無我夢中で階段を下りて下に向かう途中、つんっと鼻の奥を
突き抜ける刺激臭がして思わずは咳き込んだ。
血と砂と汗の臭いがする。
こんなときでもなければ鼻を覆っているだろうが、
そんなものに構っている暇は無かった。
さっきの悲鳴は、間違いなく妹ののものだった。
後ろから幸村と佐助がついてくるのを音で知りながら、
階段を駆け下りると、そこには玄関より少しこちら側の廊下でへたり込んだと
…見知らぬ男二人が居た。
二人とも鋭い目つきをしている。
おまけに鎧を着込んでいて、しかも実に楽しいことに抜き身の刀まで持っていて
それを捉えた瞬間、はひぃっと悲鳴を上げかけた。
二回見ても三回見ても刃物というか、武器はなれない。
「Hey、動くなよ」
ぞっとするような声を男の内の一人が出した。
青い羽織を着た、若い方の男だ。
眼帯をつけて、三日月のついた兜をかぶっている。
どう考えても、平成の世の人間ではない。
「な、何なのあんた達!」
息を詰まらせていると、状況に耐え切れなくなったのか
が声を荒げた。
勝気な彼女らしく、強気な語調ではあったがその声は震えている。
スーツのスカートの裾から伸びる足も、ぶるぶると震えているのを見て取って
は怖いのも忘れて、の傍へと駆け寄った。
「大丈夫、」
「へ、へいき、だけど」
だけど、何あの人たち。
と、続く言葉はの口から紡がれることは無かった。
その前に、青い羽織の男の横に居た、眼光鋭い傷のある男が
すぅっと雰囲気を更に鋭くしたからだった。
息も出来ないような濃い空気に、とは二人して言葉を飲み込んで
ただ震えながら寄り添った。
「そんなに怯えるなよ。ちょっと話を聞きたいだけだろ」
「お、びえないほうが…おかしいんじゃないの。
っていうか、あんたら誰。なにその格好。
っていうか刃物もってどういうつもり?
刃渡り十五センチ以上の物を持っていると、銃刀法違反で捕まるんだか!むがっ!」
口の端を上げながらの青い男の発言に苛ついたのか、段々と声を大きくしながら
最後には怒鳴る調子になっているの口を慌てて塞いで、
玄関の方をそろっと見る。
するとそこには不快そうな顔をした強面が、
持った刀の柄をゆっくりと握りなおしている姿があって
はぎゃああと心の中だけで叫んだ。
「…政宗様になんという無礼を…。
知ってか知らずかは知らないが…許されると思うな」
「小十郎、今はそういう場合でもないだろ」
「いいえ、いついかなるときでも。
政宗様への無礼は許されるわけではありません」
石頭めと、青い羽織の、政宗と呼ばれた男が顔をしかめた。
小十郎と呼ばれた男は素知らぬ顔で、殺気を振り撒きながら
とを、今にも斬りかからんばかりの顔で睨みつけている。
そして、一歩。
小十郎が足を踏み出し、刀を構えたまま、との方へとにじり寄った。
「…もう一度問うぜ。ここはどこで、なぜ合戦場に居た俺たちが
こんな、わけの分からないところにいるか、お前たちは知っているか」
「知るわけないでしょ!馬鹿じゃないの!!
しってたらあんな声で叫ぶわけないでしょ、頭悪いんじゃないの?!」
「!」
小十郎の居丈高な態度に切れたのか、口を覆っていたの手を外して
が怒鳴る。
その内容は全くもって正しいが、あからさまに馬鹿にする響きを含んだそれに
小十郎が貴様…と低く呟いた。
周囲の温度がぐっと下がる。
それに、見も蓋もなく土下座の姿勢をとったが、
すいませんでした!
礼儀も知らない小娘の言動ですどうか平にお許しを!!!
と床に頭を擦り付けて叫ぼうとした瞬間、緑色が目の前を通った。
「はいはい、右目の旦那も熱くならないで。
合戦中で頭の中が冷静になれないのは分かるけどね」
「てめぇ、猿飛!」
怒号とともに、小十郎の持った刀が、佐助に向かって振るわれる。
それをいつの間にやら出した巨大手裏剣で受け止めながら
佐助は器用に肩をすくめた。
「いや、言われる前に言っとくけど。これは甲斐の仕業じゃないよ。
俺らも昨日ここに飛ばされてきたんだし」
「Ha。それを俺らが信用するとでも?」
「して貰わなければ困る。某達の今後の進退にも関わることだ」
いつの間にか、たちの後ろに立っていた幸村が政宗に向かって話しかける。
それを見て、どういうことかとがに目で訴えるが
とりあえず今の状況で説明できることではない。
手をふって暫く待てと示して、はただ息を詰めて前日から居る主従に
この場の説明を任せた。
それを感じ取ったのか、政宗は鋭く幸村を睨みつける。
「………俺らは前田と、織田の前哨戦をしてたんだぜ?」
「存じておる。文が届いておった」
冷静に頷く幸村に、政宗は一つ舌打ちをした。
「その状況にあった俺たちが、こうして見も知らない場所にいて
その上で、これが、それを知った織田の策略だとか、そういうのじゃないって
どうしてお前は確信してる?
