じじっと室内に点された灯りの火が音を鳴らした。
薄暗い明りの中向かいあうのは、豊臣秀吉と黒田官兵衛である。
秀吉の武家屋敷の、
義子がいる部屋からは遠く離れた一室にて対峙し合う彼らは
秀吉が
義子に持ちかけた、彼女が今川に帰るまでの護衛の件について、話し合っていた所であった。
と言うたところで、それが上司からの命令である以上は
官兵衛が逆らうことなど、よほどで無くば出来ないのだが。
そうして今回に関しても、官兵衛は文句一つもなく是を返そうとしていたのだが
その前に秀吉がからりとした笑みで口を開き
「いーやー
義子姫はこーわいな」
「怖い」
怖いというには明るすぎる声で言う秀吉は、いつもの調子だ。
そうして官兵衛もいつもの調子で、冷静に人を判じる目をして秀吉を見る。
家も血も無く、ただ己の才覚と運だけでここまでを切り開いてきた秀吉が
こういうことを言うのは、織田信長公を語るときでもないならば
人を褒めるときしかない。
繰り返しながらどのようなことが?と官兵衛が目で問うと秀吉は
笑いながらいやいやと首を振る。
「途中までは上手くいっとったんじゃがな。途中で正気に返られてしもうた」
「それはそれは」
相槌を打ちながら、官兵衛は今秀吉が語ったことに少々の驚きを覚える。
それは、それは。
秀吉の言葉は、官兵衛相手であるから大分簡略化をされているが
ようするに、いつものように気遣いにて相手を絡み取ることが失敗した、とそう言うことだ。
行きの道中ではまんまと策に嵌っているようであったが。
ねねに好感を抱きかけ、しかし秀吉の気遣いに感謝している様子だった
今川の姫を思い返しながら、黒田官兵衛は目を細める。
岐阜についてからは、今川の姫がこちらに来ていることを
知られたくない様子の信長の意を慮り、皆、接触などしておらぬので
最中に何があったかは知れないが。
何かきっかけがあって運良く正気づいたのか
それともただの少女では無く呑まれておらなかったのか。
いずれにせよ、引き渡される官兵衛としては、少々面倒な話だと思う。
「その状態で私に引き渡されても困りますな」
ので、そのままのことを言い募れば、目の前の彼は苦笑しながら
ぽんっと官兵衛の肩を叩く。
「まぁまぁ、そう言ってくれるな官兵衛。お前しか居らんのだ」
仕方が無いだろうと、肩を叩きながら掛けられる、頼りにしていると言外に告げる言葉。
秀吉の目は細められ、その表情からは信頼が滲みでている。
いや、無論官兵衛のことを信頼しているのは本当であろうが
彼がこういう表情を見せるのは、わざとだ。
子飼い連中はこういう態度にころりとだまされているが
官兵衛は、違う。
これは彼の人心掌握術であると分かっている、分かっている、が。
豊臣秀吉が怖いのは。
本当に怖い所は。
こういう人間だと分かっていても、従わずにはおれないその魅力、そこだ。
人の弱い所を的確について、良いように動かしてしまうその才は
不世出のものだろうと、官兵衛でさえ感じる。
「御意に」
であるから、不快ささえ感じることもできずに
官兵衛はただ、秀吉の命に対して承ることしかできなかった。
天下に一番近いのは織田信長公である。
だが、豊臣秀吉。
織田信長に大人しく従ううちは、信長の強い味方になるだろうが
野心を抱けば大きな火種に確実になる、な。
一瞬、官兵衛の目が更に冷えた物になったが
官兵衛の主はそれに気がつかず。
また官兵衛も、秀吉が大人しく従ううちはと、その眼の冷えを一瞬で打ち消した。
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