テータとイオタに手を引かれ、は建物の外へと足を踏み出す。
 すでに高い位置にある太陽に一瞬だけ目がくらみ、は子ども達の手を離した。手で瞼の上に日陰を作り、ゆっくりと瞬く。そうこうしている間に、目が太陽の光になれてきた。

 は建物の影に立つと、辺りを見渡す。

 から手を離された子ども達は、に関心を寄せることなく、すでに各自で思いおもいの遊びを始めていた。
 昨夜の森同様、むき出しの土の上を転げまわる双子の少女を尻目に、はぐるりと視線を廻らせる。『ネノフの家』と呼ばれている施設は、やはり3棟からなる施設らしい。昨夜見た月明かりに照らされたシルエットどおり、が居た建物、一回り大きな建物、他と比べると小さな建物がある。何のために3つもの建物があるのかは判らなかったが、とりあえず今のには関係がない。深く考えることはせず、さらに辺りを観察した。

 建物の裏手に畑がある。家庭菜園と呼ぶには少々、否、かなり広い。まだ収穫の時期ではないのか、実がなっているようには見えないが、青々と蔓や葉を伸ばしているのが遠目にも見て取れる。米か麦かは判らないが、おそらく穀物であろう物も見えた。さらに奥には柵があり、そこまでがこの施設の敷地なのだろう。視線を建物の裏手から表へと移動させながら、柵の範囲を確認した。すっぽりと3つの建物と畑を囲み、前庭までも含める柵に囲まれたこの施設は、もしかしなくとも日本人であるの常識から見ればかなりの土地を持っていることになる。
 が、柵の外。少し丘になっているらしい施設より下の大地へと目を向けると、広大と言って良い畑と、点在する家々が見えた。それらと比べれば、この施設のもつ土地など僅かなものだ。所謂農村だと結論づけて、は目を細める。

 間違っても、アスファルトに舗装された地面がほとんどを占めるの住んでいた町は、『農村』などとは呼べない。

 遠目に見える農夫の服装に、はため息を漏らす。

(……日本じゃないみたい)

 点在する家々を見て、は小さく頭を振った。
 どう見ても、見慣れた日本家屋には見えない。

(でも、まさか……そんなはずは、ない)

 目の前で無邪気に遊ぶ子どもの服装と、農夫の服装は、の着ているものとは少々赴きが違う。昨夜の盗賊を見た時にも思ったように、例えるのならばファンタジー世界の服装だ。簡素な作りの服に、飾り気は少ない。

(トンネルを抜けたら、そこは別世界だったって……なんの小説だっけ?)

 トンネルを抜けた覚えはないが。
 建物、風景、人々の服装……目で見て取れる情報から、は一つの結論に達する。
 ただし、ばかげている。信じられない……と、結論よりも先に頭が否定せずにはいられなかったが。

(……ここは)

 日本ではない。
 少なくとも、の住んでいた町ではない。

 青々とした下草の生える地面と、そこに落ちる雲の影を見つめ、は昨夜から何度目かになるため息をもらす。

(神隠しとかにあったら、こんな感じなのかな……)

 雲の影を見下ろしながら、は漠然と考えた。
 昔、テレビの怪奇番組で『神隠し』と特集していたのを覚えている。
 曰く、いつの間にか消えた子どもが、何十年も後に消えた時と変わらぬ姿で帰ってきたとか、なんとか。
 それらの番組を、どうせ作り話だとバラエティ番組感覚でみていた頃が懐かしい。消えてしまった子どもからしてみれば、現在が置かれている状況と似ていたのかもしれない。気がついたら知らない世界に来てしまっていた、というこの状況は。

(素人どっきり……なんてことは、ないよね?
 だとしたらお金かけすぎだし)

 昨夜もちらりと考えた、非現実的ながら一番現実的にありうることを考えて、は頭をふる。建物はともかく、山や森を仕掛けとして作ることはできない。可能といえば可能ではあろうが、という生きた人間に気づかれずそれを用意し、またそれと気づかせずにあの森の中へと誘い込むことは不可能だ。あの森へは確かに帰路の途中に偶然迷い込んだのであり、飛行機や電車にのってどこかの映画撮影所へといったわけではない。これだけの大掛かりな仕掛けを、の生活圏内にそれと気づかせずに用意することは不可能だ。

 取りとめもなく浮かんでは否定される仮定に、は再びため息をもらす。
 考えれば考えるほどわからなくなる。
 自分が立っている場所がどこで、どうすれば家に帰れるのか、が。

「……?」

 不意に小さな手に指を掴まれ、は瞬く。
 くいくいっと自分の手を引く相手に視線を落とすと……いつの間に側に戻ってきたのか、イオタがの顔を覗き込んでいた。

「……なに?」

 イオタの緑色の瞳にじっと見つめられ、は瞬く。
 首を傾げ、何か言いたいことがあるのか? とイオタが口を開くのを待ったが、イオタは何も言わない。ただじっと気遣わしげにの顔を見上げていた。

