(官兵衛視点)

上司の奥方が作った握り飯を食みながら、黒田官兵衛は今川義子を観察していた。
彼女に興味があるわけではない。
官兵衛は彼女の背後の情報を知りたいだけだ。
今川は、もはや天下の火種にはなりえない。
その火種に必要な『意思』を彼らは捨てた。
雪斎を欠き、意思を欠き、継続を望む今川に火種になる要素は微塵も無い。
だがしかし、だから今川を放っておいていいかと言われれば答えは否である。
彼らが親織田勢力になるというのであれば、使い道はいくらでも。
そしてその親の具合がいかがなものか見定めるための情報を
官兵衛は義子から読み取ろうとしているのだが…。

…意図してか意図せずかは分からぬが、今川義子と言う人間は
殆ど今川領のことを喋らなかった。
喋るのは、どうでも良いことばかりだ。

連発式燧石銃を自ら率先して見せたから、情報を引き出すのは容易いと思ったが
上手くいかぬものだ。
いや、あの燧石銃も兵器として五流以下であるから
ああも容易く見せたのかもしれぬ。

今川義子という人物は、銃談義のときの会話を思い出せば、少なくとも愚かではあるまい。
黒田官兵衛は緩やかに目を閉じ、咀嚼していた握り飯を嚥下した。
今彼女と会話しているのは己でないが、己が会話しても今川の情報をさりげなく引き出すのは
難しいのかもしれぬと、三割方の考えで思っていると腹がつつかれる感触がする。
それにつつかれた方へと顔を向けると、半兵衛が悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「官兵衛殿。辛気臭い顔して食べててもご飯美味しくないよ」
「私は普段通りの表情をしている」
「じゃあ、普段から官兵衛殿は辛気臭いってことだ」
にこっと笑いながらの痛烈な一言。
見た目と普段の態度に反して性格のよろしくないこの男は、どうしようもない。
それが発揮されるのは戦のときと自分の前と、怒ったときぐらいだが、しかし。
一度あんまりな物言いに、
『半兵衛、私のことが嫌いならばわざわざ近寄らなければ良かろう』
と彼に言ったことがあった。
その時には官兵衛は、竹中半兵衛は己が嫌いなのだろうと考えていたのだ。
そうして、同時に嫌いだから嫌味をわざわざ言いに来る。
そういう面倒で理解し難い人種にかかずらって
自分の時間を浪費されたくないとも考えた。
けれどその言葉に返されたのは
『えー心外!俺、官兵衛殿の事嫌いなんて一回も言ったことないよ!
むしろ逆逆。俺がきっついのは官兵衛殿に気を許してるんだって。
お愛想しなくても許してもらえるでしょ的な?
仲良くしようよー。俺ら軍師同士で、同僚じゃん?』
という信じられない言葉であった。
彼の行動を見ていると、とてもそうは思えないのだが、彼曰くはそうであるらしい。
…気にいっているのなら、もっと態度があるだろう。
余りの理解のし難さに、自分にちょっかいをかけてくる半兵衛を
どうにかするのを諦めた官兵衛だが
最終的に自分が彼を受け入れ、友人だと思うようになったのは誤算であった。
人生とはままならぬものだ。
情など下らぬものだと考えている彼にとって、その情を向ける相手が出来たのは
思わぬ落とし穴だった。


しかし、友だと思っていたとしても。
まだ、己は竹中半兵衛を殺せる。
豊臣秀吉も、殺せる。


半兵衛と同じく、僅かな情がわいている主も、友も
泰平の火種になるならばまだ迷わず殺せることを己の心に問うて確認した官兵衛は
知らずの内に今暫くはと思った。
今暫く、迷わず殺せる間ならば、このままごとのような友人遊びを続けていても問題あるまい。
あくまで、迷わず殺せる間ならばの話だが。

天下泰平とは世の中がよく治まり、穏やかな様子の事を指す。
そして今のこの世の中はそこからは程遠い。
官兵衛は自惚れでなく、己ならば天下泰平をなすことが出来るだろうと考えていた。
自分にはそれだけの頭脳がある。
無いのは人望だ。
人は真実よりも綺麗なものを求めたがり、汚れを厭わぬ官兵衛はそこからは程遠い。
だから、官兵衛は主を補佐する者と自分の役割を決め
最短で泰平が作れるものに泰平を作らせるということを、使命と定めたのだった。
そこに、ご大層な偽善はない。
例えば民が飢えるからとか、例えば人が山のように死ぬからだとか
そんなものはなくて、黒田官兵衛はただ、世に秩序が無いのが気にいらないだけだ。
それを敏感に察してか、情だとか信頼だとか義だとかそういうものが好きな輩は官兵衛を嫌うが
官兵衛の方もそういう輩は嫌いなので、お互い様な話である。
官兵衛は、力と秩序が支配する世界が良いと思う。
そしてその世界が作れるのなら、何一つ要らないとも。
情のわいた友も、主も、自分でさえも、その妨げとなるならば不要だ。
半兵衛に話したならば、頭壊れてるんじゃない?と酷評を食らいそうなことを考えて
官兵衛は黙って半兵衛を見下ろした。
「官兵衛殿?」
名前を呼んで首を傾げる子供のような年上の同僚。
彼を、己は大切だと思うが、問題ない、殺せる。
今ですら、やろうと思えばその首を掻き斬って物言わぬ死体に出来ると
細く白い首筋を見ながら、官兵衛は想像をした。
目を見開いて、事切れた血まみれの半兵衛の姿。
下手人は自分。
それに痛む心は考慮しなくても良い。
殺せるならば、問題ない。
そうして官兵衛は今考えたことを微塵も表に出さず
半兵衛の、握り飯が一つ残った半兵衛の弁当の包みへと視線を落とした。
「私に構う暇があるなら、さっさと食べたらどうだ」
「うーん。俺、正直二つも入んないんだよね。
官兵衛殿、こっちのおにぎりは手つかずなんだけどいらない?」
「遠慮しておこう」
「そっかーだよね。仕方ない」
病気がちな彼は、食が細い。
半分くらいなら入るんだけどね。と言いながら握り飯にかぶりつく彼に
官兵衛は残せばよかろうと返答した。


