海の檻歌夢 『交渉』
お話の始まる前、かと。
「それじゃあ、海賊さん。
わたしを攫ってください」
さも名案を思い付いた、とでも言うように顔を輝かせた姫君に、赤いバンダナをした青年を頭を押さえた。
「俺達は海賊じゃないし、たとえ海賊だったとしても、
請われてハイそうですかなんて、人をさらえる訳がないだろう」
「でも、先程『キャプテン』さんは……
御自分のことを『正義の海賊』だと、おっしゃっていましたよ?」
と、小さく首を傾げながら、NoNameはキャプテンと名乗った男――――――キャプテン・トーマスへと顔を向ける。
NoNameと目があったキャプテン・トーマスは、だらしなく相好を崩した。この男、普段は硬派と勤勉さを合わせ持つ頼りになる男なのだが、こと女性―――それも美女―――が絡むと途端に軟派な側面を見せる。
大勢の船乗りの命を預かる立場にありながら、可憐な姫君の『お願い』に、鼻の下がみごとに伸びたこの顔を、遠いエル・フィルディンの地に居る力の賢者の前に突き出してやりたい。等という物騒な衝動が、アヴィンとマイルの思考をよぎるのも無理はなかった。
「そうそう、俺達は正義の海賊。
弱きを助け、悪を挫く――――――」
「キャプテン、『正義』と『海賊』を同列に語るのは、無理があります」
僅かに眉を寄せた副長の言葉に、キャプテン・トーマスはだらしなく崩れた顔を引き締めた。
「しかしだな――――――」
「トーマスさんが美人のお願いを聞きたくなる気持ちはわかりますが、
だからって、なんでもホイホイ聞くのは、良くないと思いますよ」
NoNameは、静かにトーマスを諭すマイルに、こっそりと視線を移す。
『朱紅い雫』の頃よりも、髪の毛が長い。
隣に立つアヴィンも、襟足にかかる髪が『朱紅い雫』の頃よりも長い気がした。
これが、『彼等の』すごして来た『時間』なのだろう。
『モニターの外』でゲームをしていただけの『NoName』と、『モニターの中』で日々の生活を営んできた『彼等』の。
それていく思考を戻し、NoNameは困ったように眉を寄せる。
他の常識人はともかく、キャプテン・トーマスには『猫を被る』方が要求が通りやすいようだ。
となれば、まだ地を見せるわけには行かない。
「……わたしの大尊敬するおじいさんの言葉に、こんなのがあります」
ルカ副長とマイルに諭されているキャプテン・トーマスをしり目に、NoNameはアヴィンを見上げる。
この言葉は、きっとアヴィンになら効果がある。
彼自身が、ある人物から言われた言葉であるのだから。
「『世の中に偶然はない。
人と人とが出会ったからには、そこには必ずなんらかの思惑があるはずだ』」
アヴィンの翡翠色の瞳を見つめ、NoNameは厳かに囁く。
正確な台詞は忘れたが、妹と親友を失った時、アヴィンが魔導師から受け取った言葉だ。
そして、この言葉は確かな効力を見せた。
「……わたしがあなた方に助けられたのも、
きっとなにか意味があってのことかもしれません」
そう続けたNoNameに、アヴィンは息をのみ、思考する。
視線を彷徨わせ、マイルを見、ルカ、トーマスと視線を移し、最後にもう一度NoNameに視線を戻した。
「……あんたは、なんで俺達に攫われたいんだ?」
NoNameの要求に、難色を見せていたアヴィンからの、譲歩ともとれる一言。
それに、NoNameは内心でほくそ笑む。
「わたしが先に乗っていた定期船には、わたしの護衛がいます」
正確には、護衛という名の見張りが。
「……だったら、やっぱりあんたは定期船に――――――」
「彼等の元に戻れば、わたしはいずれ殺されます」
これは嘘ではない。
可能な限り、あの宰相に気付かれぬように振る舞ってきてはいたが。
如何せん、薬が効きすぎた。
本来ならばまだ宰相の操り人形であるはずの君主は、NoNameの影響をうけ、すでに自立を始めている。このまま宰相の側にいれば、君主に悪影響を及ぼすNoNameは、暗殺されるか――――――
「わたしには、欲しいものがあります。
それを手に入れるまで、死にたくはありません」
「あんたの、欲しいもの……?」
「大好きな人が、生きて幸せになる未来」
眉を寄せたアヴィンに、NoNameは素直に答える。
こればかりは、虚勢を張っても意味がないし、なにより、嘘をつく必要もない。
NoNameが望むものは、唯一つ。
いずれ訪れる『闇の太陽』の驚異を退けることでも、『異界の月』の終息でもない。
どんな経緯・方法をもって、自分が『この世界』にいるのかは解らなかったが。
『この世界』に、『この時代』に『在る』ことができるのなら、NoNameはただ、一つの事を願い、望む。
とかく、マクべインの言葉を意識したことはないが。
この時代に生き、立ち向かえるチャンスがあるのならば。
たとえそれがどんな困難であれ、立ち向かわずにはいられない。
NoNameの願いは唯一つ。
あの娘に。
否、この時代なら、まだ少女だ。
あの少女に、未来を――――――