まんじりともしないまま、朝を迎えた。
佐助が言ったように、が落ち着いてから全員で武器を持って寝室に篭もり
朝日が昇る時刻まで一睡もせずに、化け物に備えたせいで、非常に眠い。
「…………そろそろ、着替えてきます…、行こう」
「…………………会社行くんだ、お姉ちゃん」
「も、仕事行くんでしょ?」
「シフトに空けれないから」
「私も一緒です」
立ち上がると、佐助も一緒に立ち上がった。
「部屋の外で控えとくよ」
「…すいません」
「いやいや。昨日の今日だしね。警戒するに越したことは無いでしょ」
疲れがみえる自身やと違って、佐助はごく平然としている。
見ると、幸村政宗小十郎、彼らも全員対して堪えた様子がなく、は違いを思い知った。
流石は戦国武将。
現代人とは基礎からして違う。
その体力を分けてほしいと思いながら、二階に上がって、の部屋に入る。
とんっと、扉の閉まる音。
言葉もなく、二人して無言で着替え始める。
いつものように会話をするには、昨日のあれはショックが強すぎた。
しかしけれども、いつまでも重苦しいままいても仕方が無い。
衣擦れの音しかしない部屋の中で、はちらりとタイミングを窺うために
の方を見て、思わず言葉が口をついて出る。
「……ちゃん、髪、それで大丈夫?」
胸まであった髪は、肩につかない位の長さになってしまっている。
……綺麗に、揃っているのだけが救いなのだろうか。
外に出てもおかしい髪形では無いけれど、揃えようか?と聞くと
無言で首を横には振った。
「ううん、大丈夫………なんか、ごめんね」
「…なにが…とは言わないけど」
その沈み込んだの表情に、は言葉を詰まらせた。
主語のない言葉だけれど、姉であるにはきちんと分かる。
が言いたいごめんなさいは「お父さんとお母さんの事が好きでごめんなさい」だ。
昨日の夜に、泣きながら言った内容を、はに詫びている。
それを分かっているから、は答える言葉に迷う。
両親は確かに良い親ではなかったけれども、にとっては確かに二親なのだから
好いていることを負い目に思うことは、死んで悲しいと思うことを負い目に思うことは、無い。
無いけれど、は確かにそれを負い目に思っている。
が、両親のことを、好きでは無いから。
お姉ちゃんは好きじゃないのに、自分だけが好きでごめんなさい。
優しくして欲しくてごめんなさい。
愛して欲しくてごめんなさい。
昨日の夜、泣き出したに以外は全員驚いていたけれど、
という人間の内側は、脆くて弱い。
両親の突然の死も、ばっちりと心の傷になっている様子を
思い出して、は妹が心配になる。
外見だけ、強くなってくれたんだけどね。と自分の教育が悪かったのだろうかと
考え込んでいると、が不思議そうな顔をしてこちらを呼ぶ。
「お姉、ちゃん?」
それにはっとして、は慌てて考えを止める。
いけないいけない。仕事に向かう朝なのだから、
そうそう時間を食いつぶしてはいられない。
「………とくに、そう謝ってもらうことでもないから。
謝るんなら小十郎さんに謝りなさいな」
「はい」
頷くに微笑んでやる。
ほっとした様子を見せるに、もまた、ほっとしたのだった。
…大丈夫、謝ることないのよ。
お前のそれも、正しい反応なんだから。
朝ごはんを作ってから、会社に向かったは、会社の席に着きながら
寝不足で痛む頭を抑える。
「……さすがに…堪える」
十代の頃は、徹夜も特に問題は無かったが、二十を過ぎると途端にこれだ。
これが老いって奴か、といささか気の早いことを考えていると、会社の電話が鳴る。
受話器に手を伸ばすが、その前に向こうのシマの同僚が電話を取った。
伸ばした手を引っ込めようとする、その前に「さん、お電話です」
同僚に電話を回されて、は受話器をとった。
「はい、お電話代わりました、です」
「あの、早くにすみません。私■■署の蔵前と申します」
「……あぁ、お世話になります」
聞き覚えのある名前と声だが、それでもは身体を強張らせた。
蔵前。
両親が死んだときに世話になった刑事だ。
「先日は、どうも。線香もあげていただいて」
「いいえ、葬儀に参列も出来ず」
「それで、今日はどのようなご用件でしょうか。何か確認されたい事が?」
「いえいえ。あの件については、確認事項は全て済んでおります。
ご協力感謝いたします」
「いえ…………事故とはいえ、事件に巻き込まれて父も母も死んだのです。
それに協力するのは、市民の義務ですから」
どうしても、刑事というと身構えて堅苦しい言い回しになる。
家に、戸籍のない人間がいる分余計にだ。
しかし蔵前は、両親を不慮の、しかも事件に巻き込まれる形で失った
年若い哀れな娘というフィルターで物を見ているせいか
ありがとうございます。と、好意的な物言いでの堅苦しさを受け止める。
