義子は行きは、織田に入ってからというもの
秀吉たちと合流するまで宿には泊まっていない。
銭を無くしてしまったからだ。
だが、銭さえあればこの時代、朝餉と夕餉の出る宿に泊まることはできる。
まぁ、相部屋の上に夜具は無いのだけど。
この日の宿は、義子たち三名のほかに、夫婦で旅をしている男女二人しか泊り客が居らず
宿の好意で二部屋に分かれさせてもらった。
…男女の区別ではなく、義子たち三名と、夫婦二名である。
子供ばっかりだからいいよねお父さん、という宿の者の気安い言葉に
官兵衛が黙って頷いたのが面白かったが、笑っていられないのが竹中半兵衛だ。
見た目だけで言うならば、本当に子供のようなのだけど
彼も一応は元服して長い。
部屋に入るなりむっつりとして、官兵衛を時折蹴っていたりするのだから
気にしているということだろう。
容姿に関する話題は禁止だなと、その彼の行動を見ながら義子は思って
ふぁあと欠伸を漏らす。
ただ、まぁまぁ、彼の見た目でそれを気にしない人間というのも居ないだろうから
ごく当たり前の行動で、十二分に予見できることではあるのだけど。
でもそれも、彼の実年齢を知っていればこその話だ。
知らずに地雷を踏んだ、宿の者は悪くはあるまい。
銃を抱え込み立て膝をついた、おおよそ姫らしからぬ恰好で考えていた義子
ふと視線に気がついてそちらに目をやる。
すると、いつの間にか半兵衛官兵衛がこちらの方を見て、しょっぱそうな顔をしていた。
…官兵衛が表情を変えているのは珍しいと思ったが、そういう問題ではないのだろう、多分。
「…何か」
「いや、なんでそんなかなと思って。もう三年だよね」
「…行きがけに、まだ三年というような言葉をいただいた気がするんですけど」
「それとこれとは別と言う話だ。卿、そこまで警戒をせずともそうそう気がつかれはすまい」
「…警戒して無いと、私は弱いんですが」
「御冗談を」
「いえ、本当に」
言いながら立て膝を止めて、正座する。ただし、銃は抱え込んだままだ。
いつでも攻撃できる姿勢。
本当に、この少女は少女らしからぬと半兵衛はその義子の姿に苦々しく思い。
そうして一方の官兵衛は、言ったから不興を買い過ぎぬように聞く姿勢を見せただけで
その実ちっとも言うことを聞かぬ少女の強情に、好感を抱いた。
警戒しすぎていけないことはない。


質素な夕餉を口に入れ、そうすれば後は寝るだけになる。
明日も朝早くに出発をして、一路今川領を目指すことになっている一行は
夜更かしもせず就寝した。
入口に半兵衛、奥側に官兵衛。真ん中は義子
挟む姿勢をとっているのは、曲者を警戒してのことだ。
一応、あちらさんに気がついたそぶりは無かったみたいだけどねーと
良く思わぬ勢力の動向は半兵衛から聞いたが、警戒はしておくべきとのことでもある。
…そうすると、別に私の行動は間違いじゃないってことになるんだけど。
義子はそれを聞いた瞬間に、自分が何故しょっぱい目で見られたのか良く分からなくなったが
分からないので口をつぐんでおいた。
…懸命だ。
そうしてその懸命さが、彼女がしょっぱい所を直せない原因でもあるのだけど、置いておいて。
ともかくとしてそのように川の字に並んで寝ていた三人だが
他人に挟まれて寝るというのは落ち着かぬもので。
その上曲者が来るかもしれないという警戒から、浅い眠りについていた義子
人の身じろぎの気配に意識をはっきりと覚醒させた。
銃は、手元に置いてある。
起きて居た時と同様に、抱え込むようにして寝ていた義子
ぱっと目を見開いて銃を手繰り寄せれば
「…厠だ」
身じろぎしたのは、官兵衛だったらしい。
こちらが起きたことに気がついて、見下ろしながら言う彼は
無感情な目でこちらを見ている。
その瞳を見返して、義子は警戒を緩めて、こくんと寝転がったまま頷いた。
「いってらっしゃい」
ひらりと銃から手を離さず手を振れば、彼は無言で去って行く。
…まぁ、厠に行ってらっしゃいは、無いな。
考えつつ、ふぁっと欠伸をすると、後ろからつつかれた。
それに振り向けば、半兵衛が目を開いてこちらを見ているのが
暗がりの中にかろうじて見える。
彼も起きたのか。
果たして起こしたのは、官兵衛だろうか、それとも自分だろうか。
詮無いことを考えながら、義子はころりと半兵衛の方に向き直り
彼の名を呼ぼうとして、間違える。
「は…源太郎殿?」
「…駄目だよ、義子殿」
「すいません」
