そうして一日が切り替わって朝になると、大雪が積もっていたのは
義子がちょっとついてない子だからかもしれない。
「…え、なんでさ」

大雪であるということは、そこらじゅうで雪が積もっているということで
そんな中を歩けやしないということで、とどのつまりは信長に文を書いてもらっても
すぐにはお家に帰れないということですね。
…なんでさ。

とりあえず、庭に出て、足を雪の中に突っ込んでみる。
積雪は、義子の足が太ももまでずッぽりと埋まるぐらいだから、相当なものだろう。
固い地面の感触がようやく足先に当たったのに、眉をしかめながら
義子は足を雪の中から引き抜いた。
「…冷たい」
呟いて、重苦しく息を吐く。
これでは、しばらく逗留せねばならないではないか。
とても歩き旅が出来る状態ではない状態に、義子は頭痛がする思いだ。
昨夜のやりとりで、内密文書を自らが運んできたのだと知った以上は
早めに家に帰りたいというに。
いや、そうでなくても帰りたいのだけど。
既に『家』があそこに定まっていることを改めて思い知りながら
義子はもう一度ため息をついた。
…家に帰って兄上にちゃんと勉強しろ仕事しろと言いつつ
父上に蹴鞠ばっかりするなと言いたいとは何事だろう私の人生。
義子姫、難儀なことになったなぁ」
「あぁ、秀吉殿」
そうしてそこに現れたのは、家の主である秀吉であった。
彼は義子が庭先に居るのを気にした様子もなく、話しかけてきたが
ふと義子の足元に目をやって呆気にとられた顔をする。
「…なぁ、義子姫」
「はい、なんでしょう」
「なんで、足元がびしょぬれなんじゃ?」
「足を雪の中に突っ込んで深さを確かめたからです。
太ももまで埋まりましたから、相当に積っている様子。
そうですね、一尺半(一尺:三十センチ程度)はあるんじゃないですか」
「あぁ、うん」
一応着物の裾は捲くって埋めたのだけど、濡れた足から水気が移った様子で
着物は変色をしてしまっている。
それにあーあと零しつつも返答すれば、どうしてか、秀吉はしょっぱそうな顔をしながら
義子の方を見るのだった。