伊達と同盟を結んだ甲斐の若虎にその忍隊の隊長。
それから伊達の当主とその右目。
Ha!奴らにいい条件になったじゃねぇか」
「それを言っても到底今、信じるとは思えないけどねぇ」
「甲斐が同盟を破ったとでも思って欲しいのか」
「話せねぇって解釈するぜ、それ」
「…同盟を破り、このような場所に連れ込んだと
お館様がそれをなさるとでも言いたいのか」
未だ、互いの武器を競り合わせたまま喋る部下達の言葉に、
主の方の空気も一触即発状態に陥ってゆく。
顔を青ざめさせながら幸村の手元を見ると、彼はばっちり槍をその二本の手に持っていて
その手は怒りのためか、ぶるぶると震えている。
お前ら止めに入ってくれたんじゃないの?!と叫ぶよりも先に
現代に侍?!刃物による殺傷事件!とセンセーショナルな見出しがついた
ニュースのタイトルを想像して、はふっと青ざめる。
現場が我が家。
取調べを受ける自分。
犯人はいきなり現れたんですといって、狂人扱いされる自分。
精神病院に入れられる自分。
そこまで行かなくても、その後家に戻ってもご近所にひそひそと噂話をされる自分。
そこまでを一気に頭の中で想像して、は思わず半泣きになった。
そういう騒動が嫌だから、居てもいいよって言ったっていうのに!
しかしそんなを差し置いて、状況は更に進んでゆく。
ひとまず大人しくしていただこうと、幸村が槍を構え。
政宗が唇を吊り上げながら、刀を構えなおす。
従者達は鍔迫り合いを止めて、一度離れて主の下へと下がりながら
次は殺すつもりか、殺気を撒き散らし。
一度、沈黙が訪れた。
もも息すら出来ずにその状況を見守る
……その静寂の中。
突如として、からんっという音が政宗たちと、幸村達との丁度真ん中に響いた。
それはともすれば決闘の合図となったかもしれないが
決してそうはならなかった。
なぜならば、政宗たちも幸村たちも、ただ、天井を見上げてぽっかりと
口を開いていたからである。
もまたそうだ。
そうでないのは、佐助とだけで、この二人は青ざめながら
落ちてきたものを見ている。
そう、それは。
昨晩があの穴に向かって投げつけたプラスティックのコップの上部。
穴に吸い込まれて消えたはずの、それだったのだから。
「あ…」
言葉にならない感覚が胸を満たして、恐怖が広がる。
先までとは意味の違うそれ。
先ほどまでの恐怖は、殺されるかもしれない恐怖で
こんどの恐怖は、何が起こるのか分からない恐怖だ。
目の奥が熱くなって、鼻の奥につんとした感覚が来る。
怖い怖い、見たくない。
でも、見なければどうにもならない。
挟まれながらも結局ゆっくりとは上を見上げて、
他の面々と同じように凍りついた。
「ひっ」
昨日は指だけだった。
だから、今日も指だけだとは勝手に思っていた。
しかしそこにあったのは、やはり混沌色の穴と顔だった。
いや、顔というのもおかしな話で、そこにはあるべきものは一つしかない。
まず、皮膚がなかった。
指と同じように生々しい筋肉だけが露出している。
次に目もなかった。
黒く落ち窪んだ眼窩がむき出しになって、底知れぬ闇がそこには詰まっている。
そして目と同様に鼻もなく、ただ、口を示す切れ目だけが穴からのぞく顔にはあった。
「なんだ、ありゃあ…」
「政宗様お下がりください」
急いで駆けて来た小十郎が政宗の前に立つ。
立って、どうするというのだ。
あからさまに人間でないあれの行動を、どうすることが出来るとも限るまい。
そう思ったからだろうか。
に次の瞬間、穴からのぞく顔がに少しばかり笑ったように見えたのは。
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