次の宿場までは遠く、ここで休むのが無難だろうということで
日が傾きかけた所で宿をとる。
日も早いからだろうか、相部屋には誰も居らず
義子と官兵衛はやれやれと腰を下ろした。
半兵衛の欠けた旅路は、酷く静かだった。
なにかれとなく話しかけ、間をもたせてくれた彼の存在は
居なくなってから、ありがたかったのだと気がつく。
いくら
義子が静かなのが良いとはいえ、同行者がいるというのに
丸一日ずぅっと沈黙を保ったまま歩き続けるというのは、気まずいものだ。
だから、珍しくも彼女は、沈黙を打ち破るために官兵衛に向かって話しかける。
「もうすぐ駿河ですね」
「あぁ」
「無事文を届けられるようで安心しました」
気の無い様子で返事をする官兵衛に、それでも会話を続けようと
義子がそう言うと
彼は少し考えたそぶりをした後、今度は長く口を開いた。
「そうか。こちらとしても今川と同盟を結ぶというのは利があることだ」
「はい、今川としてもそれは大変に」
「天下泰平、その火種とならぬ今川は大変に良い同盟相手であると私は考えている。
出来れば末永く友好的な関係で居たいものだな」
友好的。
随分と、似合わぬ言葉が飛び出したものだな。
思いながら
義子は黒田官兵衛を見る。
似合わぬと言えば、天下泰平だとて、そうだ。
男の印象からは、そんな単語を口に出すイメージは無かった。
そこに
義子は驚きを感じたが、それにしても
黒田官兵衛という男が、竹中半兵衛の居ない状況で饒舌に喋る、というのは
話しかけておいてなんだが、想定外だ。
喋りかけながら、恐らく二言三言で打ち切られるものだと思っていたのだけれども
予想が外れた。
だが、これも彼の仕事の布石の内なのだろう。
官兵衛が欲しているのは、滅多に今川から出ぬ
義子の情報か?それとも今川の情報か?
饒舌になったということは、多分そう言うことだ。
おそらく、彼は情報を得るために、興味もない自分と会話をしようと判断した。
…だとしたら、自分からふった話題ではあるが、会話を切り上げるべきだろうか?
思いながらも、彼女は、男の語った天下泰平、という単語に口を噤むことが出来なかった。
この間から再燃した疑問の中核をなす単語に、好奇心の猫が一匹殺される。
「あなたから天下泰平という言葉を聞くとは思いませんでした」
「そうかね。誤解してもらっては困るが、私は常に天下泰平を望んでいる」
「へぇ。ならば、一つお聞きしても?」
「なにを」
「天下泰平を、あなたはなぜ望むのでしょう」
疑問はするりと口をついて出た。
何故、人は天下泰平を望むのであろうか。
武田の敗戦の折、静養中に考えたことがあった。
天下泰平とは何ぞやと。
結論は、出たようで、出ていない。
その時には、平和に至る道を考えて、望むようにするのは無理だと思った。
だが、至った後のことは、考えていない。
至った後を考え始めたのは、ごく最近のことで、再燃したせいなのかどうなのか
どうしようもなくその辺りが、非常に、気になる。
それは、
義子が答えを未だ持たぬせいなのだろうか。
答えをもたぬから、他者の答えを聞きたがるのだろうか。気になるのだろうか。
「聞いてどうする」
今のように、そうやって、訝しげな顔をする、冷たい表情の男が、何故、似合わぬ天下泰平を望むのか。
半兵衛は、寝て暮らせる世が欲しいのだという。
…その世の中を作るために下に埋める屍の山を思えば
何もかもが気に食わなくなるから、そこは置いておくけれども
過程を飛ばして、そこだけ考えれば、竹中半兵衛が語る泰平は幸せに思えるから、
義子もそれは良いなと思う。
寝て暮らせる世の中は、多分きっと穏やかなものだろう。
では、黒田官兵衛、あなたは何故?
