血を引いており、褐色の肌と銀色の髪を持つ。がっしりとした体格に、背も高い。身奇麗に整えられてはいるが流行に流されることはなく、弟のように装飾品を纏うこともない。
 容姿どころか、性格まで真逆な兄弟だった。
 小姓として城にあがった頃からクレアに良く尽くし、娘もまた二人を気に入っていたようなので、姫付きの騎士としたが――

「嫁入り前の大事な身体だ。くれぐれも、害虫など近づけんようにな」

 すれ違いざまに、兄の方に釘を刺す。

「わが身に変えましても」

 間髪を入れずに答えた兄に、カルバンは面白くなさそうに口の端を曲げる。

「害虫を駆除する役目の庭師が害虫に変わらぬよう、互いによく見張るがよい」

「……は?」

 言われた意味を咄嗟に掴みかね、弟の方は目をしばたたかせた。
 どうやら見張る必要があるのは兄の方だけらしい。
 僅かに表情を硬くした兄と、いまだに自分の言葉の意味を理解できていない弟を鼻で笑い、カルバンは東屋を後にした。






 離宮の中へと去っていくカルバンを見送る兄イグニスとは対照的に、弟クロードは去り際に残された城主の言葉など早々に頭の片隅へと追いやって東屋の中へと入る。
 クロードがクレアのいる卓に付く頃には、侍女の手によって新しいティーカップが二客用意されていた。
 空になったクレアのティーカップに紅茶を足しながら、侍女兼乳兄弟でもあるフィリーが祝福の言葉を贈る。

「おめでとうございます、姫様」

「ありがとう」

 自慢の姫君に来た縁談話を、フィリーは素直に喜んだ。

「……一応、おめでとうございます」

「一応?」

 苦笑いを浮かべながらも祝福するクロードに、クレアは胡乱気に瞳を細める。

「いや、だって……姫様のあまりの我侭ぶりに、すぐに追い返されるんじゃないかと思って」

 黒い瞳を悪戯っぽく揺らして笑うクロードに、我侭と称されたクレアよりも先にフィリーが唇を尖らせた。

「まあっ! 姫様に対して失礼ですわ!」

 ひょいっとクロードの前に並べたティーカップを取り上げて、フィリーは顔を背ける。失礼なことを言われたのも、怒るべきなのもクレアであったが、ツンと横を向いて怒るフィリーに気勢を殺がれ、クレアは苦笑した。

「家同士の縁談なのだから、それはないと思うわ」

 新たな紅茶を口へと運びながら、努めて平静を装う。政略結婚など、貴族に生まれた者の義務のようなものだ。嫌だと言って通るものではない。
 珍しくも喰い付いてくる様子のないクレアに、クロードは違和感を覚えた。

「だって、先方は鷹狩りで姫様を見初めたって……」

「楽しく鷹狩りに参加していたクロードは忘れているみたいだけど……
 わたし、あの日は最後まで馬車から一歩も外へ出してもらえなかったのよ」

 どうやら父の言葉をそのまま信じたらしいクロードに、クレアはため息をはく。
 父は「覚えているか」と言ったが、クレアが覚えている鷹狩りの記憶は、城壁の外へは連れ出されたが、肌が日に焼けてはいけないと言うカルバンの命により、一日中馬車に閉じ込められていたという事実だけだ。

「じゃあ、あの鷹狩りは……最初から姫様のお見合い……?」

「でしょうね。たぶん、どこかから覗いていたのだと思うわ」

 それらしい貴族などいただろうか? とクレアは記憶を探ってみたが、やはり誰の顔も浮かんではこなかった。
 折角来たのだから、大きな獲物を仕留めて来いと騎士二人を解放したら、兄の方は窮屈な思いをしている姫君を放って遊びには行けないと残り、弟の方は言葉通りに夕方近くまで戻っては来なかった。その甲斐あってか、クロードは大きな野ウサギを仕留めてきたが、一番活躍したとカルバンが讃えていたのは別の人物だったはずだ。

(あの時の鷹狩りの優勝者って……?)