そのような事態になったので、義子は雪が溶けるまで尾張に逗留することと相成った。
甚だ不本意ではあるが、仕方がない。
彼女は諦めの混じった気持ちでそれを受け入れた。
自然現象が相手では抵抗のしようがないからだ。
そうして、今川の姫が逗留するということを
表だって知らせるつもりが、やはり信長には無いようで
彼女は秀吉の館にそのまま居残る事になり、派手な歓迎を受けることもなく
ただ静かに日々を過ごすことになったのである。
まぁ、義子としては派手な歓迎を受けぬというそれは、不幸中の幸いなのだけれども。
派手・目立つということが、あまり好きではないので
こうして地味に暮らせるのは良いのだけれど、な。
銃に湿気がこもらぬよう、火鉢の、火花が散らぬ程度の位置に燧石銃を置きながら
義子は眉をしかめる。
義子のことを信長が隠すようにするのは、今川と交戦せぬので無く
真実手を結ぶことにするのを良く思わぬ勢力を警戒してのことだろう。
昨日の謁見然り、今の状況然り。
それを考えれば、いつ雪が解けるか分からない今の状況というのは
余り義子にとって宜しくない。
純粋な味方が一人も居ない状況で、命を狙われる危険性があるというのは
初めてのことで、それが微妙に彼女に焦りをもたらす。
早く帰りたい。
雪解けを一身に願って、目の前の燧石銃を見つめている義子だったが
ふと人の気配を感じてぴくりと体を動かした。
素早く銃をとってそちらの方へ目を向けると、障子が開いてねねが姿を現す。
義子姫、おはよう!」
「おはようございます、おねね殿」
口調と顔はにっこり、しかし手には銃を持っている義子の姿は
物騒なこと極まりないがねねは気にした様子もなく、
こちらの傍まで近寄ってきて、隣に座った。
「酷い雪になっちゃったねぇ…」
「そうですね、困ったことです。秀吉殿やおねね殿にもご迷惑をおかけします」
「まさか、迷惑だなんて!でも、家に帰れないのは寂しいだろう?」
「…そうですね、少しは」
本当は少しでなく、今すぐにでも帰りたいのだけれど
隣の人に言っても仕方がない。
嘘を上手について誤魔化して、さらりと平気な顔をする義子に騙され
ねねは深刻な顔をすることもなく、そっかーそうだねと軽い調子で相槌を打った。
ただ、それだけでは済まないのが、ねねのねねたる由縁で
「じゃあさ、気分転換に今からちょっと外に出ようよ!」
「……え?」
そのねねの誘いに、義子はぽかんと口を開ける。
何を言ってるんだ、この人妻は。
現在の状況を考えれば、義子は家に閉じこもっているのが一番良い。
存在もしていないようなふりをして静かに、雪解けまで蹲っているのが一番上策で
それ以外は下策であるというのに。
何を言っているのか、本当。
ねねが状況に気がついていない可能性も脳裏をよぎったが、
『今川の姫』が『織田』に『御自ら』来て
だというのについたとたんに呼び出され、歓待もされず
『たかが家臣』の家に留め置かれている時点で
何かあると、察しがつかないわけがない。
少し考えれば、分かる話だ。
そうして、ねねの立場であるならば、義子に対しては
常に対応を考え続けなければ、ならないのに。
多少呆れの混じった視線で義子はねねを見たが、その表情に悪意一つなく
ただ善意だけなのに、がっくりと項垂れる。
あぁ、そういう、な。
ようするに、ねねは善意の人だ。
人が困っているから助ける。
人が沈んでいるから明るくする。
それは大変に褒められるべき長所であるけれども
彼女の置かれた立ち位置からすると、すこーし困ったちゃんでもある。
まぁ、空気読めてないのは、義子に構いすぎていた道中から分かり切っていたことであったが。
そうして思い出せば、ここに来るまでの道筋でねねは三成から
『空気を読めるわけがない』とまで言われており
この彼女の短慮は、いつものことなのだろう。
その短慮が今まで許されてきたのは、彼女が彼女だから故なのだろうけれども。
どうしてか、べたべたされても嫌じゃあない、太陽のような笑みを持っている犬のような人を見る。
彼女はん?と不思議そうに首を傾げ、その仕草に義子は嫌いではない、と思ったが
それとこれとは話が別だ。
引いた線を越えるのを、義子は自分にも他人にも許さない。

道中の出来事は、まだ良いだろう。
彼女が義子にべたべたしようがべたべたしまいが、今川の人間があの場に義子だけだった以上
あれは義子とねねとの問題である。

だがしかし、此度、義子が置かれた状況からして、義子が外出するのは避けるのが無難。
そういう分かりやすい答えを無視して外出を勧めるのなら
それは駄目だ、許せない。
こちら側の問題は、義子とねねの問題だけにとどまらず
今川と織田の問題に発展する危険性が秘められている。
その危険性を無視するのだとか、気がつかないのは、義子には、許せない。
彼女がただの女でなく、織田信長配下、豊臣秀吉の妻であるからこそ、許せない。
立場には立場に見合った行動がある。

