見る間に顔の唇が緩まり、にちゃりという音ともに
赤い液体が玄関に滴り落ちた。
途端に、つんとした血の香りがより一層濃くなって
あぁ、あれ、血なんだと凍りかけたの頭が認識する。
粘度が高い血液は、断続的に顔から吐き出され、
びちゃりびちゃりと音を立てて玄関に広がってゆく。
誰も、動けない。
も、幸村も佐助も、政宗も小十郎も
ただその光景を黙ってみているだけで、誰も動けない。
この場に居る全員が、恐怖に縛られて、身体を自由に動かすことは適わなかった。
そうして、一通り玄関を血の海にした後、顔はゆっくりと口を閉じ
同時に穴も狭まってゆく。
暫く後、ぷつりと穴が消えた後、目を潤ませながらは息を吐こうとして
「ぎゃああああああ!!」
突如として、血の海から突き出た腕に大声で叫んだ。
まるでそこから生えるようにして現れた腕は、
次の瞬間ごろりと玄関に転がった。
生白い腕は、肘の辺りで綺麗に切断されて骨をのほうに見せている。
その切り口は、穴に投げて切断されたコップを思わせるように綺麗で
そこから穴の存在を連想したは、視界の端に混沌色を見つけて、ひっと息を呑む。
穴は、いつの間にか政宗の丁度後ろに出現していた。
消えたときと同様に、じわじわと空間を侵食して混沌色の穴は広がってゆく。
その穴から赤色の指がゆっくりと現れ、政宗の方へと手を伸ばす。
その視線に気がついたのか、政宗が後ろを向き、そして声にならない悲鳴を上げた。
それに連鎖して、もきゃああという悲鳴を上げる。
「も、もうやだあああああ!!」
そこまでで、耐え切れなくなっていたの心はぶっつりと切れた。
ぼろぼろと決壊して流れる涙を拭うことなく立ち上がり、
の手を掴んでその場から走り出す。
逃げてんじゃねぇ!という叫び声が聞こえたが知るものか。
玄関から反対の方へと駆けて、一番奥の水周りの引き戸を開け
脱衣所の窓を鍵を外して叩き開ける。
がしゃぁんという激しい音ともに開いた窓から
這い出ようとしただったが、窓の外を見て愕然とする。
窓の外、少し離れたそこに、見慣れた混沌色が待ち構えるように蠢いていた。
「あ……」
小さく声を漏らして、は一歩後ずさる。
あれ、どうしてこんなところにこれが居るのだろう。
さっき、あの青い人を狙っていたじゃないか。
もしかして、あの人はもう…。
それが終わったからこっちに?
ならば。
思考が巡ったところで、ぬぅっと穴から赤い指が現れた。
続いて赤い掌が現れて、赤い腕が見えるようになる。
恐怖から立ちすくんで動けなくなるの髪を指が絡め取り
「お姉ちゃん!」
「痛っ!!」
の金切り声がして、ぱんっと窓が閉まる。
髪の毛が一房挟まっては思わず叫んだが、は気にすることなく
窓の鍵を閉めて桟を抑えた。
「い、痛い痛い痛いっ」
涙声ではぐっと壁に手を当て身体を突っ張らせる。
窓の外から、髪の毛がひっぱられているからだ。
ひっぱっているのは、…考えると恐怖で体がすくんでしまう。
けれどもこのまま抵抗しなければ、穴に吸い込まれてしまうのでは無いかと
ぞっとしない想像をしながら懸命に身体に力を込めて、そのまま暫く。
息が詰まるような緊張の後、のひっぱられていた髪の毛から
すぅっと抵抗が消えた。
そのままその一房は窓の隙間から抜け、は突っ張っていた姿勢のまま
どんっと音を立てて床に倒れこんだ。
「あ」
脱衣場の天井にあの混沌色が見当たらないことを確認して、
はまた溢れてきた涙を拭う。
…怖かった。
ぐすっと鼻を鳴らして、それから妹に礼を言おうと彼女の方を見ると
はなにやら気難しげな顔をして、からだをもぞもぞさせていた。
「…?」
「おねえちゃん」
名前を呼ぶと、彼女は少し泣きそうな顔をしながらこちらを向く。
、大丈夫よ、大丈夫。もう居ないから」
「うん、うん。そう、そうなんだけど」
「じゃあ、えぇと、あの人たちのこと?」
「いや、それもなんだけど」
もぞもぞとさせながらは、の寝巻きの裾をきゅっと握った。
不審に思いながらも、その手に自分の手を重ねてゆっくりなでてやると
途端にかぁっとの顔が赤く染まる。
「あの、?」
「…あの、お姉ちゃん…ごめん」
「だから、なにが?」
「…なんか、パンツ湿ってる…」
………………。
…言いたいことを正確に理解して、はうんと声を漏らした。
力のない声だった。
「うん、いや、うん…怖い話苦手なのに、良く頑張ったね、ごめんね」
「がんばった、ほめて」
気が抜けたのか、と交代するようにぐすぐすと
鼻を啜り始めたの背中を撫でながら、はとりあえず
のパンツは手洗いしてから洗濯機を回そうと思った。
今までの経緯からすれば、いくらも呑気な思考だったが
とりあえず危機は去ったのだと、本能が言っているのでそれに従う。
「あの、とりあえずスーツは無事?」
「ブルマはいてるもん…」
「うん。とりあえず、そのまま座らないで、スカート上げて」
ぐずぐず言っているのスカートの裾を、後ろから引っ張って
はスカートまで被害を被らないようにする。
一気に頭が冷えた気がして、良かったのか悪かったのかと思いながら目元を拭うと、
玄関口のほうから賑やかな声がするのが耳に入った。
はぁ?!だの、あぁ!?だの。
いや、本当でござる。だとか、本当なんだって、見たでしょ?だとか。
勝手に説明してくれているらしい赤と緑の主従に、心の中で手を合わせ
は無言で妹の頭を撫でる。
「怖かったねぇ、
「…あれなに」
「知らないけど」
「あんなの見たことない」
「うん。………なんだろうね」
十年。
この家に住んでから十年になるが、あんなものは一度としてみたことがない。
穴と、それからそこから覗く顔を思い出しながらぶるりと背を震わせて
は緩く首を振った。
「……祠とかそれっぽいの壊した記憶もないし、
肝試しにも行った覚え、ないんだけどな」
「…あたしだって、ないもん」
ぐずっと鼻を啜ってが言う。
その可愛らしい顔に鼻水がべっとりとついているのを見て、
は立って、脱衣所の棚からタオルを取ると、の顔に押し当てる。
「…ちーんしなさい。ちーん」
「子供じゃないんだから」
文句を言いながらがタオルで鼻をかむ。
かんでない方の布地で顔を拭ってから、脱衣所の隅に置かれた洗濯籠に
それを放り込むと、扉のところに人が立っているのに気がついて
はそちらを向いた。
「…あのさ、落ち着いたなら話がしたいんだけど、いいかな」
腕を組んで言う佐助に、はこっくりと頷き、は鋭い視線を向ける。
それを見て、あぁ、長い一日になりそうだとは、暗雲が立ち込めた休日を呪った。




それからすぐ、はいつの間にか消えた腕と血溜りを見て悲鳴をあげ
そんなことを思っている余裕もなくなるのだけれど。