幾ばくかの日にちが過ぎた。
旅は何事もなく順調に進み、もうすぐ三河が近い。
恐らく明日、どんなに遅くとも明後日には着けるだろう。
…そうなれば、半兵衛ともお別れだ。
暫くの間一緒に旅をしていたせいか、別れが惜しい気持ちはあるが
特に切なくなる、というほどでもない。
半兵衛と、官兵衛は本当に仲が良くて微笑ましくなるけれど
それ以上にはしない。
心は、移さない。
今川の者としてそれを遵守し続ける義子は、どこまでも堅物だ。
こういうところが、しょっぱいと言われるのだろうか。
北条方・義兄・義父。
出会ったもの全員にしょっぱいと言われてはいるものの
自分のどこがしょっぱいのか、今一まだ分からない義子
宿をとり、それから食料の補充に一人出かけた官兵衛を
宿の部屋で待ちながら考えていると、ふと隣に気配を感じた。
それに横を向けば、隣に来ていた半兵衛が、義子の横に座り込んだ。
「…義子殿は、もうすぐ三河だってのに警戒緩めないねぇ」
「まぁ、家に着くまでが旅ですので」
相も変わらず立て膝をつき、銃を抱え込む義子を視線で指して
苦笑する半兵衛に、苦笑を返すと、彼はそっかぁと小さな声を漏らす。
そうして、後ろに手をつき、天井を見上げた半兵衛は
どこも見ていない目をして口を開いて。
義子殿なら大丈夫だとは思うけど、怒らないでね、官兵衛殿のこと」
静かに、そう言った。
その内容に義子は一瞬黙りこんで、それから更に苦笑を深める。
…よりにもよって、そういうことを、最後に頼んでくるのかこの人。
まったく、半兵衛はどれだけ官兵衛のことを心配していて
官兵衛はどれだけ信用が無いものやら。
道中、半兵衛が気安く接しようが、官兵衛がこちらを見なかろうが
一度も、怒らなかった義子に対してそれを言うとは、心配のし過ぎが過ぎる。
怒らないでね?
そんなもの、不要だ。明らかに不要だ。
なのに、この人はそう言った。
いっそ保護者気取りなのか、このおっさんは、二個だけ年下のおっさんの。
その辺りを考えると、自然と、くっという笑い声が漏れた。
そうして、一度漏れてしまえば止まらないもので、くっくっくという笑い声が断続的に出る。
「く、くっく…。あなた、源太郎殿。万太郎殿のことがどれだけ心配なのですか。
あの人も、あなたも、一応成人男子でしょうに。ふっ、ふふふ」
「ちょっと、義子殿。そんな笑うこと無いでしょ。
失礼だと思わないの、俺に」
「万太郎殿には」
「あれはもう、仕方ないと思わない?」
自分だけしか言わぬ半兵衛に、相方のことを問うと肩をすくめる。
その仕草から見てとれる気兼ねの無さ加減に、ますます笑いを強くして
義子は今度こそあははと声を上げて笑った。
「ふ、ははは。自分は棚にあげて、万太郎殿は良いのですか。
源太郎殿は実に性格が悪い」
「良く言われるー」
「肯定しないでください」
「自他共に認めてるよー俺は。性格悪いってさ。
性格悪くなくっちゃ、やってらんないって」
何がとは言っていないが、やってらんないのは自分の職業のことだろう。
確かに性格の良い軍師など、義子も奇跡の産物だとは思うけれども
自分で性格が悪いというのは、どうなのか。
思いながら半兵衛を見ると、彼はにまっと笑って自分の頬を人差し指で指していた。
…可愛い。
童子のような彼がそういった恰好をすると、非常に可愛らしくて、義子はちょっとだけ困った。
可愛くないのに可愛いってどういうことだ。
その辺りがツボに入って、くっくと尚もこらえた笑いを洩らす義子に、遠慮というものを知らぬ軍師は
義子殿って男みたいだよねぇと小さな呟きを洩らしたけれど、義子は素知らぬふりをしてそれを流した。
ほらみろ、優しい。
聞き咎めることもできる発言を流す己に、そのような心配は不要なのだ。
半兵衛の無礼極まりない発言を聞き流しながら、義子はそのように思い
笑い顔のまま半兵衛に顔を向けて、それから表情を意識して優しげなものに切り替える。
「怒らないのは、多分絶対に大丈夫だと思いますが、半兵衛殿は心配症ですね」
半兵衛が、ちらりとこちらに目を向けた。
その目が探るようなものであるのに、また笑いがこみあげそうになるが
そこは我慢していると、ふっと半兵衛が、息を吐く。
「心配になるでしょ?」
彼の声の響きは、やはり保護者めいていた。
あなた方、二歳しか歳は変わらぬのだろうが。
少しだけ、心の中で突っ込みを入れた義子だけれども、半兵衛の思いも分からないわけではない。
黒田官兵衛という人は、どういえば良いのだろうか。
不器用?
