迷い一つなかった。
躊躇いの隙間もなく、男は自分すらも泰平の世の前には取るに足らぬものだと断じて
未だその時では無いから消してないだけの話にすぎない。と答えた。
義子は義兄とは別の意味で自分と対極に居る男の存在に、呆然と彼を見る。
駄目だ、これは、駄目だ。これでは駄目だ。
官兵衛の話を聞いて理解した脳みそは、けれどその理解を拒んで
ぐるぐると、駄目だと言う考えだけが回る。
黒田官兵衛を、否定したくてたまらない。
義兄は義子にとっての近しい対極者であるが、官兵衛は真の意味で彼女の対極者である。
弱い民を踏みにじった上での平和を、秩序ある泰平であるならばと是とし
それを掴むためであるのならば、おためごかしも否定せず。
到るためならば、他人を見ず自分を見ず、大きな、大きすぎるところだけを彼は見ている。
自分が殺す人間たちなど、欠片も意識に入っていない。
大上段と下段からそれぞれ泰平と言うものを見ている両者が
交わりあえるわけもない。
けれども。
その交わりあえぬ思想を持つ人間に、最初の拒絶感を吹っ飛ばした義子が抱いたのは、
嫌悪でも反感でもなくただ焦燥だけであった。
一度、感情のままに抱いた拒絶を吹っ飛ばして、真っ白にして
その上で、嫌悪や反感を持つには、黒田官兵衛は人で無さ過ぎる。
心が、無い。
何処にも無い、見えない。
確かにあると思ったのに、見えない。
機械が決められたことを言うような、無機質な言葉を吐く目の前の男に
義子の心にひっかき傷がつく。
秩序ある世の中であるならば、自分が死んでも構わない?
未だその時で無いから火種ではあるが消してないだけ?
意味が、意味が分からない。
死なないことに執着をする義子には、男の在りようは理解が出来無さ過ぎる。
その理解出来無さは、ひたすらに彼女の心を押しつぶし、心に引っかき傷がつく。
「官兵衛殿」
そして、彼女は抱いた焦燥のままに言葉を紡ぐ。
「なんだ、今川の義子姫」
「あなた、どうしてそんなに」
「人らしくないとでも?」
「いえ、いえ、それも言いたい。ですが、あなた、何故そんなにも簡単に
泰平の下にある死体の山に埋まれると仰るのですか」
「それが必要なことだからだ」
「切り捨てられる側に、自ら含まれると仰る?」
「必要なことだからだ」
先ほどと同様の言葉が繰り返された。
取りつく島もない言葉に、どうしてかむきになって
義子は心を見せてくれないかと無意識に願いながら、更に方向を変えて言葉を重ねる。
「秩序をもたらす為ならば、あなたは誰を消すのも厭わないと仰った」
「確かに言ったな」
「何故、そこまでするのですか」
「世を静かなものにするのに理由が必要だと卿は言うのか」
「はい」
頷くが、少し、違う。
彼の言う言葉の中に心が見えないからだ。
だから納得できない。
秩序ばかり言うけれど、それをもたらしたいと思う心はどこから出てくるの。
目の前で語られる彼の泰平は、武田信玄公の物よりもよほど歪で
彼にだけは泰平をもたらされたくないと義子は強く思う。
けれども、反感にはならない。
人らしくないものは理解出来無さ過ぎて、反感を抱く余地もない。
ただ、掴んで揺すぶって違う違う違うと叫びたいような衝動が、義子の胸を満たす。
違う、お前のそれは、違うんだよ。
何が違うのかもわからないのに違うと思い続けて、けれど、官兵衛は義子が違うと思うことを
違うのに、違うのに、ごく当たり前のことを言うように、繰り返して、突きつける。
「人心が乱れているよりかは、治まっている方が良いだろう。
故に秩序ある泰平を世にもたらす。ただ、それだけだ」
「例え、秩序ある泰平の世をつくるために、あなたが死んでも?」
言葉を重ねる。
「あぁ」
彼は頷く。
「例え、秀吉殿を殺すことになっても?」
言葉を重ねる。
「あぁ」
彼は頷く。
「例え、半兵衛殿を殺しても?」
言葉を重ねる。

…その問いかけには、少しだけ官兵衛の瞳が揺れた。
だがそれ以上にはならない。
その小さな反応すらもすぐに殺して


―彼は

「あぁ」

―頷く。



きっぱりとしたその肯定は、義子に大きな衝撃を与えた。
道中、あれだけの信頼関係を見せていたのに、仲が良かったのに
この人はこんなにもきっぱりと殺すと言い切った。


平和とは何ぞや。
泰平とは何ぞや。


あの小さな軍師に大事な友だと思われているこの人が
このように人の心を放り捨てて、掴み取りに行くほどのものだろうか。
半兵衛は官兵衛を好きだと言ったのに。
当の彼はこんなにも簡単に、自分も自分が心を傾けた者も泰平をつくるためなら、その下の屍とすると言い切る。
そうして、その屍の上に作る泰平は、秩序がもたらすものなのだという。
それはある種の真理だ。
元居た現代日本では、歴然とした秩序が敷かれており、それが平和をもたらしていた。
だから、黒田官兵衛のいうことは正しい。正しいのに。
違うと言いたくてたまらない。どうしてだろう。
そうですね・正しいですね・秩序こそが泰平だ。とは、とても頷けない、今の義子には。
平和って、なんだろう。泰平って、どういう状態のこと?
あれ、わかんなく、なって、きた。
そもそも泰平って何。泰平を思う人の数だけ回答はあるのに。
でも、官兵衛のそれは認めたくない。それ、人が住める世界?
いやでもそもそも、そもそも………そもそも………。
あれ、そもそも、なんだ、ろう。
元々分からなかったのに、今はもう、答えの水はすべて零れ落ち
水滴一つ義子の手のひらの中には残っていなかった。


