背中に背負っていた銃を前に寄せて、抱え込むような姿勢で義子はぼんやりと空を見上げていた。
蒼い空、白い雲。
街道は良く慣らされた土色をしているが、その脇に目を移せば
雑草が良く生い茂り緑色をしている。
あぁ。うん。平和。穏やか。静か。
ぼんやりと首を傾けて、ぼんやりと少しだけ頷く。
良いと思う。
何がって、官兵衛の前に騎乗するのが。
ねねの事は嫌いではないが、全身で構いたい構って欲しいと主張する彼女と一緒にいると
やはり無意識に疲れるのかもしれない。
誰でも慣れない人間と一緒に居るのは疲れるし
その人間に心を傾けてはいけないと注意するならなおさらに、疲れる。
その点官兵衛はこちらに興味が無いから、空気からして無関心が漂っていて
楽と言えば楽なのだ。
男に抱きかかえられた格好で、気を抜くというのもどうかと思う話だが
楽なのだから仕方がない。
穏やかな表情で目を細める義子をちらりと見て、官兵衛が一瞬眉を動かしたが
ぼんやりしている義子は気がつかない。
そうして同じ馬に騎乗して、密着した姿勢で長い距離をかけたというのに
官兵衛と義子はさしたる会話もなく、岐阜城までを駆けたのであった。















そうして岐阜城の城下までたどり着いた義子たちだが
その頃にはもう日も暮れていた。
「ん…もう日も暮れとるし、謁見はこりゃ、明日の朝になるじゃろうな…」
「そうですね」
空を見上げた義子は、色が既に赤から黒へと変じようとしている様子に頷く。
よほど火急の用でもない限りは、これは会うのは無理だろう。
とりあえず、秀吉から己の屋敷に泊まるようにと言われた義子はその通りにし
秀吉は信長の本拠へと義子の到着を知らせに行った。
秀吉の配下たちも、それぞれ解散をして、さてじゃあまた明日に!
という感じだった、の、だ、が。

「えぇっとー信長さまが会いたいというとるんじゃが」
「…………」

無言で義子は秀吉の顔を見た。
秀吉の方も、義子の顔を無言で見る。
「………分かりました、すぐに」
「すまんな、なんか」
「いえ、とんでもないです」
さぁて、じゃあ気合を入れて、明日は怖い人に会いに行くかーと意気込んでいた義子
出鼻をくじかれた形になって、無言で支度をする。
まぁ、銃を背負って懐の文を確認して、よっしと気合を入れるだけなのだけど。
とりあえず、寝る前で良かったと思いながら、玄関の方まで秀吉と連れ立って歩いていくと
奥からねねが出てきてあれっという顔をした。
「お前様も義子姫もどこに行くんだい?」
「ちょっと信長さまの所までな」
「こんな時間に?」
「こんな時間に」
「もう夜遅いよ?」
「信長さまがお望みじゃからな」
「まぁ、時は金なりとも言いますし、えぇ」
顔をしかめるねねであるが、さしもの彼女も信長が相手とあっては強く出れぬのか
不服気な顔をしながら頷いた。
「それじゃあ、お前様、義子さまをよろしくね」
そうして不承不承ではありながらも、玄関先で手を振ってくれるのだから
彼女は偉い。
良い奥さんなことだと感心しながら、義子はねねに手を振り返す。
そうすると犬のようにぱっと顔を輝かせるのだから、凄まじい。
義子姫は、えらいねねに気にいられたもんじゃ」
「近くに女児が居ないからですよ。たまたまです」
秀吉はそのねねの反応に苦笑しながら言ったが
義子はそれをそのまま受け止めるわけにもいかないので否定をした。
いや、実際問題そうだと思う。
近くに小さな女児がたまたま居ないから、義子が猫可愛がりされているだけの話。
対象が他にいれば、状況は変わってくると思う。
ただ、義兄とて最初は小さな生き物が好きだから義子を可愛がっていたのだし
積み重ねれば、また話は変わってくるとも、思うけれども。
その積み重ねを義子がする気が無いから無理な話でもある。
全て無い無いの話。
だから、今川義子は、身の無い話を終わらせて
「して、信長様がどのように仰って私を呼ばれたのか聞いてもよろしいでしょうか、秀吉殿」
「いや、いつも通りじゃ、いつも通り。サル、呼んで来よの一言じゃった」
信長公が言ったと思しき箇所で、似てないものまねを披露した秀吉は放っておいて。
義子は自分が一言で呼びつけられたのに頭をかく。
怒っているわけではない。
ただ、その言い方によって接し方を変えようと思い探りを入れたのに
まさかの一言で方向性が探れないと、それだけの話だ。
まいったな。
怖い人怖い人。
京で会った時には従わぬ者は皆殺すと言い切った人が、怖くないわけがない。
一度も会ってない方が帰って良かったのではないだろうかと思いながら歩みを進めていると
巨大な石の列が見えてくる。
「信長さまの館はもうすぐじゃな」
巨石列に囲まれた巨大な屋敷が見えるのに
義子はいつも通り堅苦しく行くしかないかと、重い気持ちで覚悟を決めた。