「お姉ちゃん、どうしたの?」

 少し離れて遊んでいたイータが、イオタの行動に気がつき、の側へと戻ってきた。それに続いてテータもの側へと駆け寄る。

「おなか、すいた?」

 首を傾げるテータの言葉に、には一言も答えなかったイオタが反応した。
 パッとの手を離し、建物の裏側へと走り出す。
 その姿を見送って、今度はイータがの右手を引いた。

「……何?」

 瞬くの左手を、イータに続いてテータが引く。

「こっち」

「ん、こっち」

 小さな力でグイグイと自分を引き、どこかへと連れて行こうとする双子に、は流されるままに従った。






 双子に案内され、ぐるりと回りこんだ建物の裏手には、屋根のついた井戸があった。
 雨よけのための屋根なのか、単純に必要だから着いているのかはにはわからなかったが、滑車のついた屋根の下にイオタがいる。残念ながらポンプ式ではないらしい井戸を覗き込み、滑車からのびるロープを引くイオタに、は双子の手を離すと慌てて駆け寄った。

「あ、危ない……」

 イオタが使っているのだから、枯れ井戸ということは無いだろうが、どちらにせよ、落ちては大変だ。はイオタの下へと駆け寄ると、その小さな肩を捕まえる。軽く自分の体へ引き寄せ、井戸を覗き込んでいたイオタの体を抱きしめると、イオタは不思議そうな顔をしてを見上げた。

「あぶないの?」

「じょぶ」

「いつもお手伝いしてるもん」

 とイオタに追いついた双子が口々に口を開く。彼女たちのきょとんっと瞬いた顔に、慌ててイオタを抱きとめたを安心させようという意図があるとは思えない。危ない、と引き寄せられたイオタも、あい変わらず不思議そうな顔をしていた。

「お水くみ、テータたちにもできる」

「水がめにはこぶのは、アプルハのおしごとだけどね」

「イオタもちゃんと、お手伝いする」

 つたない口調で語られた言葉に、は瞬く。
 自分の腰ほどの背丈しかないイオタが井戸を覗き込んでいたため、咄嗟に危険だと判断し、とめに入りはしたが――――――どうやらそれは完全に思い違いだったようだ。井戸からの水汲みは、彼女たちにしてみれば、日常の手伝いに含まれるらしい。とて子どもの頃に家の手伝いをしたが、井戸の水を汲むなどという重労働はしたことが無い。まして、転落の危険と隣り合わせの『お手伝い』など。
 双子の説明にとりあえずは大丈夫なのだろう、と自分を納得させてからはイオタの肩を掴んでいた手を離す。と、イオタはに向けていた視線を井戸の中へと戻し、作業を再開した。

 彼らにとっては慣れた作業だとわかってはいても、は怖々とイオタの作業を見守り、井戸そのものも観察する。
 実際に使われている井戸など、見たことがなかった。
 石で組まれた井戸の縁に、滑車のついた屋根。屋根自体に役割があるのかは判らなかったが、滑車の役割はわかる。いわゆる梃子の原理で、少ない力でより多くの水をくみ上げるための仕組みだ。イオタが引いているロープの他にもう一本のロープがあり、その先にはやや大きめの桶がつながれ、縁の上に置かれていた。イオタが使っている井戸の中へと落とされたロープの先を見ると、縁に置かれたままの桶よりは一回りほど小さな桶が結ばれている。つまり、もう少し大きな子どもであれば大きな桶で水を汲み、小さな桶はイオタたち小さな子どもが水を汲むように分けられているのだろう。
 そうが理解すると、イオタの引くロープはようやく彼の目の前へと帰還を果たした。

「お水、どうぞって」

 無言のままにへと水の入った桶を差し出すイオタに変わり、テータが口を開く。
 一番口達者なのはイータだが、イオタの言葉はやや舌ったらずな口調でテータが代弁してくれる。肝心のイオタは僅かな声すら漏らしはしなかったが、テータの言うとおりなのか、こくこくと頷いていた。

「え?」

 差し出された桶を受け取り、はイオタと水の入った桶を見比べる。
 訳がわからずしばらく悩んでいると、イータがさらに説明を追加してくれた。

「お腹がすいているとき、お水でお腹をいっぱいにするの」

 イータの説明に、テータもこくりと頷く。

「おねえちゃも、おなかすいて元気ない?」

「だからイオタ、お水どうぞ、って」

 つまり、がぼんやりと考え事をしていたのを見た子ども達が、お腹がすいて元気がないのだろうと勘違いし、心配してくれたらしい。
 双子の説明にようやくイオタの行動の意味を理解すると、は桶を見下ろした。

「ありがとう」

 と、お礼を言っては見たが、考える。

(井戸水って、飲んで大丈夫なの?)