もっと他者に心を開けば良いのに?
素直になれば可愛い?
上手い言い方が見つからないけれども、そのような感じで
世渡りというものを完全に投げ捨てている彼を見ていると、そのような心境に達するのも、理解は出来る。
おまけに、官兵衛の方も半兵衛には懐いていて、いくらも心を許しているように見えるから、尚更、理解は容易く。
だから、義子も今度は本当に優しい顔をして、目を細めて
「そうですね。私も道中の様子を見ていれば、そう思いますよ」
「頷いてくれてうれしいよ。挨拶の件見たんだったら分かると思うけど
官兵衛殿はあんなだからね。二個下じゃなくて、いくらも年下に思える。
義子殿の方が、俺には安定して見えるよ、困ったことにね」
あんまり困った風でない言い方で、半兵衛が喋る。
親指の腹で前髪を横に流しながら言う彼の表情は、普段より大人びて見えた。
安定しているというのなら、あなたの方ではないのだろうか。
義子が瞬間的にそう思うほど、半兵衛のその顔は落ち着いていて
普段の童めいたものは、欠片も見受けられない。
…薄々は感じていたけれど、普段のあれは人の間を上手く繋ぐための仮面で
落ち着いたこの半兵衛こそが、真実の彼なのだと義子は直感した。
そうして、普段は童子の仮面を被る半兵衛が、それを脱いでまで
義子に怒ってくれるなと言っているのに、やはり、苦笑してしまう。
仲が良いのは微笑ましい。
本当に、仲が良いならなおさらのこと。
「私は、あなたも官兵衛殿も嫌いじゃないです」
だから、心配しなくても良いと仄めかすと、半兵衛がゆっくりと笑みを浮かべる。
その笑みの穏やかさに、義子は一瞬、胸がどんっと押されたような気持ちになった。
あんまりにも穏やかだから、息が詰まって、天秤が、揺れる。
それを急いで押しとどめて、義子は上から踏んづけて、気持ちを隠す。
無い、無い無い。
心は動かさない。
深入りしない。
仲が良いと思って微笑ましくて、それだけ。
友人を思う穏やかな表情に好感を抱いたりはしない。
仲良くなりたいだなんて思わない。
嫌いじゃない以上には格上げしない。
一瞬で、そう言うことを『無かった』ことにして、普段通りの無表情に近いものを取り繕った義子だが
知らぬ顔の半兵衛は、それを見逃してくれるような男ではなかった。
「嫌いじゃない以上にするつもりはないんだ?」
穏やかな表情を一瞬で破り捨てて、義子の動揺を見破った彼はにんまりとした笑みを浮かべて己を見る。
…気がつかれた。
嫌な状況に、辟易としながら義子は「まぁ。そう言うことです」と、とりあえずは頷いた。
「……私は半兵衛殿のお願いを聞いたのですから、少しは見逃していただいても良いように思いますが」
知られたからと言ってどうにも無い事だけれども、一応は気まずいのでそう釘をさすと
予想に反して、いや、予想通り、半兵衛は底意地の悪い笑みを浮かべて、小首を傾げる。
「えー。使えるものは使うのが軍師っていうかさ。
ていうか、そんな警戒しなくても。
使いようが無いじゃん、義子殿が織田のものに心を移さないようにしていますーなんてこと」
……性格、悪い。
義子が思う性格が悪い代表は、風魔小太郎であるのだが
彼とは別ベクトルで、この竹中半兵衛性格が悪い。
