完全に雪解けするまでは三日ほどはかかるだろうか。
そのような見解を秀吉から聞いた義子は、仕方がないですね、と答えた。
仕方ない話だ。
積雪量が積雪量であり、また小氷河期に入っている戦国時代では現代よりも寒い日が続く。
そうだ、仕方が無い。
武家屋敷が並ぶ界隈は人通りがそれなりにあり、落ち着かない気持ちになるが、仕方が無いのだ。
そのように大人しく納得する義子の姿に秀吉は苦笑をした。
義子姫は物わかりがよすぎるな」
半分呆れが混じった声に、義子は肩をすくめる。
「そうでしょうか。そうでもないと思います」
仕方が無い、と諦めるのが得意なだけな話だ。
仕方が無い。で諦められることは存外多い。
大体あがいてもどうにかならないことに対して、駄々をこねるのは好きじゃない。
そういう気持ちで否定した義子だが、秀吉はその義子の反応に苦笑を強めただけだ。
「いいやぁ。そうじゃとわしは思う。案外官兵衛辺りと気が合うんかもしれんな」
「官兵衛殿、ですか」
言われた人物の名に、今度は義子が苦笑する番だった。
それは、無い。
黒田官兵衛は義子に全く興味が無く、義子はその彼の興味の無さを好ましく思っているが
それでは気が合うことにはなるまいて。
ただ苦笑を浮かべる義子だが、秀吉の方はそう思ってはいないらしく
ぽんっと手を打つ。
「そうじゃ、義子姫。帰りの道中は護衛をつけるという話があるんじゃが
護衛は官兵衛にしよう」
「は、はぁ…護衛?」
行き成りの提案に義子は驚く。
護衛をつける話は寝耳に水だわ、その護衛が官兵衛だわ、驚かぬ理由が無い。
しかし、護衛に官兵衛?
様々な所に疑問を持つ義子を置き去りに、秀吉が不思議そうな顔をした。
「そうさ。そういう話を…わし、しとらんかったか」
「全く」
「…しとらんかったか……信長様からいわれたんさ!護衛と食料は出立のときにはつけさせてもらう」
「しかし…官兵衛殿は軍師では」
軍師も戦場に立つとはいえ、黒田官兵衛が護衛、と言われると不安になるのは
彼が人殺しに長けていそうには見えないからだろう。
だけれども、その義子の不安を正しく読み取った秀吉は
それを払拭するように、からりと笑みを浮かべて
「なぁに、それでも義子姫を守れるぐらいの技量はあるんさ。
それに、行きの道中義子姫は、官兵衛の前に乗っておった時には少し気を抜けておったじゃろう?
長い旅じゃあないが、短くもないんじゃ。そういう者に任せた方が」
「…………」
言い続ける秀吉を義子は見た。
言っていることはおかしく無い。
物言いも普通だ。
素直に頷いて、問題無い。
彼は大変な気遣いをしてくれている。
えぇ、そうですね、では官兵衛殿にお願いしましょうか。と言いかけて。
「お前様、新しいお茶持ってくるように頼もうか?」
「おぉ、ねね。頼む」
ねねが廊下の向こうから、秀吉に向かって話しかける。
そのねねの姿に、義子ははっとする思いで彼女を見た。
織田だからと拒絶した、彼女。
そしてこの男は彼女の夫で、彼こそ完全な織田方ではないか?