「今のもだけどね、いやぁうん」
言葉を切って、彼は
「いやぁ、うん。正しいんだけど、義子殿って時々いらっとするよね」
ぱちっと目を瞬く。
面と向かって、明確に人に拒否をされたのはこちらに来て初めてだ。
それなりに上手くやっていると思っていたのだけど、何処が気に障ったのだろう。
拒絶されれば義子だって傷つかないわけではないから、眉をはの字にすると
義子殿が嫌いなわけじゃあないんだよ、と声が続いた。
「ただ、あなた見てると、寝て暮らせる世の中って遠いなと、俺が勝手に思うだけの話」
「…寝て暮らせる世の中?」
「そう。皆、寝て暮らせたら良いよねぇって話」
「そうですね。寝て暮らせれば、皆幸せなのに」
夢見る声で言う半兵衛に、思わず想像してしまって
義子は、それは私が元居た世界のようなものだろうかと思う。
穏やかに生活をして、穏やかに命が営まれ、穏やかに寝られる世の中。
それは、とても幸せだ。
比較すれば、どこまでも幸せで、どうしようもないぐらいに、幸せだ。
そう思うと、声が勝手に落ちて。
ぽとんと、義子が思わず落してしまった声に、半兵衛の目が僅かに見開いた。
まるで同意が義子から返ってくるとは思っていなかったような表情。
だから、自分は彼の中でどんな存在なんだ一体。
疑問に思う義子だけれども、半兵衛の中で一番義子に似ている知人は官兵衛で
その彼はああなのだから、義子が同意するとは、彼は思わなかった、そう言う話。
そうして、義子が源太郎殿、と呼んだ声に、半兵衛はふっと表情を緩めて、義子の前髪を触る。
余りに気安い。
本来であれば、さすがに止めさせるべきだったのだろう。
義子は女で、半兵衛は男だ。
義子は今川で、半兵衛は織田だ。
けれど、半兵衛の接触にそういう意図が無いとなんとなく、何故か判って
そうであるなら、何を言うのか、何がしたいのかと
彼の次の行動をじっと黙って待った。
「…ねぇ、あなた」
静かに、彼が口を開く。
「はい」
静かに、彼女も答える。
夜半過ぎだから、空気も止まっているような静かな部屋で
静かな空気で、静かな温度で義子を見て、半兵衛はやはり静かに目を閉じた。
「あなたは、どういう人なのかな、義子殿」
「どういう、と言われても」
「面白い人だと、いいなぁって、俺は今思ったよ。ね、あなたが面白い人だと、良いな」
流れ星に願いを託す時、人はこういう声を出すのだと思う。
自分で動きはしないんだけど、叶うと良いな。程度の願いを言う声で半兵衛はそういうと
そのまま寝息をたて始めた。
置いてきぼりを食らった義子は初め面食らったが、そのまま腕に頭を預け直して
半兵衛の言ったことを、考える。
「寝て暮らせる世の中、か」
…多分、それはこの人が望む世の中の形なのだろう。
遠いな、ということは、作りたいということ。
だということは、寝て暮らせる世の中、が竹中半兵衛にとっての泰平ということだろうか。
…泰平。
久しぶりに思い出す単語に、義子の心はさざめく。
泰平。
その単語を聞いて義子が思い出すのは、王道という言葉で塗り固められた苦々しい敗戦の記憶だ。
だが、思えば。
あの敗戦を義子に与えた者、武田信玄が何を持って泰平と言っているのかその答えを義子は知らない。
今、竹中半兵衛は寝て暮らせる世の中を泰平だというようなことを言ったけれど
まさか武田信玄がそのようなことを言うようにも思えないし。
「泰平は、人の数だけある…のです?」
声には、少しだけ皮肉気な調子が混じった。
ふと思い浮かんだことを声に出してみただけの言葉だけれども、多分それが真実だ。
人が思い望むのならば、ぴったり重なり合うことなどありはしないから
皆同じことを思っても、ずれの分だけ形は異なるに違いない。
だから、きっと泰平は人の数だけ。
…戦争が無くならないはずだわなぁ。
余り良いことでない事実に気がついて、嫌な気分になった義子
天井を見上げてふぅとため息をつく。
作りたい物の形が違うなら、それは立派に争いの理由になる。
人を踏みつけて、作る平和の先にある未来でさえ争いの火種になるのか。
それに、喉に小骨が刺さったような気分になりながら、義子はため息をもう一度、ついた。
天下とは、泰平とは、何ぞや?
それすら争いの火種になるのに、どうして人はそんなものを求めてしまうのか。
疑問に思う。
だけれど、義子にはその問いに対して答えの持ち合わせが無く、それが彼女には堪らなく歯がゆく思えた。