そうして一同が食べ終えた頃になって、秀吉が当然の発言をする。
「昼からは義子姫はねねの前じゃない所に乗せたいんじゃ」
それに声を上げたのは、ねねと正則だけで後の者は皆秀吉の意図をくんで黙った。
ねねでは、義子を構いすぎるのだ。
当然と言えば当然の話だが、ただの農民から天下に一番近い織田信長の配下にまでのし上がった男が
そのような些事を予見していなかったわけがない。
恐らくとして最初からそのつもりであったのだろうと、官兵衛は考える。
主のやりそうなことだ。
子供の居ない妻に、時間の短い朝だけ気が済むように餌を与えて機嫌をとり、同時に餌に負荷をかけ。
長い昼からは別の者に任せ、餌に負荷がかからないようにする。
そうして、さも餌を気遣って、そのような配慮をしたというふりをして振る舞えば
餌は、秀吉の気遣いに深く感謝するというような寸法だ。
豊臣秀吉という男は、単に気遣いが出来るだけの男ではない。
人の心をつぶさに読み取り、心を自分の良いように差し向けることができる人間だ。
どう振る舞えば良く映るのか、人を惹きつけられるのか
それを計算と本能の半々で行いながら、彼はここまで生きてきて、あそこに居る。
ただ、その秀吉の策を読み取れているのは、己と半兵衛ぐらいのものであろうが。

子飼いも彼の妻も、根が善良だ。
彼らとて、豊臣秀吉が唯の男でないのは分かっているが
善良ゆえに見えていない/見ないふりをしているものは確かにある。
今がまさにそうで、正則も清正も三成もねねが義子に構いすぎるという所だけを見て
それは最初から分かり切っていたことであり
どうしてその分かり切っていた事を朝はやらせたのか、という所に考えが及びついてはいない。
いや、その所に考えが及んだ所で、どうせねねが押し切ったのであろうという結論になるのか。

それだから、相容れない。

亀裂が入っているのは分かっているが、結局違いすぎて分かりあえることは永久に無いだろうと
子飼いと自分の仲を片づけて、官兵衛は義子を見た。
秀吉の策の渦中におかれた彼女は、官兵衛の主の思惑に気がついた様子はなく
気遣わしげにねねの方を見ている。
その義子の心の動きもまた、秀吉の計算通りなのだろう。
良いように義子は秀吉の手のひらで踊っている。

ねねという天性に人を惹きつける女を使い
しかも本心から義子を気に入っている彼女は、自身が策に使われていることなど露知らず。
義子の方も秀吉とは二回会ったきりで、彼の裏を読みとれるまでの情報は与えられていない。
その前提の上で成り立っているのがこの策なのであるから
これに気がつくのは、心を読める者でもなければ無理だろう。
おまけに官兵衛は知らぬことであるが、宿で一度、義子は秀吉にねねから逃がされている。
その伏線があるからこそ、朝は許して昼からは許さない。
だが、その朝の事態も秀吉は予見できた筈だという矛盾を
もしも考えつくことがあっても、わざとそうしたという確信には至らない。

『あの時気遣ってくれたのだから、今回は気がつかなかっただけだろう。
現に昼からはあの時と同じように逃してくれたではないか』

そう思うのが普通の人間だ。
それを含めなくても、道理の通った気遣いを受け続ければ
裏など疑わなくなるのが普通の人間で
そうして、今見る限りは、今川義子は普通の人間のように見える。

ねねをただ気遣っている少女に、官兵衛の中での今川義子の評価が一つ下がった。
所詮ただの少女ということだな。
今川義子という少女自体に、官兵衛はやはり興味は抱けない。
いや、秀吉の策に気がつけとはさすがに官兵衛も言わないが
しかし、自らの立場を考えれば、情を移すことは愚行であろうに。
躊躇いがちに、ねねの右手に自分の手を重ねた少女の姿に
呆れを抱きながら視線を外そうとした官兵衛だったが
ふと笑ったと思いきや、ねねから視線を外した義子の表情の動きに、外すのを、止める。
今の表情は何だ。
確かに今、義子にねねを拒む壁のようなものを感じた気がした。
思わず半兵衛に目をやると、彼も同じものを感じたようで
義子の方を怪訝な表情をして見つめている。
………今の表情は、何だ。
もしも、今川と織田の関係、自分の立場。
それら全てを総合して心を移さぬよう拒んでいるのだとしたら。
「官兵衛、頼まれちゃくれんか」
「ご命令ならば」
黒田官兵衛はその秀吉の言葉に義子から視線を外し、主の頼みを了承した。
今川の義子姫。
彼女に『とるに足らないただの少女』という評価を下すのは、まだ早いのかもしれない。
そう考え直した彼の瞳は、ただ冷たく冷え切っていた。