場面は代わって、今川領・駿府。

「指南役、そういえばあなた、近頃私に対して失礼であるよね」
「何がでしょうか、氏真様」
今川義子が尾張・美濃へ旅立っても、変わらず日常は営まれ続ける。
今日もまた兵法の指南をうけていた氏真は、講義が終わった途端に指南役へと難癖ともとれる言葉を吐いた。
それに対して指南役は平然とした表情でそらとぼけたが
氏真は講義中に、ちらりちらりと時折寄こされる彼の含みのある視線に気がついていたので
ふっと淡い笑いを浮かべる。
「何をとぼけているのか。
私がきちんと真面目に授業を受けていることに
時々不審そうな眼を向けているくせに」
「…………そうですかな」
「いやぁ、正直に言っても良いのだよ?義子がいないのに私が講義を真面目に受けているのが気持ち悪いと」
「そこまでは誰も思っておりませんがね」
虐めるつもりも無く。
気持ちが悪いなら気持ちが悪いとはっきり言ってくれた方が良いと氏真は言ったが
まさかそんなことを今川の大名の跡取りである氏真に直接的に指南役が言えるわけもない。
彼はそらとぼけ続けたが、しつこく氏真が言い続けると、こちら側の言い分を暗に認めた。
それがうっかりであったならば、まだ可愛げもあるのだろうが
彼の表情からして面倒になったことが窺い知れるので、可愛らしさなど微塵もない。
ただ、人と感じ取り方が違う氏真なので、彼はその指南役の可愛く無さに
大きな笑い声を上げた。
「はっはっはっ。暗に認めておるけど、分かっていてやっているのだからあなたも意地がよろしく無い」
その氏真の笑いにもう本当に面倒になったのか、指南役はうんざりとした表情を隠しもせずに氏真を見た後
表情を改めて、近頃さぼりもせずに講義を受けるようになった跡取りを見る。
いや、義子と言う少女が今川義子という名を与えられてからというもの
出席率は上がっていたのだが、居眠りばかりしていたのだから、講義は受けていたが不真面目であったと形容した方が良い。
しかしその彼が、義子が居らずとも講義に出席し、あまつさえ起きて講義を聞くとは
指南役の予想の範疇外であった。
「近頃真面目ですな」
だから指南役はその心を素直に吐露し、そういう会話の流れに差し向けたかった氏真はそれを素直に肯定する。
「いやね、あぁうん。すこぅしだけ、思う所があってね。
…いやいや、敗戦もであるけれど、義子のことだよ」
その、氏真の答えに対して指南役は口を開こうとして、言いにくそうにまた閉じたので
氏真は流れの方向を定めるために、情報を追加した。
確かに氏真が真面目に講義を受け出したのは、敗戦を機にしてではあるが
それだけではないのだ。
敗戦半分、妹半分。
だけれども、指南役はなぜそこで義子が出てくるのかというような表情で首を傾げる。
…分かってないなぁ。
「妹君がいかがされたのです」
「なに、少しの成長を見せているものだからね。
このままぼやぼやしていると置いていかれると思って」
「成長。あの方はいつでもしておったように思いますが」
「いやいや、知識、技術、体術、どれでもなく精神面で、だよ」
「精神」
指南役のその言葉はある意味正しい。が。
表面をなぞらえては成長を見せていたが内面に関してはそうでない少女を分かっていない
指南役に対してもう一度、氏真は分かっていないなぁと思いながら
彼の言を否定した。
「あの子は、拾われてきた当初は、自分ごとばかりで動物のような子であったのだよ。
知っていた?」
「いいえ、そのようなことは私には全く分かりませんでしたが」
「そうだろうね、あの子は隠すのが上手だ」
指南役、彼の言葉は妹の取り繕いの上手さを表しているが
その上手さが彼女の不幸でもある。
生きるだけ、動物的なだけの少女は、けれど取り繕いが上手いから
氏真と義元以外の誰にもそこを理解されずに今まで上手にやってきた。
「しかしね、そんな可愛らしい我が妹が、死にたく無いばかりのあの子が
私をかばう所をね、見せたのだよ」
「三増峠にてですか」
「そう。ならね、視野が広がる日も遠くないだろうよと思ってだね」
三年。
三年だ。
今川に来て三年。
常に注目される立場にありながら、本性を覆い隠してきた少女/女は。
そうして、このまま氏真と義元以外の誰にも理解されずに
変化していくのだろう。
そのことを思えば、自然にうっすらと笑みが浮かんだ。
恐らくとして、目の前の指南役にはこの笑みの意味は分からないだろうけれども。


