死んだ魚の目をする
義子に救いを差し伸べたのは、やはり秀吉であった。
「ねね、半兵衛も。
義子姫が何なのか忘れたわけじゃあるまい?」
眉間に皺をよせながら言う秀吉。
しかし、その言い方でねねと半兵衛が咎められるわけもない。
「え、今川のお姫様だろ、お前様」
「え、今川のお姫様ですよね、秀吉様」
「…わかっとるんじゃったら、なぁ…」
あっさりと言い切る両名に、秀吉は肩を落とした。
上司で夫なはずなのに、この弱さは何だろう。
なんだか目頭が熱くなってきて、
義子は秀吉に向かって首を振る。
「…………秀吉殿、私は特に構わないです、お気になさらず」
「
義子姫、目が、目が死んどるぞ」
未だ死んだ魚の目のままの
義子にむかい、秀吉が指摘するが
そこは気にしてはいけない。
もう一度お気になさらず、と繰り返した後
義子は今といつもを比較して、大した違いはないのに軽く嘆息する。
不本意であるが、いつもの扱いだ。
だから、秀吉に向かってもう一度気にしてくれるなと口を開く。
「まぁでも、いつもこんなものですから、本当にあまり気を使わないでください」
本当に今までかかわってきた今川の人間にしろ、北条の人間にしろ
こういう扱いを
義子にはするだから、気にしなくても良いのだ。…不本意だけど。
意図的に、今川と北条と言う単語を抜いて、気にするなと繰り返せば
秀吉はその
義子の言葉から色々なものをくみ取ったようで
同情の眼差しを一身に
義子に向ける。
「………苦労しとるなぁ」
「秀吉殿に言われたくはないのですが」
「そうやって言われると、わしも物悲しくなるんじゃが」
「さて」
肩をすくめる。
苦労人を苦労人と言って何が悪いのか。
別段、苦労人に苦労人と言われて、こちらの方が苦労しているかのようなその物言いに
遠慮したい気持ちになったわけではないぞ。
どうともない顔をして、黙々と食事を進め、おにぎりを食べ終わった
義子は
懐から懐紙を出してべたつく右手を拭く。
一人なら舐める所だが、人の目がある所ではそれは出来ない。
きゅっきゅと綺麗にして、拭いた懐紙を懐紙入れの裏側に差し込むと
他の面々も食べ終わり始めている様子だった。
行儀悪く指を舐めている正則に、冷たい視線を注ぎながら
おにぎりを綺麗に口に収めた三成を視界に捉えていた所で
ふと秀吉が皆を見渡しながら言葉を切り出す。
「そろそろ皆食べ終わったようじゃし、出発をしたいんじゃ、が」
「が?なんだいお前様」
言葉を意味ありげに切った秀吉に、ねねが問いかける。
すると、秀吉はねねの方を見て言いにくそうに
「昼からは
義子姫はねねの前じゃない所に乗せたいんじゃ」
「えぇ?!」
「え、なんでですか」
その秀吉の提案に声を上げたのは、ねねと正則である。
他の者はそれぞれに僅かに頷いていたり、しょうがないよね、というような表情をして
ただ秀吉の次の言葉を待っていた。
当事者たる
義子も、また。
いや、別にねねのことが嫌なわけではないし
昼からもねねの前に乗るのは全然全く構わない。
ただ、そう。
秀吉からしてみれば、ねねの構いたがりと言うのは肝を冷やすだろうなと思うから。
再度になるが、
義子は秀吉の部下で無く、今川の者で、今川の物だ。
その
義子に向かっての遠慮のない子供扱いと言うのは
義子がいくら良いと言った所で、織田配下の豊臣秀吉としては、冷や冷やとするに違いない。
彼には彼の職務があり身分があり立場がある。
それは、ねねの想いよりも優先させて然るべきものだと思うから
義子は余計な口は挟まない。
ただ、気遣わしげな視線をねねの方へと向けるだけだ。
本心六割、お義理四割。
その視線に、ある程度
義子がねねに対して悪感情を持っていないことを察したらしい秀吉が
ほっとした表情を浮かべたが、方針を変えるつもりはないらしく
妻の方へと窘める声をかけた。
「構いすぎじゃ、ねね。あんまり飛ばしすぎると嫌われるぞ」
「む………
義子姫はあたしのこと嫌?」
「いえ、そのようなことはないです」
ふくれ面をするねねの可愛らしい姿に、嫌なわけでは勿論ないので
すぐさま首を振ると、ねねの方からするりと手が伸びて。
「ほらぁ」
「ちょ、おねね殿」
ぎゅうっと抱きしめられ、
義子はさすがに慌てる。
義子の身長からすると、ちょうどねねの胸に顔を埋める形になったからだ。
いや、いやいやいや。
「ねね」
ぎゅうっとおっぱいが顔に当たる柔らかな感触に
これはちょっと嫌だと顔を赤くしながら
義子が抵抗を試みる前に、秀吉が短くねねを呼ぶ。
「…わかったよぅ、お前様」
「ぷはっ…」
その声に応じてねねが抱きしめていた手を緩めると、すぐさま
義子は彼女から僅かに距離をとった。
僅かに、なのはねねを傷つけないように、だ。
そうして、それは正解だったようで
義子の方を見てくるねねの瞳は揺れている。
………上手いこと、本当に重なったものだ。
子供の居ない彼女の前に現れた女児。
かちりと鍵穴に入れられた、無理やりにそれをこじ開けられる針金のような存在であると己を思いつつ
義子は少し躊躇った末に彼女の右手に自分の手を重ねてにこっと笑って見せた。
作り笑いだ。
だけれど、それにねねがぱっと顔を輝かせるものだから、
義子は困った。
そんなに喜ばれると、いけない。
義子には所詮彼女は選択できないのだから。
彼女だとてそうだろう。
義子は今川だ。
それを選択した。
そして今川と北条はよほどが無い限り争わないだろうが
今川と織田はどうなるかは未知数だ。
出来れば戦いたくないとは思うし今川に敵対の意思はないが、さて、織田方がどうなることかは不明である。
織田の主は怖い人、だから。
『この信長、古きものを憎み、新しきものを打ち立てる。
で、あるならば、古きものは壊すが、重畳』
幾千幾万もの命を躊躇いもなく切り捨てると言った織田信長は、邪魔になるのならば今川を容赦なく潰すだろう。
道を誤れば、今川は織田の邪魔になる可能性がある。
邪魔になる可能性があるという事は、敵対の可能性があるという事と等しく
そうである以上、
義子はねねに真実心を許すつもりは、毛頭無い。
そういうことであるから、今川
義子はねねのことを『嫌いではない』以上に格上げはしないのだけど。
なのに、ねねの表情に心が僅かに動きそうになったのを、笑って誤魔化すことで無しにして
そっと
義子は彼女から視線を外した。
「で?誰の馬に乗せるつもりですか、秀吉様」
「ん。そうじゃな」
そのような
義子とねねのやり取りを横目で見ていた秀吉に向かい、三成が声をかけた。
彼の問いかけに対して、秀吉は居る面々の顔を順に見ていって
最初は清正に目を止めていたのだが、三成と正則それぞれを見てから止めて
…官兵衛へと視線をずらす。
「官兵衛、頼まれちゃくれんか」
「ご命令ならば」
冷えた瞳をして官兵衛は秀吉の頼みを了承した。
感情の見えない彼からは、秀吉の頼みに何を感じたのかは知れない。
ただ、子飼いたちが何故官兵衛、というような驚きを浮かべているのに
改めて黒田官兵衛と言う男への、周囲の評価を知っただけだ。
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