「例えば、今川が、私が以前に交戦した武田信玄公が泰平を掲げるのは
平たく言えば自分が天下を統一したいからですが
あなたはその立場にないからです。そこに興味がわいたので」
「随分と卿は直接的な物言いをするな」
ただ、直接的には聞きにくいために、
表面上の理由を言えば、黒田官兵衛は気分を害した様子もないくせ
そのようなことを言った。
「申し訳ありません。が、気になるのです」
…確かに無礼だとは自分でも思うので、一応は頭を下げておく。
でも、そんな無礼を働いても知りたいほどに、気になるのだ。
一旦は終わらせた、天下泰平とは何かという疑問。
だが、半兵衛の言葉で思い出してしまって以来
のどに刺さった小骨のように、それは頭に引っかかり続けている。
泰平とは、なんだろうか。
人を殺してその死体の山の上に築かれる平和/泰平。
それをどうして求めるのか。
天下泰平と聞いて、
義子がまず思い浮かべるのは、そことは程遠いあの日の戦場の様子だ。
血まみれで人が山のように死んでいる光景。
その中を土足で踏み荒らして踏みつけていく。
天下とは、泰平とは、そうして作られるものなのか。
そうだろうと思った。
後々までの歴史を知っているから、考えたとき
義子はそれを肯定した。
自分が暮らしていた、何処までも平和な場所に行きつくためならば
それも止むないのだろうと。
だが、
義子が考えていた決定的な未来は、現代日本は
しかし、『現在』において、
義子の中だけにしか存在しないただの記憶で、知識に過ぎない。
今を生きる人間たちが望む泰平の世の中と、現代日本は恐らく『違う』
今を生きる人間たちが望む泰平は、人の数ごとに、形を変えて重なりあえる所と
重なりあえない所をもちながら大量に存在しているからだ。
その形がぴったり現代日本と重なり合うなんて言う奇跡はきっとない。
あったとしてもそれは『幾ばくか』のもので、『全体』では決してないのだ。
ならば。
形が違うならば、きっと、人を踏みつけて作る平和の先にある未来でさえ
争いの火種になることもあるだろう。
望む物の差異は立派に争いの原因となることができる。
知識はただの知識、望みはもっと欲望に近いもの。
欲望は、人を争わせるものだ。
そのことに気がついたとき、
義子にはますます天下泰平というものが理解できなくなった。
まるで水のように、手のひらには堪らず零れていってしまうそれを
少しでも残せるようにするが如く、答えを求める心のままに
義子が官兵衛を見つめ続けると、彼はやがて無表情で口を開く。
「秩序が欲しいからだ」
「秩序」
「戦乱の世では、全てに対して秩序を引くのは不可能。
ならば、反対に世を平たくすれば、秩序が引けるようになる。
そういう、それだけの話だ」
……………。
暫く、待ってみるけれど続きは無い。
官兵衛の回答はこれで終わりらしい。
そうと知りながら、
義子は続きを待ってしまう。
何故って、秩序が欲しいからだけは、いくらなんでもないだろうと
義子でさえ思うからだ。
人が何かを望む時には、心が伴うものである。
だから、もっと、こう何かがあるだろう、普通は。
…違和感が、胸の内を撫でる。
だが、終わりは終わりであって、官兵衛はそれ以後一向に口を開く様子もない。
それに耐えかねて、
義子は再度の質問をぶつける。
「………平和を、与えたいとかじゃなくて?」
彼女らしくもない偽善めいた平和という単語。
しかし、天下泰平という事象を思えば、平和を与えるというのが
一番ポピュラーな理由だと思ったのだから、仕方ない。
「何故」
それも、官兵衛には一蹴されるけれど。
「何故。何故って…秩序だけですか?」
「秩序が引かれれば人は規則正しく生活できるようになる。
そうすれば、平和は自ずと与えられるようになるだろう。
何が問題だ」
その一蹴具合に意地になってきて、再再度の問いかけをすると
今度はやや面倒くさそうに、もっともらしい回答が返ってくる。
だが、違和感があった。
どういえばいいのか分からないが、黒田官兵衛の語る泰平には、違和感が、あった。
男の言葉は全く正しい。
平和の後に秩序があるので無く、秩序があるからこそ平和が訪れる。
だけれども、そう、動機が。
人がそれを求めたいと思うはずの動機が男には欠けている。
それに気がついている
義子は、眉をひそめて官兵衛を見た。
相も変わらず感情の読めない無表情をした男は、
何も無い、無機質な目をして
義子の方を見る。
視線が交差し合うけれど、そこに何一つの感情も読みとれないまま
義子は、言葉を重ねた。
そうもしつこく、何故?違和感が気に入らないから。
「本当に、秩序だけなのですか?平和を人に与えたいのでもなく
人の死体の山が築かれるのが嫌なわけでもなく?」
「くどいな、
義子姫。それらを嫌がって何になる。
見るべきは小さな所で無く、大きな所だ」
だが、官兵衛は
義子のいうことに、嘘でも実はそうなのだと言ってくれれば済む話なのに
またも一蹴するから、彼が本気で秩序しか求めていないことを
義子の方も認めるしかなかった。
………本気で秩序だけなのか、この男。
理由も無しに、秩序が欲しいから泰平を求めるとは
結果としては帳尻が合うのかもしれないが、その思想は
余りに人間を無視してやいないか…?
