………ふぅん、優しいのね。
そう言う、女の幻聴を聞いたせいだろうか。
並行世界という難物に頭を悩まされながら、明け方にようやく就寝したは
悪夢を見ていた。
悪夢、といっても幽霊に追いかけられたりだとか、そういった類の夢ではない。
過去の嫌なことがそのまま目の前で繰り返される、悪夢だ。
は小さな家の、小さな部屋に立っていて
部屋の中には、小さな女の子と、机に突っ伏した女が一人。
目の前で鬱々と俯いている女の姿を見ながら、小さな、八歳ぐらいの背格好のが
大きなの目の前で、ぎゅっと拳を握り締めた。
「おかあ、さん」
「なに」
精神を病んだもの特有の、ぎょろぎょろとした空洞な目で、母親が小さなを見る。
「おかあさん、ごはん、つくったよ」
小さなが、心を病んだ哀れな母親の機嫌をとりながら
にこっと笑って話しかける。
その情景には覚えがあって、あぁ、これは最初のときの夢かぁと
は夢の中で夢を自覚しながら、苦々しく思った。
こういう類の悪夢を見るときは、大抵明晰夢で
夢を夢だと自覚して、非常にはっきりと意識があり、考えることもできる。
いらないんだけどと思いながら、は無駄だと分かっていつつも
小さなに手を伸ばした。
もう、そんな人放っておいて、外で遊んでくるとか
ご飯食べるとか、の面倒見るとか。
もっと、有意義なことしなさい。
その人には何をやっても、無駄なんだから。
結末の分かっているものほど、虚しいものは無い。
の手は小さなには届かず、病んだ母親が面白くなさそうに声を上げる。
「ふぅん」
ふぅん。
……本当に、面白くなさそうな声で言って、母親は、彼女は
不安げながらも、何かの期待を込めた目をしているの顔を覗きこんで
「ふぅん、優しいのね」
嘲るような、本当に馬鹿なものを見る目で口調で、そう、言った。
だから、もっと有意義なことをすればいいと、言ってあげようと思ったのに。
自分の子供になんて真似をするかなぁと思いつつも
は両手を頭の後ろで組んだ。
まぁ、仕方ないといえば仕方が無い。
この頃というのは、妊娠、勘当、駆け落ちの大恋愛を経て
母と結婚した父親の二重家庭。
つまり、別のところに内縁の妻と子が居た事が発覚した時期で、
同時に、その衝撃の事実によって、欝になった母親が
消極的なネグレイトを起こすほど、一番病んでいた時期だ。
しかも坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの精神で、
この頃、父に面立ちが似ていたは憎まれていたことだし。
仕方ない仕方ない。
大きなと同じように、小さなも仕方ない仕方ないと思っているようで
小さなは、一瞬傷ついた表情を見せたものの、すぐにそれを覆い隠す。
金だけ入れて帰ってこなくなった父親を、酒を浴びるように飲みながら待つ母親は
少し前からご飯も洗濯も掃除も出来ないぐらいに、疲れてしまっていて。
だから、こんな風に言っても仕方が無い。
仕方が無いけれども、お酒ばかり飲んでいては身体に悪いから
少しでもご飯を食べてもらわないと。
こんな風に、嘲られて憎まれても、それでも母親が好きな
小さなは健気に、母親の腕に手を置いて揺さ振る。
「でも、ごはんは食べないと駄目だよ、おかあさん」
「…うるさいわね…いいじゃない」
「よ、よくないよ」
「どうよくないってのよ、え?説明してみなさいよ、」
この、この母親の台詞が全ての元凶なのだと、
後年になって何回思い返したことか。
やっつになったばかりの子供に、納得できるような説明が出来るわけが無いと
そう高を括っていたのだろう母親は、しかしを舐めていた。
小さなはその言葉にぱっと顔を上げて、瞳をらんらんと輝かす。
ほんとう?
お母さん、説明できたらご飯食べてくれる?
そう表情で雄弁に語って、はにこっと笑って口を開いた。
「あのね、まずほごしゃがいないと、私もも施設に入れられちゃうでしょ?
私、ほかの子といっしょの建物で生活するの、ぜったいいや
あと、お金の支払方法もわかんないの。
水道代とか電気代とかガス代とか。
あとねぇ、あと、お母さんがこのまま死んじゃうと
お父さんもさすがにあの人とは結婚できないだろうし、片親になっちゃうでしょ?