平和とは何で、泰平とは何だ。


愕然として凍りつく義子を横目で見て、官兵衛は部屋に備え付けられた窓の外の景色
きゃあきゃあと騒ぐ子供らが通りすがる往来へと目線をずらした。
義子も、見ろと示されたとおりにそちらに視線を移す。
そこには和やかな光景があった。
親子連れが手をつないでほほえましく大通りを通っている。
子供が母親に何事かを耳打ちし、母親はそれを聞いて朗らかに笑う。
幸せを絵にかいたような情景が、往来では繰り広げられていた。
それを顎をしゃくって指して、官兵衛は今度は真っ直ぐに義子を捉え、口を開く。
「卿は、あれが踏み荒らされて欲しいと願うか」
「そうは言いません。ただ」
「ただ、なんだ。卿が問いかけてきているのはそういうことだ。
全てを平たくせねば、戦乱は起こり続け、火種はああしたものを焼く。
秩序無く、道理が罷り通らぬ世の中など、そのようなものにしかならない」
「でも、官兵衛殿。平たくする過程の中でも、人はあの家族を焼くでしょう」
「それは必要な犠牲だ。
小を焼かぬ為に大を焼かせる事を是とするのは愚かの極みといえるだろう」
「大を焼かぬ為なら、小を焼いても構わないと仰るのですか。
いえ、政治の場においてはそれが当たり前です。
しかし、あなたは泰平を作るというのに、それが幾万もの屍の上に築かれようが構わないと仰る。
回避するつもりが無いということですか、それは」
「焼かぬ術があるなら、焼かずとも良いだろう。
だが、焼かなくては大を焼く羽目になると言うのなら
そうならないだけを、全て焼き尽くすのが良い。それだけに過ぎぬ」
冷えた目だった。
見下ろす官兵衛は、どうしようもない冷えた感情のない目でこちらを見ている。
「…………官兵衛殿。
あなたの発言は矛盾しています」
「焼くも焼かぬも、それが泰平を成すのに必要ならの話だ。勘違いをしてもらっては困る」
必要なら焼くのではないか。
冷えた目をした彼の言葉は矛盾していた。
だからその矛盾を義子が言い募れば、彼はあっさりとそれを肯定する。
どうしようも、なさすぎる。
まるで泰平という事象だけが大事で、そこに在る人の感情はどうでも良いよう。
武田の泰平は、武田信玄のためのもの。
では、黒田官兵衛の泰平は、何処の誰のものだ?
少なくとも、官兵衛の物ではあるまい。
彼は、自分が死んでも別に良いといった。
…誰のための泰平・平和だ、それは。
誰のためでも己のためでもない彼の泰平は、義子には、全く理解できない。
欲望が欲しいと思った。分かりやすい欲望が、欲しい。

理解できない。
理解できない。
理解できない。
…分からない。
どうしてこの人は、こんなに、在るものばかり踏みにじれるの?
…解からない。
…判らない。


在るものを大切にせずに、無いものばかりを追い求めるこの人を
どうして半兵衛が構うのか、その理由がもう一つ分かった気がした。
放っておくと、自壊してしまいそうだこの人は。
心に引っかき傷がつく。
静かなじわりと痛む傷には気がつかず、義子はもう一度問う。
「…………官兵衛殿、ならば、もう一度聞きます。
親子が、例え、半兵衛殿に代わっても、秀吉殿に代わっても
あなたのいう、必要な犠牲の内に入るのならば」

「消さねばなるまい」

二度目は瞳の揺れすらなかった。
どうしてこの人はこうなのか。

お前、それを迷わず躊躇わず一拍の空白も無く言うのは、余りにも−。

大した関係も無い男を見上げて、義子は無意識に官兵衛の腕を掴んだ。
これの在りようは、あんまりにもあんまりだ。
無表情で、自らの腕を掴んだ義子の手を見る彼に構わず
義子は呆然としたまま口を開いて
「もっと、良い、やり方があると、思い、ます」
言葉は掴んだ時と同様に、無意識に口をついて出た。
男の在りようが、いちいち義子の心を引っかいていったせいだ。
だから彼女は口を動かしている自覚もなく言葉を紡いで
硝子玉のような無機質な男の目を見る。
それにやはり無機質な声で、官兵衛は口を開き義子に問うた。
「良いやり方とは、例えばどのような」
「あなたが人間で居られるような」
そんなに心を壊してしまわなくてもいいような。
だってあなた、半兵衛殿のことも、秀吉殿のことも好きでしょうに。
…好きでしょうに。
宿屋での半兵衛への反応や、街道で、秀吉の言葉に見せた反応が脳裏をよぎる。
義兄に心を移したが為に、真実今川の子になった義子がそう言うと
僅かに官兵衛の目が見開いた。