にやにやとしながら言う半兵衛の言うがままに任せていると、必ずいびられると判断した義子
ため息交じりにやり返す。
「…使いようが無いと言いましたが、使える時が来たら、使えるものは使うのが軍師なのでしょう」
「あれ、一本取られた?」
彼の言葉尻をとって言い返したならば、半兵衛はぱちんと瞬きをする。
きょとんとしたその表情に胸が空く思いで義子
「取ったんなら、取ったんだと思います」
「じゃあ取って無い」
「……………はー…」
…ぐうの音も出ない返しが出来たから、勝利を確信したというのに
へ理屈でやり返されて、義子は思わずため息をつた。
口の減らない…。
そういえば、この間の睡眠の話のときもこんなだったな、この人…。
頭痛のする思いで義子はこめかみを押さえる。
どうなの、この人。
童のようで、だけれど、多分義子が会った豊臣配下の中でいちばん大人で
頭の切れる軍師の男。
敵に回ったらさぞやりにくいことだろうと、色気もそっけもないことを考えつつ
義子が半兵衛を見ると、彼の方も義子を見ていた。
そして、目があった瞬間、彼は微笑む。
「俺、弁えてる子は好きだよ」
官兵衛のことを語ったのより遥かに薄い、穏やかさが混じる声に
別れの気配を感じながら義子も、彼の言葉に応えを返す。
自分だとてそうだということを。
嫌い以上にはしないけれど、嫌いじゃないのも、弁えていればこそが
義子にとっては、大前提に来る。
「私も弁えている人が好きです。いえ、源太郎殿のことは嫌いじゃあないなんですが」
「うん、俺も義子殿嫌いじゃあないよ」
己の立ち位置を弁えて、決して線は踏み越えず。
どんなに相手が好ましい人柄をしていようが、無い。
あり得ない。
だから、嫌い以上にはお互いにならない。
真っ当な神経をもった人間からすれば理解し難いことを共有し合えるのが
奇妙に面白く、にこっと、示し合わせたわけでもないのに、二人ともが同じタイミングで笑いあった。
そして、良くか悪くか、官兵衛がその瞬間に襖を開けて帰ってくるものだから
「あ、俺万太郎殿は好きだよ!」
陣営が同じなら、好意を持っても良し。というルールに従い
半兵衛が友情の好意を素直に表せば、官兵衛は苦虫を大量に噛みつぶしきった顔をしてこちらを見た。
「………気色の悪いことを…」
官兵衛の反応は、非常に正しい。
三十路のおっさんが、好きも嫌いも無かろうに。
義子は帰ってくるなり前後の話題の流れも分からず、ただひたすら巻き込まれた官兵衛に同情したが
彼の表情が、地獄に落とされた罪人の如く苦々しかったので、堪え切れずにくっと笑いを洩らす。
それに半兵衛が悪乗りした表情で振り向いて
「えーでも義子殿も嫌いじゃないんだよねー?」
「えぇ、そうですね。嫌いじゃあないですよ」
「…物珍しいことだ」
最後だからと義子にしては珍しく悪ノリに付き合って、嫌いじゃあないと同意すると
官兵衛は何を考えているのか分からないような表情をして義子を見て
吐き捨てるようにそう言った。
その彼の反応に、半兵衛は笑い転げて、義子の方も両兵衛の反応に声も無く笑うのだった。

これが、道中で半兵衛の居た最後の日の出来事。
次の日には、一行は三河に入り、半兵衛は言っていた通りに
偵察の任務を果たす為、二人に対して別れを告げた。