さて、三日の時が過ぎた。
外を化粧していた白は太陽光に溶かされて、土色や緑色がその色彩をさらけ出している。
…ということは、帰還が出来るということだ。

まだ、朝日も昇りきらぬうちに、義子は駿河・今川へと帰還をするため
世話になった秀吉・ねね夫婦に向かって出立の挨拶をしていた。
前日に謁見のときの小姓から届けられた文を懐に入れ、旅支度を済ませ
秀吉から貰った金子を腰に下げた袋に入れている。
無論、燧石銃は背中に背負い、あとは出立するだけの状態で立つ義子に向かって
秀吉が厩の方に視線をやりながら
「馬は目立つからやめた方がええじゃろうとのことじゃ。
歩きで駿河まで帰るならば、しばしの時間がかかるじゃろうが」
「いえ。目立たぬにせよ、馬までは。
金銭の工面までして頂いただけで、ありがたいことです」
「なぁに。同盟の文を運んでもらうわけじゃから、本来は盛大に護衛する所じゃが、な」
あらぬ方向を見る秀吉に釣られて、そちらの方角を見る。
武家屋敷が並ぶ方へと視線を向ける秀吉が、誰を指しているのかはわからない。
だが、今川方に良い感情を抱いてはいない人間がいるのは確かなのだろう。
懐にしまった文を服の上から確かめていると、そっと近づいてきてねねが義子の方へ
竹の皮で包んだ弁当を差し出す。
「これ、良かったら道中で食べておくれ」
「ありがとうございます、おねね殿」
「いいんだよ。気をつけてね」
よしよしと、頭を撫でられる。
その撫で方には、ほんの少しの遠慮が混じっているけれども。
…嫌いじゃあない。
弁えていたのならば、きっと心がいつか動いていた。
目の前で見なければ、きっと。
だけれども、そうにはならなかったから、永遠に『嫌いじゃない』から動かない人を見上げて
義子はにこりと微笑んだ。
「では、おねね殿。また機会がありましたならば、こうして構ってやって下さいまし」
「ありがと、義子姫。あなたにまた会えたらいいなって、あたしは思うよ」
「私もです」
切なげに笑うねねは、きっと本当に義子との別れを惜しんでいて
その心の綺麗さを尊いと、思うが。
…無用だな、これも。
切り捨てて、義子はぺこりと二人に向かって頭を下げる。
「それでは、お二方とも、本当にお世話になりました」
「いいや。それじゃあ、元気でな」
「強い子だから大丈夫だとは思うけど、気をつけてね!」
「はい、ありがとうございます。それでは」
軽く微笑んで、二人に手を振りながら、義子は待たせていた官兵衛へと振り返る。
「官兵衛殿、お待たせいたしました。出立いたしましょう」
「あぁ」
言葉少なに頷く彼は、やりやすい。
適当に相手をしても文句を言われることはあるまいと、さくさく歩き始めて城門を抜ける。
あらかじめ通すようにという命令が下っていた門番は
何一つ咎めることなく、義子と官兵衛を通し。
両名は順調に城下町も抜けて、さて、ではそろそろ町の外に出ようかとなった時に
ぽんっと官兵衛の肩を叩く者がいた。
「やっほー官兵衛殿、義子様も元気?」
「半兵衛殿」
「半兵衛、何故ここに居る」
官兵衛に対しての気安い調子、白い大きな帽子に、童のような小さな体躯。
言わずと知れた竹中半兵衛その人であった。
思いもよらない人物の登場に足を止めかけた義子と官兵衛だが
半兵衛はそれを留めるように二人の間に入りながら、歩みを進める。
「いやあ、見つけられて良かった良かった」
「いや、あの、半兵衛殿、そのまま歩くと町の外に出ますよ?」
「半兵衛、何をしに来た」
最初は目を丸くして彼の歩みについていっていた義子と官兵衛だが
半兵衛の歩みが止まらぬのに口々に尋ねると、半兵衛は両名を交互に見ながら
何を言っているのだろうという顔をして首を傾げる。
「え、何って。俺、三河までお使いを申し付かってきたから一緒に行こうかと思って」
「………えぇっと、お使い?」
気になる単語に突っ込むと、半兵衛は今度は反対方向へと首を傾けた。
「ていうか、偵察?徳川領が今どんな具合か見てこいって」
しかも、傾げながらぶりっ子の仕草で、顎に人差し指を当てるのだから、嫌なものである。
…三十過ぎのおっさん。
これ、三十過ぎのおっさん。
ひっじょーに似合っているのが本当に嫌だが、彼の年齢を考えると本当無い。
無いけど似合う。
なんなんだろう、うちの義父といい、彼といい、自分がそれを許されると知ってる人間って
ほんっとうに性質悪い。
の?と首を傾げながらこちらを伺うのがよく似合う半兵衛以上に歳を食った父親を思い出しながら
義子がくちをへの字に曲げていると、その辺りはどうでも良い官兵衛がごく当たり前に突っ込みを入れる。
「それは、明らかに卿でなくても良かろう」
そう。
半兵衛が言う申し付かった任務は、明らかに半兵衛が請ける任務では無い。
草だとか、その他旅芸人、修行山伏からもたらされる情報で十分である。
なにしろ三河は敵国で無くほぼ属国の同盟国なのだから。
けれども半兵衛は、官兵衛の言うことを聞いても空とぼけた顔をして
「えーそっかなー。やっぱりそういうのってきめ細やかな洞察力と
洞察力で得た結果を答えと結びつけられる知識が必要だから
俺が選ばれたんじゃない?」
白々しい。
言い方が、大変白々しい。
おまけにその白々しさを本人が隠す気が無いからいらっとくる。
「………官兵衛殿」
訳:あなたの友人でしょう、なんとかしてください。
「…私に振るな」
訳:知らぬ。
思わず半兵衛を見ながら義子が死んだ表情で官兵衛に話しかけるが
官兵衛は官兵衛で半眼で半兵衛を見ながら義子にそっけなく答える。
その二人の表情を眺めつつ、半兵衛は「ほら、早くしないと」と空々しいセリフを吐いて
義子と官兵衛の手を引きにっと笑った。


永禄六年、今川には、なんとか永禄七年になる前に着けるかという程度冬が進んだ日の話。