「この半月でトランバンもだいぶ落ち着いた」

「そうみたいですね」

 元々のトランバンを知らないは、イグラシオの言葉に相槌ぐらいしか返せない。ただ、ニーナに連れられて出た市街には、市が立ったり、閉じていた商店が開いたりと活気を取り戻し始めているのが見て取れた。街の様子はその程度しか知らなかったが、城にいる兵士の様子ならば少しだけ判る。怪我をした兵士の治癒は先日全て終了し、怪我人の治癒を理由の一つにトランバンへと残っていたはお役御免となった。ニーナは元々ハイランドに従軍している人間であったので怪我人がいなくとも仕事があり、早々にハイランド軍へと組み込まれたヒックスも、武将の一人として片付けるべき雑務に励んでいた。
 みな、各自のこなすべき仕事をしている。

 宙ぶらりんの状態で暇なのは、ぐらいだ。

 あまりの情けなさに城で下働きの真似事もしてみたが、失敗をした覚えはないのだがすぐに追い出されてしまった。
 治癒以外で唯一の特技―――と呼べるほどの技術はなかったが―――を否定され、軽く落ち込んでもいる。

「……明日には私も時間が取れるだろう。
 私が送って行くから、そろそろ……」

 孤児院へ戻れ。
 そう続いたイグラシオの言葉に、は並んで歩いていた足を止める。
 逃げ回っていた言葉を、ついにイグラシオの口から聞かされてしまった。

「……あの」

「ん?」

 確かにイグラシオの言うとおり、孤児院に戻るのが一番良いことだ。
 むしろ、にはその選択肢しかない。
 が、やはりそれには従いたくないのも事実で。
 は視線を落として忙しく思考し、探す。
 孤児院に戻れというイグラシオが、その発言を撤回せざるをえない理由を。

「えっと、あの……」

 視線を落として自分のつま先を見つめ、考える。
 イグラシオが納得しそうな、と条件をつけるのならば、最良の材料が一つあった。

「そうです! ウェイン様にはすっごくお世話になったので、
 ご恩返しをしないうちには、帰れません!」

 これは良い案だ。
 これならば『ウェインの騎士』となったイグラシオには、に帰れ等とは言えないはず。
 名案が浮かんだ。
 そうパッと顔を輝かせて顔を上げたの『名案』を、イグラシオは僅かに首を傾げただけで一刀両断に叩き伏せる。

「ウェイン様への恩なら、私がおまえの分まで働いて返しておく」

 だから気にすることなく、孤児院へ帰れ。
 言外にそう告げられて、は肩を落とす。
 せっかく良い案が浮かんだと思ったのだが、イグラシオには通じなかった。

「ううっ……」

 名案をきっぱりと斬り捨てられて、は憎々しげにイグラシオの喉仏を睨む。
 他になにかイグラシオを納得させるような理由がないかと思考をめぐらせて見るが、一番効果があるであろう『ウェインのために』という申し出が却下された今、何を言っても無駄な気もした。
 それに、自分がいてもあまりイグラシオの役に立てないことは知っている。






「……ウェイン様以上に恩のある人は、
 時々とってもとっても我慢をする人なので、側にいないと心配です」

 結局、これといってイグラシオを説得する良い案が浮かばず、は素直な感情を吐露した。
 の言う『恩のある人』が自分だという事にイグラシオはすぐに気がついたが、イグラシオが何かを言おうと口を開く前にがそれを遮る。

「ほら、わたし、傷を癒すぐらいならできますから」

「……恩を着せるつもりで助けたのではない」

 だから、いつまでも気にされては困る。
 困るのだが――――――の申し出は嬉しくもある。癒しの力を持つ僧侶は貴重であったし、何よりが側にいることは好ましいとすら思っていた。が、まだ内々の話ではあったが、ウェインはこれから他国にも行軍すると言う。隣国はおろか、おそらくは大陸中にわたる行軍に、を連れまわすことは躊躇われた。
 なんとかの口から孤児院へ帰ると言わせようと、イグラシオは言葉を探す。
 が孤児院へと帰らざるを得ない理由を。