死にたくないばかりだった少女が、死にたくないけれども他者(氏真)をかばう姿勢を見せた。
それは、自分ごとばかりだった彼女を考えれば多いなる変化で
この後は恐らくとして、自分だけでなく他者に目を向けて、変化していくのだろうと思う。不幸にも。
不幸。
他者に目を向けられるようになるのは、良い変化のはずだ。
けれどそれを氏真は不幸であると思う。
何故か。
―理解されないことを心底理解しだすのが、彼女の不幸。
今の指南役を見ただろう。
彼は『義子』の表面だけを見ている。
いいや、『今川義子』の表面だけを見ているといったほうが正しいか。
誰もかれも皆、『義子』ではなくて『今川の姫』『今川義子』しか見ない。
そういう立場に彼女はなった。
施政の立場に立つ者は、人の心は持っているけれども、人だけれども
他者からすれば人格はあって無いようなものだ。
氏真も、氏真だけを見られることはまず無い。
父とて、必要な時にはそうだ。
だから引きずり込んだ。見てくれる人が欲しくて、なんら関係の無い稚い少女を。
そうして、自分と同じ目に合わせようとしている。
表面だけをなぞらえて、『今川義子』しか見ず『義子』を見ないものばかりに囲まれて
そのまま変化していくのなら、それは、彼女にとって不幸でしかないと知りながら
それでも、氏真は、彼女の変化を尊ぶ。
施政者になるものとして、選んだものがそうなることを、尊び喜ぶ。
人間的に成熟していくことは、施政者として人を惹きつける魅力にも通ずるからだ。
だから、おいでと義子を呼んで、そうして手を結んで車輪であり続けるために
氏真も、変わろうかと思ったのだ。
「それで、まじめに努力を」
思ったのだけど。
「してみようかなっと思ったけどやっぱり無理面倒くさい、あーやだ面倒!」
やっぱり面倒なものは面倒なので、氏真的にはもう放りだしたくて仕方が無い。
面倒、めんどーう!
そうしてそのいつも通りの氏真に、指南役がよろよろと顔を手で覆った。
「…氏真様…氏真様…」
「何、私が綺麗に終わらせると思っていたら大きな間違いだよ。
というか、義子に面倒とか言わないでください兄上とか言われたい。
あの子早く帰ってこないかなぁ!!」
「まだかかるでしょう。雪も降りましたし」
ちらりと指南役が外を見た。
それにつられて氏真も外を見れば、白い化粧を施された冬景色がある。
忌々しい。
駿河の辺りはまだ浅く、三河から向こうはもっと雪が降ったのだと報告を受けているから
妹の帰還はまだ先になるだろうと知ってはいるので
氏真は嫌々ながらに素直に頷き、話の流れを元に戻す。
「だよね。と言うか話を元に戻すが、指南役。
私はあの子が可愛いのだよ。
猫みたいだしふにゃふにゃしてるし自分ごとばっかりで動物的で
猛烈な攻撃思考を持っていて、その上視野が狭いあの子は可愛い。興味深い」
「はぁ」
「でも、あの子を興味深いと思うが故に知ろうだとか
今川を愛しているが故に知ろうだとか
そういう気持ちには、私は他事に対してなれないのだよね。
これはどうすればよいと思うかね」
例えば武田とか織田とかその辺りについて。
興味が持てない。死ぬほど持てない。
武田はあのおためごかしで野心を塗りつぶしている所が死ぬほど気にいらないし
織田はさっさと天下をとって戦事を無くしてくれないかなと思うだけで、ただ、それだけだ。
やってみようかと思ったけど、やっぱり無理だったことを言い募れば
指南役は眉をはの字にする。
「………どうすれば、と言われましてもね。
あなたはずっと以前からそうだったのでしょうに」
うん、まぁそりゃそうだ。
もっともなことを指南役は言うけれども、でもそれではいかんのだよ。
「そう。私はそうあってきたね。そりゃあそうだ。
だが、これからもそうであり続ければ今川は滅ぶやもしれぬ。
そういうことを考えての行動なのだけど」
武田の計略にあっさりとかかり敗戦した氏真が、ため息交じりにそう言えば
指南役もため息交じりに
「…それが分かっているのならば、それを原動力とすれば良いだけの話では?
今川は、お好きなのでしょう」
「まぁ、そうだねぇ。正論だ」
仕方ない。嫌いなものを嫌いだからこそ批判するために
あらを探す気持ちでほじくり返そうか。
今川を好いている。残したいと思っている。
それだけは真実で、相変わらず死にたくないわけじゃあないし、他者に興味を持ちたいわけでもないのだが。
無理やりに興味を持つしかないのかと憂鬱になりながら、氏真は正論しか吐かぬ指南役へと頷いて見せたのだった。