来客用の部屋に通された義子は、上座に座る信長に向かい
深々と頭を下げる。
「良く来た、な」
「お久しゅうございます信長様。今川の義子にございます。
京で会って以来でございますね」
「良く覚えておる。面を上げよ」
「は」
面を上げる。
近くに居る信長は泰然としており、殿というよりも王であった。
京で会ったときと変わらぬその姿に逆に安心して、義子は佇まいを正しながら
懐から文を取り出し信長の方へと差し出す。
すると部屋に控えて居た小姓が、その文をとって信長の方へと運び渡した。
信長は小姓に向かって、大義であるという代わりに悠然と頷いて
文を開けて内容を確認しだす。
目を滑らせる信長の動きは素早いが、文は結構な長さがあるようで暫く時間が空きそうだ。
なので、義子はきょろきょろとはしないようにしながら、周囲に視線を走らせた。
部屋には、義子と信長とその小姓だけしか居ない。
秀吉は案内を終えると帰されてしまったからだ。
おまけに銃は入り口で刀番に預けてしまったし、微妙に心もとない。
が、しかし。
この少人数での謁見。
もしや義子が運んできたのは、内密な文なのかもしれぬ。
それにしては義父義元からは、気をつけろも何も言われなかったが、どうなのだろうか。
とりあえず、中身を見ようとは欠片も思わなくて正解であったのやもと考えていると
信長が文を読み終わる。
がさりと音を立て、文を畳んだ彼は、緩く目を閉じて
「是非もなし」
その返答からは、内容は窺い知れない。
「…………………」
無言で信長の次の行動、発言を待っていると
彼はそこで初めて義子が居ることを思い出した様子で、義子の方を見る。
視線が絡まり合った。
何を思っているのか底知れない瞳の信長に気圧されそうになるが
気圧されるのは、いけない。
姿勢を正して視線を受け止め続ければ、信長は視線を義子に合わせたまま口を開く。
「返答を書く。明日までサルの屋敷に留まるが良い」
「はい、そのようにさせていただきます」
…これは内密文書で間違いないな。
明日までには返答すると言いきった信長は、急いている。
今川と織田との間には、和睦関係が結ばれているから、さて。その次は
「中身は見た、か?」
「いえ、全く」
「同盟を結ぶ為の文である」
「さようでございますか」
文の内容は何か。
目の前の人間の威圧感に気圧されながらも考えていた義子だが、
彼女が何がしかの結論を出す前に、信長は答えを彼女に与えた。
その回答に、頷きながら彼女は同盟と脳内で言われたことを繰り返す。
同盟を結ぶというのならば、普通は両家間で婚姻関係を結ぶことになるのだが。
…普通なら氏真と織田家の誰かが婚姻を結ぶことになるのだろうけど
織田に丁度良い年頃の娘が居ただろうか?
内心で義子は首を傾げる。
信長の妹の市は浅井に嫁に行ってしまっているし、信長の子供は結婚するには余りに小さすぎるはずだ。
…そも男児であるし。
かといって、今川側から嫁を出すにしても
義子を嫁に出すようなこともしないだろうし。
うぅん。
悩ましい所であるが、考えても答えが出ないのなら、考えても仕方がない。
帰ってから義父に聞けば良いかと考えていると
信長が立ち上がって一歩二歩と歩いて、義子の前に立った。
「…ところで」
信長が、口を開く。
近くによると何とも言えない重圧感がある人は、まさに魔王と呼ぶに相応しい。
まるで人ならぬ何かのようだと、少しだけ義子があらぬ方向に考えを飛ばしていると
「何故、うぬは銃に持ち替えた」
信長が、義子に問うた。
その問いかけはまるで予想していないもので
それと共に考えを飛ばしていたことも相まって
躊躇いが混じる隙間は無かった。
「刀だと殺せない相手が居たからです」
きっぱりと、答える。
「ふ、」
相手がそれを問うた意図を探ることもなく
気がつけば正直に答えていて、それに義子が青ざめる前に
信長は僅かな笑い声を洩らした
そうして、その笑い声に義子が驚くと、信長は更に
「ふははははははは!是非もなし!うぬは、全く是非もない娘よ」
……爆笑された。
尾張の織田信長公は、爆笑するような人間である印象はなかったのだけど。
正直自分がそれを引き起こしたのは間違いないのだが
認めたくない気持ちでそっと信長から視線を外すと
部屋の隅で控えて居た小姓が、目いっぱい目を見開いてるのが見えて
義子はもっと目をそらす。
ち、ちが…私普通のことしか言ってないもの!
私が赤備とか殺すにはこれぐらいしか手が無いじゃない…!
非常に、ある意味切なくなるような事を思いつつ
ひたすら頑張って現実を見ないようにする義子
けれどその義子の努力を嘲笑うが如く、信長はくっくっくと笑いを零して
義子の頭に手を置いた。
ぐしゃっと、髪の毛が乱れる感触がする。
「力を欲し、足掻き、生を求むるのは信長の好む所でもあろうぞ」
褒める類の穏やかな声。
それを残して、ついでにとんっと義子の額をつき、織田信長は退室した。
後に残された義子と小姓は、信長の行動に呆然として彼を見送るしかなく。
そうして五拍程間を空けて、信長が戻ってこないのに
義子と小姓は気がついて、二人して顔を見合わせて動揺する。
「え、終わり?」
「さ、さぁ。蘭には信長さまの考えていることは…。
しばしお待ちを、聞いて参ります」
「は、はい…お願いします」
蘭と自分のことを言った小姓が信長を追いかけて退出する。
それを見送ってから義子は、信長の爆笑と、彼の問うた問いかけの意味を考えて
分からずに首を傾げる。
何を、聞きたくて私にそれを聞いて、私の答えの何が面白かったのだろうか、あの人は。


うんうんと考えて見るが結局分かりもせず、おまけに小姓は困った顔で帰ってきた末に
「あの、申し訳ない話なのですが、謁見は終わりだそうで…。
文が書けたら蘭が秀吉様の所まで届けますので、今日の所はお戻りになってください」
というものだから、本当にまったく。
織田は分からんなぁという感想を抱きつつ、そうして義子は織田信長との謁見を終えたのだった。