「……それに、孤児院にはおまえに懐いている子ども達もいるだろう。
 特に、ミューなど……」

 すでに二ヶ月以上会っていない孤児院の子ども達を思い浮かべ、イグラシオは眉をひそめる。
 乳飲み子のミューは、の柔らかな胸がお気に入りだった。
 あの雨の夜、に対して劣情を抱いたことに気まずさを覚え、トランバン付近での暴動鎮圧に忙殺されるふりをして孤児院への足を遠ざけていたが。いったいはどのぐらいの期間孤児院を離れているのだろうか。女性の身で徒歩の移動。馬を使った旅路以上に時間もかかっているはずだ。

 これは、本格的にを孤児院へと返さねばならない。

 眉をひそめたイグラシオに気がつき、は反撃を試みる。
 イグラシオの危惧することは、孤児院を出る前にも危惧したことだ。

「イグラシオさんは、最近村に来てないから、知らないでしょ?
 イパさんの奥さんに赤ちゃんが生まれたから、
 ミューにとってはわたし、お払い箱なんですよ」

 孤児院を出る少し前に、村に新しい命が生まれた。
 その母親となった女性が本物の母乳を分けてくれるし、乳首も好きなだけ吸わせてくれるので、ミューにはもうは必要ない。元々、孤児院に預けられた者には人見知りをする暇がなかったし、助け合いを基本とする小さな集落で、母乳の出る者が母乳の出が悪い母親に代わり乳を与えることは当然の行為だ。他人の子に母乳を与えることに対し、イパの妻には抵抗がなかった。
 それでなくとも、ミューはそろそろ乳離れをする時期でもある。

 の口からしばらく足が遠のいていた村の近況を聞かされ、イグラシオは言い淀む。

「だが……」

「心配してくれてるだろうし、顔を見せるぐらいなら付いていきますが、
 そのまま孤児院に置いていくなんて、嫌ですよ?」

 なにやら思考に沈むイグラシオに、は勝利を核心した。

「それと、いつかわたしの帰る場所まで送って行ってくれるって約束、忘れていませんか?」

 僅かに眉を寄せたに、イグラシオは『意図的に忘れていた』事を思い出す。
 最近は忙しくて、の出自を探してもいなかった。

「……そういえば、思い出したのか? おまえの帰る場所を」

「何度も言いますけど、帰る場所は最初から忘れていませんよ?」

 ただ、真実の方が誤解を受けそうな内容であるため、あえて積極的にイグラシオの誤解を解こうとしなかっただけだ。

 の言葉に、イグラシオは渋面を浮かべる。
 相変わらず、の言う意味がわからないのだろう。とて、未だに信じられはしない。

「場所は『忘れていない』けど、帰る方法が『わからない』だけです」

 渋面を浮かべたままのイグラシオに、は腹を決めた。
 ボルガノを討つ際に、イグラシオはに『関わってよい』と認めてくれた。
 今度はの番だ。
 深入りするのが怖いだとか、異常者扱いされるのが怖いだとか、逃げるのはもう止める。どんなに時間がかかろうと、馬鹿にしているのか? とイグラシオを怒らせてしまおうと、お互いが同じ理解に至るまで根気強く話そうと。

「方法がわからないんだから、
 こっちから方法を探しに行くのもありだと思いませんか?」

 『世界』をまたぐ方法など見当もつかないが、それでも孤児院で大人しくイグラシオを待っているよりはいいだろう。トランバンでは判らないことでも、トラッドノアあたりならば何か書物でもあるかもしれない。
 従軍するための理由を探していたのだが、偶然にも名案へとたどり着き、は満面の笑みを浮かべた。

 元の世界に帰りたいとは、今でも思っている。
 この世界が自分の世界ではないとも、知っている。
 が、『帰りたい』という単純な感情の話であれば、やはりあの孤児院に対しても抱いている。
 すでに、あの場所もにとっては『帰りたい』場所なのだ。