それに思い至った瞬間、ぱっと義子は秀吉から離れる。
…………何が、大変な気遣いをしてくれている、だ。
意味が、分からない。

ぱきっと氷を踏んで、その音で目が覚めたような感覚。

それを感じながら秀吉を凝視する義子に、ぱちりと目を瞬かせ秀吉は義子の名を呼んだ。
「………義子姫?」
その、名の呼び方に白々しさを覚えるのは、現金すぎるだろうか。
「いいえ、そうですね。今在るあなたの手駒の内ならば、官兵衛殿がよろしいのでしょう」
何処までも気遣いしか見えぬその声色こそが、逆に疑わしいのだとどうして気がつけなかった。
硬直した表情で義子は秀吉の言に頷く。
先ほどとは違って考えた末で。
誰か一人となるのは義子が目立てぬ身だからに違いなく。
豊臣秀吉の配下で現在近くに居るのは、子飼い、もしくは両兵衛のみ。
誰か一人となるのは義子が目立てぬ身だからに違いなく。
そうして順番に考えていくと、子飼いをつけるのはいけない。
彼らは常に秀吉の傍にあるものだ。
居なくなれば誰かが警戒をするだろう。
半兵衛も、駄目だろう。
彼は体が弱いと聞く。
護衛に付けて倒れられたのでは意味が分からない。
そうして残るのは官兵衛しかなく、また彼をつけるのは豊臣秀吉にとっても都合が良い。
一点、子飼いとの接触が避けられるために要らぬ軋轢がまた生まれるのを防ぐことができる。
一点、義子との接触を多くすることで、頭が良い彼ならば今川の情報を義子から引き出すことができるやもしれない。
一点、万が一義子から情報が引き出せずとも護衛として今川に行ければ得るものは、確実にある。
今ざっと思いつくだけでも、これだけ。
…………ざっと思いつくだけでも、これだけ上がるのに
義子はその考えるということを放棄して、提案に頷きかけた。
あぁ意味が分からない。頭が死にかけていた。
彼に対して思考停止で気遣いをしてくれているで片づけるなどとは、正気の沙汰ではない。
豊臣秀吉は織田だ。
織田方の者だ。
その彼が今川義子に対して無償の気持ちで接するなどあるものか、馬鹿が。
どこからだ、宿か。
最初に会った時には打算を考えていた。
義子のことを秀吉が放っておけぬのは、彼に対して責任が降りかかるのと手柄になるからだ、と。
その時には彼も、…恐らくわざとだろう、裏にある功名心を素直に見せていた。
だが、重ねられる自分に対しての気遣いを受けるうち、秀吉は裏を見せなくなり
義子の方も、この人は親切な人だから
そういう気持ちでもって、全てを受け入れようとしていた。
ねねは拒絶したのにか。
あぁ、彼女の親切は全て善意に基づくもので、かつ今一空気が読めてないものだったから
分かりやすく義子の拒絶の対象となりえた。
だが豊臣秀吉という男はどうか。
彼の提案は全て頷けるものばかりで、義子が嫌がる『弁えない』行動は何一つない。
何一つ無いからこそ受け入れて、何一つ無いからこそ思考停止をしかけた。
それは駄目だ。
とても、駄目だ。
秀吉の顔を見る。
彼は義子の行動に不思議そうに彼女を見ていたが、やがて顎をさすった末に
「怖い子じゃあな、今川の義子様は」
「いいえ、いいえ。全く」
にっと笑う秀吉に、にっと笑い返しながら義子は彼にむかって首を振る。
怖いのはお前だ、豊臣秀吉。
農民から織田の家臣へと上り詰めるような男相手に何をやっていたのだか。
裏を見ることを怠っていた自分を義子は叱咤する。
ここは織田だ。
今川ではない。
それならば、全ての物事に裏を穿って見るぐらいでちょうど良いのに。
いつの間にか知らぬ間に、警戒心を解かされかけていたことに気がついて
義子はぞっとしながら秀吉を見た。
からりとした笑み。
けれどその底には確かに怖いものが潜んでいる。
雪が降ったのは、幸運だったのかもしれぬな。
もしも雪が降らなければ、豊臣秀吉という男は大変に親切であった。で終わる羽目になっていた。
もしも、雪が降らなければ。
もしも、ねねが馬鹿を言いださなければ。
もしも、義子がねねを拒絶しなければ。
もしも、先ほどねねが通りかからなければ。
怖い怖い。
全く自分はついていると思いながら、義子
「まぁ諸々は置いといても、官兵衛でええじゃろ?」という秀吉に対して
「異はありません」と、返すのだった。