義子は自分の心が急激に冷えるのを感じた。
心を傾けないための自衛心が働いているのも大いにあるだろうが
義子は結局、この手の人種とは最終的には合わない。
表面上付き合うのは良いけれど、深く付き合えば必ず仲違いをする。
『良い人』である彼らの行動原理と、義子の行動原理は全く異なるものであるからだ。
それであるのに、嫌いではないと、会った時から思い続けているのは。
尾を振る犬は叩かれず、からきているのだろうよ。
尾を振る犬は叩かれずとは、尻尾を自分に向かって懸命に振る犬は
ぶてない、邪険にできないと言うことわざである。
そのように、ねねがあんまりにも一生懸命、可愛い可愛いと全身で義子に伝えてくるから
義子にもその心理が働いて、目隠しをされてしまったけれども。
いや違うか。言い方が綺麗過ぎる。
好いてくれるのは気分が良いと言う浅ましさが、目隠しをしていた。に訂正しよう。
あぁなんて馬鹿らしい。
…ねねがではない、義子が、馬鹿だ。
最初の身体的な密着で判断力を鈍らせ抵抗を諦め、その上相手があんまりに好意的であるから
自分も好意的な色眼鏡で相手を見て、兄上に似てる。とか
子供が居ないから構いたがるのだろうほほえましくも痛ましいことだとか
そんな余計な事を考えて、中途半端に受け入れた。
その結果がこれだ。
最初から拒否していれば、中途半端をせずにすんだのに。

…捨て犬を撫でるだけ撫でて、放り捨てるのはとても残酷なことですね。
なんてお前は冷たい人間なのでしょう。

責める心は無視をする。
この人には線が見えちゃいない。
許してしまえば、合わないけれど、ひょっとするとがあるかもしれないだろう。
現に今、まだ義子はこの人を嫌いじゃない。
だから、無い、無い、無い。
大事なものは大事だから、大事にならないように線は越えさせない、絶対超えさせない。
大事は、今川の外には作らない。

「おねね殿、申し訳ありませんが今の状況を考えれば
私は余り外に出るべきではありませんし、元々家の中に居るのも好きなので
お気になさらないでくれませんか」
「んーでも、家の中に籠ってばっかりだと鬱々しないかい?」
「いえ特には」
本当は、書でもあれば良いのだが、生憎と客分の身では要求するのもはばかられる。
北条では何も言わずとも、氏康叔父上がどさっと貸してくれたから助かったがなぁ。
北条氏康という人は、あれで案外気が回る。
そうしてこの家で同じくとして気が回る秀吉は、本来の職務に戻って仕事中だ。
義子が居ることは出来るだけ秘密裏にしたいのだから、
彼に通常通り仕事が回るのはごく当たり前のことであり
秀吉もそれを分かっているから普段通り以外の動きはしない。
道理、道理。
それを外れさせようとするねねが、これで納得してくれれば良いのだが。
願いながら彼女の顔を見ると、ねねは不満そうな顔をしながら
けれど仕方がなさそうにぷっくらとふくれていた。
義子はそれを申し訳なく思うが、それ以上はしてやらない。
今川義子は明確な線引きをもってして、この可愛い人と付き合うべきである。
今のねねの行動から、それが確固として決められた。
うっすらとしていた線は、色を濃くして二人の間に壁になって存在しだす。

嫌いではないけど、駄目。

もはや心が揺れることはないだろうと思いつつ、義子はねねの名前を呼ぶ。
「おねね殿」
子供をあやすようなそれに、ねねは戸惑ったような表情を浮かべたが
やがて「仕方がないね」と眉を寄せたまま笑いを浮かべた。
苦笑、とも違うそれは無意識に義子の拒絶を本能的に察したようでもあり
可哀そうだと思わなくはないのだけど
まぁ、結局のところ嫌いじゃない以上に格上げするつもりはなかったのだから、似たようなものか。
可愛らしいお人形遊びがしたかった彼女と、可愛らしいお人形で居てあげても良かった自分が
遊べる期間が少なくなっただけの、下らない話だ。
わざと、明確に下らないと切り捨てて、義子はゆっくりと目を閉じ、視界を閉ざした。


そうして以降、ねねが義子に構うのは相変わらずだが、その動作にどこか躊躇いが混じるようになり
義子もそれを甘んじて受けるが、心が動きそうになることは、その後全く無かった。