そしたら色々と世間の目が、不自由だと思うの。
外聞とかっていうんだっけ。先生が言ってた。
片親だと、いろいろくろうするのよ。就職とか、進学とかって。
…だからねぇ、色々だめだから、お母さんにご飯食べてほしいの」
「……………………」
母親は暫く小さなの顔を、呆気にとられた表情で見つめていたが
やがてがらんどうの瞳のまま、立ち上がり歩いてゆく。
その先にあるのは台所で、小さなは母親がご飯を食べる気になったことに
にこにこと顔を輝かせている。
………この時の気持ちをはよっく覚えている。
この時が思ったのは、あ、なんだ。お母さん
(利己的な)私が駄目なの!って理由をつければ動いてくれるんだ。
ということだった。
酷い勘違いもあったものであるが、更にいけなかったのは
そういうことを言うたびに、母親が面倒になったのかなんなのか
動くようになってしまったことであった。
無論、ただ優しくしたのでは嘲られる。
自分勝手な理由をつければ、言う事を聞いてくれる。
するとどういう事が起きるかというと、優しくしたいけれども、冷たくされるのは嫌なの中で
優しくしたいと利己的な理由がイコールで結びつき
最終的には母親の態度がトラウマになったのもあって、
今のように、利己的な理由が無いと優しく出来ない。まで進化するわけである。
………進化だろうか。それは。
自分の思考に自分で突っ込みを入れて、は遠ざかっていく小さなと母親を見送る。
虚ろな母親と、それでも嬉しそうな、小さなの後姿。
このまま、母親とと三人で暮らしました。
で、終わっていれば、まだ(と、それからにとっては)ハッピーエンドだったのかもしれないけど。
結局…このあとどうなったかといえば
五年後に、向こうの女と破局した父親が恥知らずにも戻ってきて、
すっかり元鞘に納まり、母親はすっかり回復。
家族(二人)は幸せな形に戻りました、という(両親にとっての)ハッピーエンドになったわけで。
そうして、いろんなトラウマを負ったとだけが、彼らに置いてけぼりにされた。
戻ってきた父親に縋りついて、幸せそうにする母親を見たときの
怒りとも絶望とも悲しみともつかない感情は、未だに良く覚えている。
私達を置いて出て行った人に、良くそんな幸せそうな顔が出来るのね。
あぁ、あなたは、何もしていないものね。
ただ、私達に当り散らして、座って口をあけて待っていただけだもの、ね?
じわりと目の前が赤く染まって、ぷつんっと、両親に対する感情が焼ききれた
あの瞬間も、よく、覚えている。
まざまざと脳裏に描けるぐらい、鮮明に。
………まぁ、良くある、ありがちな話だ。
そして、怒っても悲しんでもどうしようもない、仕方の無い話、でもある。
親も子も、結局他人であるからして、相手が思い通りになるとは限らない。
だから、例えばが、優しくしたいのに、自分が!
という利己的っぽい理由をつけないと出来なくなったり
が「敵」には毛を逆立てた猫のように、所構わず噛み付くようになったり
無闇に空手を習い始めて強くなろうとしたり
間近で、駆け落ちまでした両親の仲が壊れたのを見たが
恋に興味がなくなってしまったり
はたまたその当時の記憶の薄かったが、壊れた後の家庭を見て
幸せな家庭や、理想の父親像を持つ人に、強い憧れを抱くようになったり
そんなことがあるにも関わらず、両親がそれに対して悪びれることが無くても
それはそれで、仕方が無いのだ。
だって他人だもの。
肩をすくめて、は思う。
そして。
結局そうなってしまったのだから、もも
そういうどうしようもない自分と、上手く折り合いをつけながら過ごしてゆくしかない。
どんなにひねていても、はで、他の何者になれるわけじゃなし、
なりたいとも思わないのだから。
「…と、いうことを本当にそう思っているのだけれども、
こういう夢を見るってことは無意識下で、今の自分に不満があるって言うこと?
それともあの声を聞いたような気がしたせい?」
腕を組んで、は部屋の壁にもたれかかる。
嘲る母親の声は、小さなの心を抉り取るようにして傷つけた。
それを思えば、それがキーとなってこの夢を見たのだ、で理屈は通るのだけれど。
考えながら、それは違う気がするなぁとは呟く。
「それとも…はたまたそうじゃなくて、無償で優しくしすぎると
また傷つけられるかもしれないから、利己的な理由を作って
自己防衛をしておきなさいよ。という、無意識の警告、かしらねぇ」
文字通り、降って湧いて出た四人の顔を思い浮かべながら
は頬に手を当てて、あらあらと呟いた。
思い返せば確かに、無償で優しくしすぎているような気がするが、仕方が無い。
だって、身一つの彼らに利己的な理由を求めるのは、酷く難しい。
しかし、全くそれはそれでまた、面倒なこと。
「自分のことなのにままならないものね」
無意識下も律せてしまえば楽なのに。
それが出来ないから無意識とわかっていながらも、は夢の中でため息をつく。
あぁ、嫌だ嫌だ。
今日は考えすぎて頭が痛くなってるのに、どうして夢の中でまで考えなければいけないのかしら。
どうして明日にしてくれなかったんだろうと、これが明晰夢であることを恨みつつ
はもう姿も見えなくなってしまった母親と、それから小さなの姿を追うように
彼女達が消えていった先を見た。
一月前に死んでしまったばかりの母親の姿を見ても、
の心には、なんの感慨の湧かない。
それを悲しいと思いながら、は早く目が覚めないかなと思った。
いい加減、夢の中で夢と自覚しながら考え事をするのも飽きた。
…自力で、起きてしまおうかしら。
腹筋に力を込めて、身体を目覚めさせようとした瞬間。
「……………ぎ る わぁあああああああああああ!!」
爆発的な声量をもって、声が、の夢を木っ端微塵に破壊した。
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