 満面の笑みを浮かべるを、イグラシオを眩しそうに目を細めて見つめる。
 それから二度目のため息をつくと、苦笑を浮かべた。

「……大陸中を探すつもりか?」

「はい」

 間髪いれずにそう答えたに、イグラシオは苦笑に呆れの色を滲ませる。
 本当に、預ける場所を間違えた。出逢った頃に比べ、随分と逞しくなってしまった、と。

「それで、大陸中を探して、方法が見つからなかったらどうするつもりだ?」

 苦笑を浮かべながらそう聞くイグラシオに、は少しだけ考える。
 どの道、『世界をまたぐ方法』等、探し方からして見当がつかない。見つからなくて当然の物を探すのだ。成果がなかったとしても、さほどの落胆はない。

「その時は、今度こそ孤児院に送っていってください。
 わたし、なんだかもう……あそこも自分の家な気がします」

 首を傾げながら答えるに、イグラシオは苦笑を深めるが、少しだけ誇らしい。
 自分の家を、もまた『自分の家』だと感じていたことが。
 それから考える。
 やはり、は自分にとって『妹』なのか、と。
 考えてはみるが――――――今ならば、『違う』と判った。






「……

「はい?」

 を孤児院へと戻すことは諦めた。
 結局は、自分もを側に置いておきたい。

 イグラシオは首を傾げているの手を取り、手のひらへと唇を落とした。

「キスの意味を覚えているか?」

「えっと、手の甲が尊敬、手のひらがお願い、頬が親愛、額が挨拶……?」

 突然手のひらに唇を落とされ、は反射的に頬を染める。
 まさか、突然手のひらにキスをされるとは思ってもいなかった。
 そして、キスの意味を覚えているかと聞かれ、イグラシオが手のひらにキスをしたということは、なにか『お願い』があるのだろう。
 イグラシオからの『お願い』を、会話の流れから考えるに――――――『お願いだから孤児院へ帰ってくれ』といったところか。
 は上気した頬を隠すことも忘れてイグラシオを見上げる。
 あくまでイグラシオが孤児院へと帰れというのならば、のらりくらりととぼけてやる、と腹に力を入れた。

「……そういえば、手首への意味は思い出したんですか?」

 としては、話をはぐらかすために『あの夜』の約束を引っ張り出してみたのだが。
 の問いに、イグラシオはニヤリと笑った。

「今夜、ゆっくりと教えてやろう……」

 ちゅっと音を立てての手首に唇を落とし、イグラシオは方法が見つからなかったら孤児院へと帰ると決めたに己もまた腹を決める。

「今じゃダメなんですか?」

 どうやら、イグラシオはすでに自分を孤児院へと送り返す気は無いらしい。
 そう気がついて、は小首を傾げる。

「私は今からでも構わないが、おまえがおそらく嫌がるだろう」

「???」

 瞬くに意味が通じていないことは判ったが、あえて説明はしない。『今夜』『ゆっくり』教えると決めた。ついでに『たっぷり』と『じっくり』を追加してもいいかもしれない。

 わけが判らないながらも、なにやら上機嫌になったイグラシオには首を傾げ――――――考えることをやめた。
 考えなくとも、今夜ゆっくりと教えてくれると本人が言ったのだ。となれば、無理に探りを入れなくても、いずれ答えを聞くことはできる。
 それに『ゆっくり』という事は、時間を取ってくれるのだろう。
 その時に、ついでに自分の出自について説明してみるのも良いかもしれない。

 最初はきっと、信じてくれないだろう。
 でも、いつかはきっと信じてくれるとはイグラシオを『信じて』いる。

 




 イグラシオの隣を連れ立って歩きながら、はこっそりと笑う。

 トランバンは開放され、イグラシオの苦悩は取り除かれた。
 とりあえず、人心地といったところか。
 当面の自分の方向性も決まった。

 とりあえず。
 本当にとりあえずだが――――――

 これで良い、とは隣の男を見上げる。



 その腰に、ウェインから下賜された剣が誇らしげに揺れていた。






 

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