 誰だったのだろうか。
 そう疑問に思うと、クロードに遅れて東屋へと入って来たイグニスが口を開いた。

「あの時、一番大きな獲物を狩ったのが、モルガナ公爵です」

「……何か、気になる事でもあるの?」

 瑠璃色の瞳を訝(いぶか)しげに細めるイグニスに、クレアはひっかかるものを感じて促す。
 姫君の無垢な青い瞳に見上げられ、イグニスはやや言い難そうに口を開いた。

「かの公爵は確か……今年で御歳四十五になられたはずです」

「……一番上のお姉様より、少し年上なのね。年齢的に、丁度釣り合うのかしら?」

 兄騎士の口からもれた数字に、クレアはゆっくりと瞬く。さすがに少し驚いたが、長姉が四十三歳という事もあり、クレアとしては受け入れられない数字ではなかった。

「この場合、第三夫人と同じ歳って言うんですよ。
 ついでに、次の誕生日で十六歳になられる姫様とは、おもいきり歳が釣り合いません」

 先ほどは『我侭姫の縁談』と鼻で笑ったくせに、今は相手との歳が離れすぎているとクロードは憤慨する。同じ考えらしいフィリーが感じ入ったように何度も力強く頷き、クロードの前に自分で取り上げたばかりのティーカップを置く。それを憤りのまま一息にあおったクロードは、力いっぱい咽た。

「まだ、何か気になる事があるの?」

 咽たクロードの背を擦るフィリーを横目に、クレアはイグニスを上目使いに見つめる。

「……なぜ、そう思うのですか?」

「だって、イグニスはまだ『おめでとう』って言わないもの」

「……」

 ぼんやりと父親の言う事を聞いていたクレアではあったが、まったく何も考えていなかったわけではなかった。隠し切れなかったイグニスの逡巡に気づき、その理由を問うぐらいの知恵は持っている。

「モルガナ公爵には、すでに正妻がいたはずです。
 ……愛人も、何人か囲っていると、聞き及んでおります」

 降って湧いた縁談のオチに、当人であるクレアが憤慨するよりも早く、隣から非難の二重奏があがった。

「反対ですわっ!」

 姫付きの侍女として、しっかりと躾けられた作法も忘れてフィリーは卓を叩いた。

「姫様、先程の言葉、撤回させていただいます。反対です!
 私、この縁談には断固反対いたしますわっ!」

「百歩譲って、死別した正妻の後妻に納まるならともかく、
 初婚で愛人に送られるってのは、ちょっと……」

 日頃から兄を巡って何かと対立することの多いクレアではあるが、だからといって長年仕えた姫君に愛着がないわけではない。
何不自由ない生活が保証されるという意味では良い縁談相手であったが、それ以外が最悪だった。
 二人の鬼気迫る勢いに気が抜けて、クレアは苦笑を浮かべる。そんな姫君に気づき、フィリーは眦を吊り上げて詰め寄った。

「何をのん気に笑っているんですかっ!」

「そうですよ。幸い、お館様は姫様には蜂蜜よりも甘いですから、今すぐ追いかけて、
 得意の我侭で『やっぱりお嫁には行きたくないです』とか
 『もう少しお父様のお側にいたいな』とかなんとか言い包めてきなさい」

 興奮のあまり主従が反転したクロードの言葉遣いに、チラリとイグニスが視線を向ける。目だけで兄に窘められたクロードは、すぐに恥じ入って居住まいを正した。
 騎士二人のやり取りを眺め、クレアは笑う。

「……貴族の娘が政略結婚に使われるなんて、珍しい事じゃないでしょう」

自分に来た縁談話だと言うのに、意外に冷静に受け止めた主人に、フィリーもようやく落ち着きを取り戻す。

「家格とか、難しいことは良く解らないけど。
 クロードが言うように、お父様はわたしにすごく甘いから……間違った相手は選んでこないはずよ」

 母子ともに、偏愛するあまりに離宮に閉じ込められてはいるが。カルバンの髭を引っ張っても、剥げ頭を隠す帽子を取り上げても許されるのはクレアだけだ。他の姉妹や愛人が同じ事をすれば、即刻領地から叩き出されるだろう。クレアが生まれる前の事なので経緯は知らないが、実際に次兄がカルバンの怒りを買い、里帰りを許されない身となっている。毎年欠かすことなくクレアに誕生日の贈り物をくれる次兄ではあるが、実は一度も会ったことがない。

「……確かに、お館様は姉妹の中でも一番高貴な方を見つけてきましたね」

 カルバンの娘はクレアを入れて八人いるが、みな父親の役に立つ縁組をされた。
 自分の父親に全幅の信頼を寄せ、縁談相手の年齢と性癖を聞いても「嫌だ」と言い出す様子のない姫君に、イグニスはホッと息を吐く。
 ――内心は、とても複雑だった。

