異変は、夕食を食べ終えた頃に起こった。
珍しく、誰もが夕食を食べ終えても、どこぞへ散らばらなかったのも…
その予兆だったのかも、しれない。
「幸村さんは、本当に武田さんが好きなのですね。
人は城、人は生け垣、ぐらいしか私は知らないのですけど」
「人は城、人は生け垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり。でござるな。
…お館様の人をあらわすような、良いお言葉だ。
某、お館様ほど天下をとるに、相応しい方はいないと思っておるでござる」
「………一度、会ってはみたいものですけど」
「うむ、会わせてみたいものだ。お館様も、殿は気に入られよう」
叶わないことを知っていながらする会話は、気軽に語る夢物語のようなものだ。
一緒に食器を片しながらする会話も久しぶりで、
は幸村との関係が戻ったことに、唇を綻ばせる。
「機嫌が、良さそうですな」
「えぇ、少し」
頷くと、幸村もそれは良かったと頷いた。
食器を片して居間まで一旦戻ると、テレビ画面からはクイズのイントロの音が聞こえている。
真剣な顔をしてクイズを凝視すると、それに付き合っている様子の政宗と小十郎。
佐助が居るのは、多分幸村を待っていたのだろう。
「ちゃん、お風呂はいらないんだったら、
他の人に入ってもらうよ。いいの?」
「ん。いい」
一番風呂派のが、の問に頷く。
そんなに、面白いかしら。
頭が良い人間を集めた!本格派クイズ!!という触れ込みのクイズ番組に視線をやって
それからはこういうものに興味もないのに、分かるわけも無いなと
理解を諦めた。
なにせは、クイズだとか、そういうものにはあまり熱くならない性質なので。
「とりあえず誰かお風呂入ってしまってくださいな」
「じゃあ、ちゃん入りなよ」
「私ですか?」
「某達は後でいいでござるよ」
「そうしろ。俺たちはこれが終わってから入る」
「え、あー……それ、じゃ、あ」
譲る真田主従に、に付き合うつもりの伊達主従。
それぞれの様子を見ながらが、遠慮しながら頷こうとしたその瞬間。
ぞくぅっと、背筋に寒いものが走った。
頭の天辺から爪先までが震えるような、恐ろしい気配。
他の面々も、それを感じ取ったようで、皆が皆、緊張に顔を強張らせている。
居間の空気が、一瞬にして凍りついた。
流れるテレビの音だけが、壮絶な違和感を持って、日常を垂れ流している。
…………来た、のだ。
来た。
何が来たか。
―――――――化け物が。
は唾を飲み込んだ。
切望していたせいだろうか。
それとも、向こうさまが気まぐれを起こしたのだろうか。
はたまた、こちらが何かを?
現れた理由を考えながらも、震える指先を掌に食い込ませ、は油断なく辺りを見回した。
「っ!!」
の足元から、混沌色が広がる。
もともとの床の絨毯が、混沌色に侵食されて見る見る間に塗り変わる。
声を上げる前に、腰を浮かせていた佐助に抱きかかえられて、佐助が横に飛ぶ。
一気に台所との境の壁まで連れられて、は目を見開いたまま言葉を出せない。
混沌色からは筋肉がむき出しになった腕が突き出て
の立っていた場所に向かって伸ばされていた。
あのまま、呆然と突っ立っていれば、どうなっていたか。
想像するのはたやすい。
腰を浮かしていた政宗と小十郎が、立ち上がって警戒の姿勢をとる。
も同じく。
幸村は、警戒しながら、と佐助の居る位置へと並んだ。
食卓を挟んで二つに分かれた形になったが
今の位置から見ると、同時に食卓の傍に居る化け物を挟んだ形にもなっている。
「政宗殿、間合いはそちらに合わせるでござる」
「Okey。武器が無いのが手痛いがな」
「武器ならあるよ。旦那」
佐助が懐から小刀を取り出して幸村に渡す。
政宗と小十郎にも、投げ渡す。
「それぐらいしかなくて、悪いね」
「いいや、十分だ」
「帰ったら、後で返してよ」
全員の手に、武器が渡る。
と、は一歩下がった。
彼らの足手まといになる。
ようやく現れた化け物。
これを逃せばいつ現れるのかは分からない。
帰るために、捕まえる気なのだと、考えなくても分かった。
しかし。
にゅぶり。
飛び掛るその前に、不快な音を立てて混沌色がざわめいた。
全員が息を呑んで、その挙動に身構える。
広がった混沌色のその端を波打たせながら、腕が中に消えて行く。
逃げる?
違う。
攻撃に来るのだ。
床に広がった混沌色が、じわじわと収束してゆく。
佐助が懐から出した苦無を投げつけるかどうか、迷った素振りを見せて
結局それを止める。
「攻撃を始めたら、何が起こるか予想も付かないし…ちゃんを連れて逃げるんだ。
出来るよな、ちゃん」
「はい」
「今日はもう、どちらにせよ帰ってこぬ方が良い。
世話になったでござる」
「はい。こちらこそ」
次に出てきたときこそがと、別れの言葉を告げる両者には頷く。
も同じようなことを言われているようで、黙って彼女は頷いたあと、を見た。
は姉らしくに頷き、もまた、無言で是を示した。
じりっと、がのほうへ向かって走る体勢をとる。
縮まってゆく混沌色を、誰もが注視し、息を潜めていた、その瞬間。
混沌色が消え去ったときが、化け物の次の攻撃のタイミングだと
誰もが思っていた予想を覆し、奴は攻勢に出た。
「な!」
政宗と小十郎のその目の前に、ぐばりと混沌色が広がる。
声を上げながらも、小刀を構えようとする政宗たちだったが
その手がぴたりと、止まった。
二人を合わせたよりか、もう少し大きく広がった混沌色の
その中に、今までにない事が起こっていたからだ。
混沌色の中。
馬に乗って走る軍勢の姿が、そこには映し出されていた。
まるでテレビのように、鮮明に…山間の道を走る青い衣の集団。
その色に、は、来たときの政宗の鎧の色を思い出した。
そうして、その予想は当たっているようで、集団の先頭には
誰も騎乗していない馬の姿が二つあった。
「あ、れ…?」
化け物の姿は、見当たらない。
それもおかしいけれど、よくよく見れば、走っている軍勢は
繰り返し繰り返し同じところを同じように走っているように見える。
同じ形で折れた枝。
同じ形で生えた巨木。
一際それを意識させるのが、空席の先頭のその二つ後ろ。
馬で駆ける男が、同じタイミングで、同じように咳をする。
そんな偶然が、あるものか。
おおよそ五秒間隔で、同じ場所を同じように、駆け抜けるその姿は
確実に時間を巻き戻されているのだと、には断言できた。
「どう、いう……」
思わず呟いただが、政宗と小十郎が動けていないのにはっとする。
大切なものを残してきて、それを目の前で見せられて
動揺しない人間が居るか?
固まらない人間が居るか?
ましてや、帰れると、そこに帰れるのだと思ったタイミングで
それを出されて、これ以上ない餌が、あるものか。
これは、罠だ。
気が付いた瞬間、ざっと血の気が引く。
危ないと、叫ぼうとする。
だけれども、間に合わない。
動けない政宗と小十郎の背後に、混沌色の穴が広がる。
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