……………………この刑事と初めて会ったのは、年末だった。
年末の、雪が降っていた日。
買い物に行くといって出かけた両親が、帰らぬ人となった日。
警察署の死体安置所で、両親の遺体の確認を済ませたとに
少し話を聞かせて欲しいと声をかけてきたのが、蔵前だった。
前から来た車を避けようとしての、崖下への転落事故。
そういう風な説明を受けて署に来たは首を傾げたが、
しかし前から来た車がよりにもよって強盗犯の車で、
しかも犯人の乗っていたトラックに接触しての、転落という疑いがあることを
そこで聞かされて、は驚いたものだ。
死ぬときまでドラマチックなのか、あの人達は。
結局、接触しての転落でなく、接触は無かったものの、狭い道幅の山道を
急スピードで来た車に驚いて避けようとしての転落事故、と
最初に聞いたとおりの事故内容ではあったものの、
それでも強盗事件に巻き込まれたことに代わりは無い。
犯人が捕まったときの報告やらなんやかんやで、五度ほど蔵前とはやり取りをしているが
…しかし慣れない。
いいようのない警戒心の芽生える相手の出方を待っていると
彼は電話の向こうで躊躇いを見せる。
「……あの?」
「いえ、お耳に入れたい事があって、電話した次第なんですが」
「はぁ……」
「………昨晩、犯人が留置所内から消えました」
「…………すいませんが、少々お待ちください」
その洒落にならない内容に、思わず保留ボタンを押して、
電話をコードレスに持替える。
「すいません、ちょっとしばらく席外します」
すでに出社している同僚に声をかけて、保留解除しながら
トイレに駆け込んでは電話に向かって声をかけた。
「……あの、消えたとは…脱走じゃなく、ですか?」
「脱走というには、少し様子が違うのですが……
無いとは思いますが、周辺で不審な気配がありましたら、署まで連絡をいただければ」
「わかりました」
真剣な顔で、は頷く。
犯人がもし仮に脱走していたとしても、接触事故を起こしかけて勝手に落ちた相手の
遺族を襲うとは思えなかったが……気をつけるに越したことは無い。
しかし、がそうして頷いたのにも関わらず、蔵前は言いよどんだ気配を見せる。
「……ただ…」
「ただ?」
「いえ…………そうですね、他言無用でお願いします。
…犯人は、おそらく生きてはいません」
「……留置所内で、殺されたということですか?」
………話が重過ぎる。
そこまで話していいものなのかと、は心の中で思ったが
しかし、話してくれるものを止めることもない。
黙って相手の言葉を待つと、やはり蔵前は言いよどみながら
歯切れ悪く答える。
「…それがなんとも…監視はいました。しかし、一瞬目を離した隙に
犯人は消えていました。おびただしい量の血液をと、足の指を残して」
「………は」
蔵前の言葉に、は言葉を詰まらせた。
残っていたのは足の指だけ。
おびただしい量の血。
消えた犯人。
なんだその、ホラー小説か、推理小説のような展開は。
しかし、蔵前は絶句するを余所に、言葉を滔々と電話の向こうで紡ぐ。
「私も見ましたが、あれは人間がやったとも思えないような、綺麗な切り口でした。
…しかし、あれでは仮に生きていても、満足に動けますまい」
「は、い」
頭に入ってくる情報の山に、はただ頷くばかりだ。
人間がやったとも思えない、綺麗な切り口?
それは…。
瞬間的に、推測とも呼べない、妄想がの頭の中に広がる。
しかし、何故だかにはその妄想が間違っているとは思えなかった。
事件の犯人を襲ったのが、あの、化け物だと。
「それでは、マスコミには全力で緘口をひいておりますが
万が一の際には、何も喋らないよう、よろしくお願いします」
知らず、受話器を握る手に力を込めていたは、蔵前の言葉に、はっと意識を戻した。
「えぇ、はい。分かり、ました。わざわざ、ありがとうございます」
「それでは」
……ぶつりと、電話が切れる。
はコードレスの受話器を眺めて、トイレの壁に頭をもたせかける。
動かないときには動かないし、動くときには動く、そういうことか…。
化け物に向かって投げた、コップの断面を思い出す。
最初からそうであったような、綺麗な切り口。
綺麗に切られたの髪。
昨日現れた化け物。
昨日消えた、犯人。
その足の指は、人間がやったとも思えないほど綺麗に切断されていた。
これだけで結びつけるのは早計だが、しかし、共通しているのは
「……………事故現場……かしら…?」
ほぼ関わりの無い、自分達と犯人を結びつけるのは
両親の事故以外にはあるまい。
インターネットから化け物を探す線は諦めて、
図書館でなにか手がかりでもと思っていたのだけど…。
幸いにして明日は土曜日だ。
事故現場に行ってみるかと思って、は手の中の受話器をぎゅっと握り締めた。
→