まず、異変に気がついたのは迷彩の男だった。
ぴくりと身体を揺らして、に意識を集中させたまま頭上に視線を移して
ぎょっとした表情を浮かべる。
それにつられて、も上を見上げて「うあああああ!?」とすさまじい悲鳴を上げて
首もとの手裏剣も忘れ背後にずりより、がつんと窓に頭をぶつけた。
頭上にあったのは、混沌色の穴だった。
色を表す言葉としてはおかしいのかもしれない。
だが、それは混沌色としか呼び様の無い色をしていた。
それだけならまだしも、そこから覗いているのは、筋肉がむき出しになった二本の指先で
その指先は、血の様な、肉色をひらめかせながら、穴から出たり入ったりを繰り返している。
その光景に、本能的な恐怖を感じて、はひぃと知らずのうちに口から悲鳴を漏らした。
悲鳴を上げてばかりだが、この瞬間が、目の前の男よりもなによりも、一番怖いと
は真剣にそう思う。
怖い、怖い怖い怖い怖い。
男と対峙していたときには、流れ続けていた冷や汗が止まり、
その代わりに、頭の血管が収縮するような、息の詰まる緊張感がを襲う。
なんだ、これは。
この家に住んで、十年。
今まで、一度だってこんなものを見たことは。
あまりの緊張に嘔吐感すら覚えながら、穴と、指を見つめていると
穴の中から赤色がのぞいた。
指ではない。
誰かの足先だった。
迷彩の男がはっと息を呑んで、唇を震わせたのが見える。
足先から、甲が見え、脛、腿、もう一方の足、腹、手、肩、頭が
五秒ほどの時間をかけて、順繰りに穴からたれてきて、終いにぼとりと、迷彩の男ととの間に、
もう一人男が落ちてくる。
がんっと、酷い音を立てて食卓の上に落下した男は、微動だにせず、一度跳ねてから
の足元に転がり落ちた。
思わずぎょっとして足元を見て、もう一度はぎょっとする。
男は息をしている様子であったが、風体がの常識とはかけ離れていたのだ。
腹と胸を剥き出しにした赤い鎧を、男はつけていた。
おまけに、手には槍らしきものを握り締めている。
限界まで目を見開いて、それからは無理矢理赤い男から視線をはがした。
彼に構っている場合では無いと思ったからだ。
赤い男の風体は、確かにの常識ではありえないものだったが、
それ以上にありえないものが、天井にある。
しかもの家の、だ。
これは、この上なくにとっては嫌な問題に思えた。
よりによって、自分の家に、穴は赤い男を落とした。
迷彩柄の男は、どう見ても居なかったのに、いきなり現れた。
の先ほどまでの不運というか、危機は全て穴のせいだと
の今はあまり動いてくれない脳みそでも導き出せる。
迷彩の男も、自分が現れたのはあれのせいだと直感したのか
酷く嫌そうな顔をして穴を睨みつけていた。
肉色の、筋肉繊維がむき出しになった指先は、
踊るように穴から這い出して空中を揺らめくと、すぅっと混沌色の中に引き戻ってゆく。
「あっ!!」
思わず大声を出して、とっさにはコップを引っかんで、
大きく振りかぶって投げる。
薄茶のプラスティックのコップは、中身の麦茶を撒き散らしながら、弧を描いて穴に飛んで
じんわりと狭まる穴に、すっぱりと下半分だけを切り離されて、
がらんと音を立てて床にぶつかり、堪えきれないように、三度半、転がってからゆるやかに止まった。
こちらに向かって開いた断面は、とても綺麗な切り口だった。
「…………あの、今の、見まし、た…?」
「見た」
の声も掠れていたが、迷彩の男の声も掠れていた。
それに彼の人間味を見たような気がして、ほっと一息ついたところで
はへたへたとその場に座り込む。
「………………………………あの、なんでしょう、あれ」
「……………………………あんたの飼ってる、妖じゃないの」
「…………………そんな、非、現実的な」
「………………そうね、俺様、変なこと言ったね」
「…………いくらなんでも、いくらなんでも…」
言葉にならないの繰言を最後に、ぷつりと会話が途切れる。
しかしそれは、必要な沈黙だった。
にも考えることは山のようにあったし、
無論、迷彩柄の服の男にも、山のようにあっただろう。
は、がんっと、頭を窓ガラスに打ち付けて、そのまま体重をそちらに預ける。
まず思ったことは、妹が夜勤でよかった、ということだった。
警備会社に勤めている彼女は、朝早いときもあるし、夜遅いときもある。
今日はたまたま夜遅いほうのシフトであったが、それは非常に良かった
…ようにには思える。
なぜならば、妹のは非常にこういった非現実的な、怪談ごとに弱かった。
人間相手にはめっぽう強いくせにねぇと思いながら
次のことに考えをめぐらせる。
次に考えたのは、はて、これからどうしようかということだった。
あの指のことを考えようかとも思ったが、しかし考えても結論はどうあがいても
絶対人間じゃなくて心霊現象。以外ないように思える。
そうするならば、考えるだけ無駄だと思った。
しかし落ち着いている。
多分、一周回って脳みその螺子が三本ぐらい外れたのだ。
だがそれも、今の状況では喜ばしい。
考えることは山のようにある。
が思わず眉間に皺を寄せ、座りなおそうかと身をよじらせると
かつんと指先に固い感触が当たった。
横目でそちらを見る。
するとそこには赤い鎧を纏った、年若い男の姿があった。
「あぁ…」
声を上げて嫌な顔をして、男の顔を見る。
中々整ってはいたが、今のには無聊の慰めにもならない。
ため息をつくと、視線を感じてそちらに目を向けると
そこには迷彩柄の服を着た男の姿があって、
はまたもあぁ…と吐息のような声を漏らした。
もう、何もかも無かったことにしてしまいたい。
今の無しで!と叫んだら、もう全部無かったことにならないかと
どうにもならない現実逃避をしながら、は初めて迷彩柄の男の目を見ながら声をかける。
「あのぉ」
「……」
「とりあえず、この人を寝室に運んで、寝かせて、私たちは情報交換をしませんか」
「なんの」
「あの指とか、穴とか。あなたのこととか、私のこととか、この辺りのこと、とか」
「あの指とか穴については、あんたも知ってること少なそうだし、
俺については話せることないし、あんたのことはさっき聞いたし、
この辺りのことは…あんたは答えを持ってなさそうだけど」
投げやりな口調の男の姿に、あぁ、この人も全て投げてしまいたいのだなぁと
肩を叩いてやりたいような衝動に駆られながら、
はとりあえず、えぇとと前置きをして
「でも、黙っててもどうしようもないと思います。
どこから来たのかぐらい聞けたら送っていけるかも。
………あんまり、近くないとは思うんですけど
多分、あなたも落ちてきたんだし」
「あぁ、それ一番聞きたくない…」
嫌そうに顔をしかめた彼に、は先ほど殺されかけたのも忘れて
とても親近感を覚えた。