 子ども達にしてみれば、普段から飲んでいる水だろうが。
 にしてみれば、それはまったく違うものにも見える。
 先ほど朝食として出された見たことのない形をした野菜同様、口に入れるには少々勇気が必要だ。

(汚染とか、雨水とか……大丈夫なのかな。
 あと、あれなんだっけ? なんか、口や鼻から入る寄生虫だか、アメーバ……)

 要らぬ知識は時として邪魔となる。
 神隠し同様、昔みた見た環境問題やら寄生虫特集等のテレビ番組を思い出し、は眉をひそめた。
 目の前の水はペットボトルのミネラルウォーターでも、カルキ臭いが消毒のされた水道水でもない。一応生活用水としては使われているようではあったが、お世辞にも清潔とは言えないだろう。

(……やっぱり、一度沸騰させてからの方が)

 煮沸消毒という言葉を思い出し、は冷や汗が背筋を伝うのを感じた。
 そういえば、昨夜はなにも疑問に思うことなく、老女に出されたハーブティーを飲んだ。香りから、まったく記憶に無い『おそらく』ハーブティーを。
 あの時自分の緊張を和らげてくれた温かい液体は、曲がりなりにも熱が通ったものではあったが。
 一度疑い始めてしまっては、全てが怪しく、恐ろしいものに思えてくる。

「……あの、お水は、いらないの」

 折角汲んでくれたのだから、とは何度か口へと運ぼうとはしたが、結局桶に唇をつけることはできなかった。
 ごめんね、と一言だけ詫びては桶をイオタへと返す。
 桶を返されたイオタは、不思議そうにを見上げた。
 心配気に見上げてくる双子とイオタの視線に耐えかねて、は別の話題を探す。

「今日はお手伝い、しなくていいの?」

 の手を引き、外へと連れ出した子ども達に、は聞く。
 そういえば、彼らは先ほど水汲みは自分たちの手伝いだと言っていた。正確な年齢はわからないが、の腰ほどの背丈しかない彼らにまで手伝いをさせる場所だ。きっと、水汲み以外にも手伝いはある。

「朝のお手伝いは、もうおわったよ」

「おねえちゃが、いちばんおねぼう」

「きょうはエンドリューさまがお手伝いしてくれたから、水くみもすぐにおわったの」

 自分たちだけでやると、いつもは半日かかる、と身振りを入れて双子は語る。
 その小さな唇から漏れた名前に、は首を傾げた。

「エンドリューさま、たてつけなおしてくれてる」

「……エンドリューさま?」

 『様』と敬称の付けられた名前に、は眉をひそめる。
 微かに聞き覚えの有る名前だった。
 知り合いにはいない名前であったが、いったいどこで聞いたのか――――――とも思ったが、その疑問は続いたイータのどこか誇らしげな説明に氷解する。

「あのね、エンドリューさま、きしさまなの」

 聞き覚えのある名前にわずかな希望を見出してしまったが。
 正体を聞いてしまえば、なんのことはない。昨夜自分を助けてくれた騎士の一人だ。リーダー格と思われるイグラシオという男性が昨夜この施設へと残していった少年騎士の名前が、エンドリューだった気がする。双子の話しによれば施設内にまだ居るようだが、今朝―――太陽の位置を見ると、もう正午近い―――はまだ顔を見てはいない。
 姿の見えない騎士を、は利用することにした。

「じゃあ、水汲みをお手伝いしてくれたエンドリュー様のお手伝いにいかないとね」

 は腰を落とし、子ども達と目線を合わせる。と、の提案に双子はパッと顔を輝かせた。

「あ、そっか」

「エンドリューさまのお手伝いする」

 にこにこと笑い、双子はイオタの手を取ると、施設の裏口へと駆け出す。
 双子に手を引かれながら、イオタが何度かを振り返る。が、結局は一言ももらすことなく双子と一緒に施設の中へと入っていた。






 施設の中へと駆け込む3人の子どもを見送り、はホッと息を吐く。ようやく静かになった、と。
 それから気がついてしまった。

(オタクとしては、一度はちらりとでも望むトリップ状態とはいえ……)

 水を口に入れるだけでも勇気のいる世界は嫌だ。
 たとえ生活用水として使われていると言われても、絶対に大丈夫だという保証がない限り、不安はいつでもついて回る。

(……とりあえず、昨日の場所にでも行ってみる?)

 オタクの夢、異世界へのトリップにせよ、神隠しにせよ、現れた場所から元の場所へと帰れるパターンは多い。
 少なくとも、この場で突っ立っているよりは、はるかに有意義なはずだ。

 そう結論づけると、は重い腰を上げた。