「兄上? まだ何か……?」

 渋面を浮かべたままのイグニスに、クロードが不安気に顔を曇らせる。

「いや、姫様の我侭とも、もう少しの付き合いかと思うと……さすがに少し寂しいかな、と」

 内心の葛藤などおくびにも出さず、イグニスは苦笑いを浮かべた。

「ああ、確かに」

「酷かったですものね……」

 イグニスの言葉を受け、しみじみと同調した二人の幼馴染に、クレアは子どものような仕草で拗ねる。

「何言っているの。あなたたちも一緒に行くのでしょ」

 頬を膨らませて怒るクレアに、三人は顔を見合わせ、ややあってから気がついた。
 クレアが自分の縁談について、特に反対をしなかった本当の理由に。
 貴族の娘として育てられたクレアには、当然家のために嫁ぐという覚悟がある。恋愛になど興味を持たないよう、家のためという大儀に疑問を抱かぬよう、慎重に育てられた。
クレアにとっての自分は家のために使われる道具であり、結婚とは自分の所有者が生家の父親から婚家の夫に替わるだけの事だ。
 それは強ち間違いではない。
 ただ、肝心なことが、クレアの意識から抜け落ちていた。

「あの、姫様。普通、家格が上の方に嫁ぐ場合、生家からの使用人は連れて行けませんわ」

 連れて行くとしても、ごく少数。それも、婚家の家格に見合う高い身分の者だけだ。乳母の娘であるフィリーはこれに含まれない。一応フィリーも貴族の娘ではあるが、クレアよりも格下だ。とてもではないが、公爵家に嫁ぐ花嫁の侍女として付いていける身分ではない。
フィリーが怖々と姫君の顔色を窺うと、クレアは考えてもいなかった事を指摘されたのか、これ以上は開かないのではないかというほど目を丸くしていた。

「どうして?」

「失礼にあたるんです。婚家の財力を軽んじるといいますか……」

 内心の戸惑いがありありと読み取れるクレアの青い瞳に、フィリーは忙しく思考する。うっかり説明を誤まれば、自他共に認める我侭姫に火がつきかねない。

「おまえのトコじゃ、使用人も用意できないのか? て言っているようなものなんですよ」

 少々言い方は悪い気もするが、解りやすく噛み砕いたクロードの説明に、フィリーはコクコクと頷く。それを見て、クレアは見開いていた瞳を物憂げに伏せた。

「……それじゃあ、フィリーは連れて行けないのね?」

 ほんの少しだけ心細そうな響きを帯びたクレアの言葉に、フィリーは口を閉ざす。
 ダメだと言っておくべきなのだが、つい元気付けたくなってしまった。
我侭姫という不名誉な異名は、クレア本人だけの責任ではない。甘え上手でもある姫君の要求に、周りがつい応えてしまい、結果として呼ばれるようになってしまった異名だ。
 甘え上手なクレアに抵抗できる人間は、恐ろしく少ない。
 そして、フィリーはその希少な人間に含まれなかった。

「……姫様次第では、私は後から呼び寄せられるかもしれませんわ」

 フィリーを呼び寄せることは、実は不可能ではない。女のフィリーであれば、クレアが美貌で夫を篭絡し、気心の知れた使用人を呼び寄せたいとねだれば良いだけだ。

「でも、イグニス様とクロード様は無理です」

「……何故?」

「花嫁が愛人を二人も連れて行って、喜ばれるはずがありません」

 真実ではないが、客観的にはそう見えるのだと告げるフィリーに、クレアは珍しくも声を荒げて抗議した。

「二人は愛人じゃないわ。わたしの騎士よ」

「それは良く存じております」

 フィリーから見ても、二人は姫君と騎士という立場を弁えている。クロードがクレアに対して多少気安い接し方をするのは、幼馴染でもあり、イグニスを巡る喧嘩友達でもあるからだ。
 まかり間違っても、クレアと艶めいた関係にあるわけではない。

「ですが、事実はどうあれ、花嫁が生家から男性を連れて行くことは、そう見えるのです」

 言い聞かせるようなフィリーの説明に、クレアはイグニスを振り仰ぐ。瑠璃色の瞳と目が合うと、イグニスは静かに頷いた。

「私とクロードは、姫様とご一緒できません」

 表情を消したイグニスに、クレアは漠然とした不安に包まれた。

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