そういうことがあって、さてでは出発しようかという段になった。
それぞれが馬を繋いでいた木の傍に行って、括っていた紐を解いている。
そのうちの秀吉の隣に近寄って、
義子は彼の袖を遠慮がちに引っ張った。
「秀吉殿」
「
義子姫」
義子を視認して名を呼んだ彼は、ぱちっと目を瞬かせる。
何故ここに
義子がいるのか分からないと、言いたげな顔だ。
その表情に、一瞬躊躇いながらも彼の憂慮は取り除くべきだと思って
「私は、おねね殿は本当に嫌なわけではないのですよ?」
嫌じゃない。嫌いじゃない。
それ以上にするつもりはないけれど、それは本当。
馬に乗せてもらって同行させてもらっているのだから
そのことで生じた懸念については取り除いておくべきと
生真面目に思って言った
義子の言葉に、秀吉はまたぱちりと目を瞬かせて
―こちらに手を伸ばしかけて、止める。
察するに、ねね達と同じくして
義子の頭を撫でかけたのだろう。
だが、彼は己の立場を弁えた上で、人に対して気遣い気配りをして明るくする類の人間だ。
故に、彼は
義子の頭を撫でることなく、ほんの少しの笑みを浮かべた。
「じゃが、
義子姫。ねねに構い倒されるのは、お前さん少しだけ困るじゃろ」
「ん、そのようなことは」
「一瞬言葉に詰まったのが答えじゃな。
官兵衛は愛想は無いし愛想はないが、余計なことは言わん。
すこぅしは静かな時間があった方がええじゃろ?」
「………感謝します。あなたは本当に気配りが上手な方ですね」
押しつけがましくない気遣いが素晴らしい。
義子が感嘆すると、秀吉はその
義子の言葉に気を良くしたような表情をしつつも
謙遜していやいやと首を振る。
「いやいや、なに。猫の…」
「え、猫?」
「ね、猫、犬、動物、子供、大人。皆扱い方など似たようなもんじゃて。
構われ過ぎるのが好きな人間なんぞごくまれじゃってことじゃ」
…明らかに誤魔化そうとしている。
苦しい秀吉のつなげ方に、
義子は思わず半眼になった。
「………………猫」
今明らかに『猫の扱い方は』と、言いたかっただろうお前。
苦しいですよ、と半眼になることで言外に
義子が告げていると
秀吉ががっくりと肩を落とす。
「いや、あぁ………………………目こぼしいただけんじゃろか」
「兄上も私を猫か何かだと思っておいでですが…そんなに似ていますか」
「……………すこぅしだけ、な」
躊躇いの末、秀吉は
義子の言葉を認めた。
「………そうですか。そうですか」
それに、彼女が二度も言葉を繰り返したのは大事なことだからでなく、衝撃的だったからである。
義兄が自分を猫か何かのようだと思っているのは
性別を気にしていないからだと考えていたのだが
え、私、猫に似てる?
衝撃の事実に二秒ほど固まった
義子だが、まぁどうでもいいかと放り投げて
もう一度だけ秀吉に頭を下げた。
「お気遣いを感謝します、秀吉殿。
いらぬご苦労をかけること、申し訳なく思いますが
改めて道中どうぞよろしくお願いします」
「いや、いいんさ。…
義子姫は本当に固いんな」
「良くしてくださる方に、礼を尽くしているだけですよ」
「なんかな。
義子姫は子供らしゅうない子じゃ」
「褒めるの半分、どうかと思うの半分程度です?」
「まぁ、なぁ」
「性格、性分ですよ」
義兄の補佐役について良かったのは、こうして子供らしくない本来の言動を見せた所で
相手方に不審に思われぬことだ。
今川の跡取りの補佐役という隠れ蓑は、
義子の本来の年齢と身体年齢の乖離を覆い隠してくれる。
現に秀吉とて子供らしくない
義子に苦笑するだけで
余りに賢し過ぎる彼女に不審を抱いた様子はない。
楽になったものだ。
いっとう最初の今川での気を使った生活を思い出して
あの時点には帰りたくないなと思いつつ、
義子は意図的にへらっと彼に向かって笑って見せた。
余裕、余裕。
笑顔は人の関係の潤滑材。
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