「………えぇと、あなたのその思想、欠けがあるような、気が、します」
「良く言われる」
「あぁ、そう。そう、ですか」
一応遠慮しながらも、それでも言わずにはおれなかったから
躊躇いながら指摘したというに、官兵衛にあっさりと肯定されて
義子はどうしたものか分からなくなった。
…本当に、どうしたものかな。
聞くんじゃなかったという後悔が、
義子を満たす。
今までの道中で、半兵衛が官兵衛を好く理由を十二分に理解した彼女だが
今の発言を聞いてしまえば、子飼いたちがああも官兵衛を嫌う理由も、理解出来てしまう。
この男は、異物だ。
人の感情を一切合財無視して、事象だけを見ているような男の理由に
踏みつぶされるものを思えと、武田信玄の王道に怒りを覚えた
義子が耐えられるはずもない。
綺麗事よりもなお酷い、生きる者・感情一切を無視した言葉に
一気に湧き上がる、男への拒絶感。
「お前はおかしい、お前は狂っている、お前は壊れている。
良く言われる言葉だ。卿も私に言ってみるか?」
だが、それを阻む様なタイミングで言われた官兵衛の言に
義子は、彼の目を見た。
相も変わらない感情の見えない目。
半兵衛と対峙する時には、僅かに感情が見える気がするのに。
そこまで思って、それからふるりと二度首を振る。
そうだ、この人も感情が無いわけじゃあ、ない。
三河につくまでの、半兵衛との仲の良い様子を思い出し
拒絶感が薄まった
義子は、かろうじて官兵衛の言葉に首を振ることが出来た。
「いえ、私はあなたのことをさほど知りませんので………
でも、なぜそこまで言われるのです、壊れているなど、普通は」
「私が、秩序を築くための障害となる火種となるのなら、誰を消すのも躊躇わぬからだ。
例えば秀吉様だとてな」
「………は?」
まぁ、次の瞬間にはこうして絶句させられるのだけれども。
おいおい。
思わず口に出しかけた、身分に似つかわしくない粗雑な言葉を飲み込んで
義子は視線をうろうろと彷徨わせる。
えぇっと、えぇっと。
豊臣秀吉を殺すのを躊躇わないって、あんた…。
それ、あんたの直属の上司でしょうに。
いやまぁ、そりゃあ、あれだ。
天下に近いのは織田信長公であるのだから、秩序を早く築く障害になるのなら
豊臣秀吉を消す、というのは『人』を無視する男の論理でいけば、理にかなった行為なのだろう。
…多分。
だけれど、うん、まぁその。
私、今川なんですけど!!
陣営が違いますがその話は聞いていい話ですか。
いけない話ではないでしょうか、黒田官兵衛殿!
ぐらぐらと揺れる頭を抱えて、官兵衛の語った事柄に
義子はもう卒倒寸前である。
男は織田の軍師で、豊臣の配下で、そして自分は今川の姫なのに。
なんでそんなことを言ったよこの人。
「あぁ、うん、えぇっと、それ、私に話しても?」
官兵衛のあんまりにあんまりな、ぶっちゃけ話に拒絶感とかそういうものが
一切合財放り投げ捨てられながら、
義子は自らを指さし、官兵衛に一応問うた。
いや、問おうが問うまいが、彼女の中ではそのぶっちゃけは絶対的にNOなのだけど。
それでも、黒田官兵衛は涼しげな顔をして、動揺を示す
義子に向かって
あろうことか侮蔑の視線を送り、ふぅとため息を吐く。
「かまわんな。公然の事実と言う奴だ。それだから壊れている狂っていると言われる。
そのような状況下で卿に話した所で何が変わるものか
私の有用性は、その危険性に勝るということだ。問題は、何一つ無い」
「あぁ、うん、はい…え、それなら問題無い?ない、ないのかな…。
えぇっと、うぅんっと、……あの、じゃあ、あなたが仰ることが本当なのだとすれば
あなたは、誰を消すのも、躊躇わないのですか。
どれだけの人も、武士も、民も、泰平の下の死体の山とすることに躊躇いは、無い?」
そして、
義子は。
よせばいいのにまた、疑問を彼に向かって投げかける。
「あぁ」
今の出来事で、自分と、相手は、対極にあると分かりそうなものなのに。
「………えぇと、じゃあ、例えば。自分が、天下統一の邪魔になったら、躊躇わない?」
混乱しているから、問いかけてしまう。
「当然だろう。私も思えば天下の火種ではあるが
未だその時では無いから消してないだけの話にすぎない」
そして、彼女は思い知って愕然とするのだ。
自分の対義は義兄で無く、この男であるのだと知って、愕然とする。
義子は、自分が死ぬことを嫌だと思う。草さえ食べる。
官兵衛は、自分が死ぬことを厭わない。自分さえ時が来れば消すと言いきった。
義子は、自分が好きな人を見捨てられない。だから真実今川の子になった。
官兵衛は、
義子が見る限り秀吉を好ましいと思っているのに、消すと言う。
義子は自分が踏みにじられる側だと知っているから、踏みにじるのが気に食わない。
官兵衛は、踏みにじることすら意識をしない。
何もかもが反対で、何もかもがこの男とは合わないのだと知って
そういう存在がいるのだということに、
義子は、今、愕然と、する。
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