「トリスさんは、北の方の御出身ですか?」

 出会ったばかりの男の口から漏れた言葉に、トリスは驚いて瞬く。
 自分の出身地など、目の前の男が知っているはずがない。

「ええっ!? どうして……?」

「この曲は、北の地方では子守唄として
 どの御家庭でも歌われている曲なんですよ」

 軽く目を伏せて竪琴を奏でるレイムから視線を下げ、トリスは弦をつま弾く白い指を見つめる。気のせいか、女性である自分の指よりも華奢で繊細に見えた。……少しだけ悔しい。

「でも、あたし……子守唄なんて覚えていない」

 むしろ、母親の存在事体覚えていない。
 もちろん、トリスという子どもが存在するのだから、母親も当然どこかに存在するはずなのだが。
 子守唄はおろか、母親の温もりも、髪の色も、目の色さえトリスは覚えていなかった。
 自分に家族が居たということ事体が嘘臭く感じる。
 物心付いた頃には、すでに路上で生活をしていた。
 自分の家族といえば、同じように親に捨てられ、共に路上で暮して居た何人もの子ども達だ。これは家族というよりも、仲間という意識の方が強い。年少者とは助け合う事も多かったが、せっかく手に入れた食べ物を年長者に奪われる事もあった。
 そんな殺伐とした街に生まれた自分が、人並みに母の子守唄を覚えていたなんて――――――

 ほんのりと温まった胸を、トリスはそっと押さえる。
 なんとも言葉にできない、暖かい気持ちだった。

「では、トリスさんの心に染み付いていたんでしょうね。
 私の知っている男の子も……」

 言葉を区切ったレイムを、トリスは視線を上げて見つめる。
 営業を兼ねた作り笑いはそのままだったが、紫水晶のような瞳だけは彼の本心を現わすように柔和な光りを宿していた。

「その男の子が、北の地方出身だったんですよ。
 彼が小さな頃に良くねだられまして、今ではこう……」

 戯けた仕種で肩を竦め、レイムは瞳を閉じる。
 視界は完全に閉ざされたはずだが、竪琴の演奏が止まる事はなかった。

「目を閉じていても、この曲だけは奏でられるようになってしまいました」

 レイムの奏でる音色に耳を傾けながら、トリスはむず痒くも不思議な気分に包まれる。
 母親も父親も覚えていなかったが、レイムの奏でるこの曲は懐かしく、ぽっと心に灯が点るようだった。
 自分と同じように誰かが、別の場所で同じ曲を聞いて懐かしいと心慰められるのだと思うと、その『誰か』にどうしようもないほど会いたくなった。

「彼も両親の顔を覚えてはいませんでしたが、
 この曲には心慰められていたようでしたよ」

「北出身の、男の子か……」

 レイムの奏でる曲から、トリスの関心は『北出身の男の子』へと移る。
 トリスには、北の街にあまり良い思い出はない。
 母親の顔を知らず、父親がいたのかすら覚えていない。
 そんな状態で気が付いたら路上で生活していたが、同じような境遇の子どもも大勢いたので、別に悲しいとも思わなかった。
 自分だけが特別なのではない。
 ただ、毎日をどう食い繋ぐかに必死で、親を恋しむ暇がなかったとも言うかもしれない。
 両親の顔を覚えていないという男の子も、おそらくはその仲間だ。
 吟遊詩人に曲をねだるということは、彼は運良くも裕福な家庭に拾われ、あの生活から脱出することに成功したのだろう。

 ――――――自分が召喚事故を起こした当時の仲間だろうか?

 ふと、そういう思考が頭をかすめたが、トリスはすぐにそれを否定する。
 レイムは若く見える。
 どう多く見積もっても三十路には達していないはずだ。
 そんな彼が言う『昔』は、十年も経っていないだろう。
 彼の言う男の子は、自分の仲間だった誰かではない。
 そう結論づけて、トリスは顔を上げた。
 青くどこまでも広がる空は、同じように遠い北の街まで続いている。

 あの街は今でも貧しく、親の居ない子どもが溢れて居るのだろうか――――――?

 兄弟子には反対されたが、アメルの事が落ち着いたのなら、一度北の街へ行ってみたい。
 そう改めて思った。






 

(2010.10.18)
(2010.10.21UP)