義子姫、疲れてはおらんか?」
「いえ、大丈夫です。お気遣い感謝いたします」
「それならいいんじゃがな」
ねねの馬に同乗して岐阜城へ進む義子へと、気遣いをする秀吉は気配りがきめ細かい。
苦労人になるわけだ。
気が付きやすいものほど、損な役割が回ってきやすいものであるから
この人は苦労人なのだろう。
京での信長とのやりとりを思い返していると、そちらに気がとられてふっと姿勢が緩んだ。
すると、ねねの胸の感触が背中に当たり、義子はそれに男子中学生のように過敏に反応して
姿勢を慌てて正す。
義子姫、もたれてくれてもいいんだよ?」
「いえ、あの、私案外重たいですから。
これ以上ご迷惑をおかけするわけにも参りません。
どうぞこのままの姿勢で居らせてください」
ぴっしりと姿勢を正して、ねねへと言葉を返す義子の表情は強張っているが
その頬が僅かに染まっているのに気がついた者は、隠れて苦笑をした。
やはり今川義子は、人慣れない猫に、少し似ている。
口には決して出せないことを考えた者は、五名。
そのうちの一名である半兵衛は、中天に近い太陽を見上げてから
秀吉の横に馬を並ばせた。
「なーんかいつのまにか太陽が高いですけど、俺達朝餉まだですよねぇ秀吉様」
「半兵衛、飯が食いたいんならもうちょっと素直に言わんか」
「えー。だって、ご飯が食べたいですって上司に直接的に言うのって憚られません?」
「いやいや。今のはどう考えても言っておったじゃろ」
「全くだ」
首を振る秀吉、同意する官兵衛。
子飼いたちも異論ないようで、ただ苦笑を浮かべている。
けれど、明るい人柄の半兵衛は好かれているようで、皆の空気は朗らかであった。
…昨日の、官兵衛に対するものとは真逆に。
挨拶事件のあの微妙さを思い出しながら、義子がしょっぱい顔をしていると
背後のねねが義子の耳元に顔を寄せる。
「あのね、義子姫。あたしお弁当作ってあるから、もう少しいったら一緒に食べようね」
小声でささやかれる内容は、些細なものだ。
ただ、ねねが義子に構いたいから耳打ちしてきたにすぎない。
構いたい構いたい構って欲しいと、全身で訴えてくるこの人妻は犬のようだと
猫のような義子はそう思って。
そうして、嫌いではない、と考えながらこっくんと彼女に向かって頷いてみせた。
嫌いじゃない。
そう、嫌いじゃない。
こうやってどうでも良い様にしていられる間は、少なくとも。
それ以外は、彼女次第ではあるけれど。







街道の傍に、少し開けた場所を見つけた一同は、ご飯休憩をとることにした。
太陽が天高くに昇っているのだから、時間的には昼餉になってしまっているのだが
戦国時代は二食なので、朝餉ったら朝餉なのである。
近くの木にそれぞれの馬の手綱をくくりつけた後
円を描くように全員で丸く座った光景はまるで遠足か何かのようだが
わやわやとした空気からいえば、まぁあながち間違っちゃいない。
「お前様、たーんと食べておくれね」
「うむ。ねねが作ってくれたもんじゃからな。残さず食べるに決まっとるじゃろ」
「………なんでお前らが横同士に並ぶ。頼むから俺を挟めよ」
「………………この馬鹿に言え、清正。俺は動かん」
「なんで俺が動かねぇとなんねぇんだ!清正!こっちの頭でっかちに言ってくれよ!」
「…………分かった俺が動く、この馬鹿。馬鹿」
ねねと半兵衛に挟まれながら、わやわや会話する子飼い・秀吉ねね夫婦を眺めていた義子
そのほのぼのとした光景に、ちょっとだけ家に帰りたいなと思った。
別段、義兄に猫可愛がりされたいとか、義父に構い倒されたいとか断じてそんなことはないが。
……やはり空気が違うのだ。
今川に流れる空気は静かだ。
存続のみを望むようになったからだろうか、あそこはただ穏やかで静かな空気が流れている。
別に、だからと言って活気が無いわけでもないのだけれども。
そして、どういえば良いのか、こう…織田の、目の間の彼らには、今川とは違い熱がある。
天下を望む主を抱いているからか、目には見えない熱を義子は感じるのだ。
それが、今川との最大の差異で、慣れなさを感じ帰郷したいと思う原因でもある。
あと、今川と違うのは、純粋にやかましい、な。
義兄も義父もぎゃあぎゃあと騒ぐ類ではないので、子飼いたちの騒がしさに苦笑していると
隣の半兵衛が義子の肩をちょいちょいとつついた。
「ご飯食べないの?義子様。子飼いが落ち着くの待ってるとまだ暫くはかかるよ」
「あぁ。半兵衛殿こそ」
そう言いながらも自分も弁当に手をつけていない彼に突っ込むと
半兵衛は腕組みをして唸る。
「俺は、うーん。誰も食べてないのに食べるのは気まずいっていうか」
「私もですよ」
ちらっと、二人で秀吉の方を見る。
身分的には義子は、今川の大名の娘、姫であるので秀吉よりかは上のはずだが
この集団においての頭は秀吉なので、秀吉が手をつけるのを待っている。
同じくして半兵衛も、上司の秀吉待ちだろう。
そうして、弁当に未だ手をつけてない官兵衛の方も、同様。
一番に手をつけるべき人間が手をつけてないのに食べ始めるのもね。ということだ。
けれど丁度ちらっと見た瞬間に、ねねといちゃつき終わった秀吉が
朝餉の弁当に手をつけ始めたので、義子と半兵衛も弁当へと手を伸ばす。
「いやぁ、お腹ぺこぺこ。っということで、いっただっきまーす」
弁当の包みをほどいて、ぱしんと手を合わせ、元気良く半兵衛が食前の挨拶をする。
…しっかし、その容姿でそれをやると、本当に童子のようなのだが。
言うと怒られるのは分かり切っているので、言わないけれども。
見えている地雷は避けるべきだ。
仮にも前と今を足すと二十を優に超えて三十近い義子
それらしく賢しさを働かせて、無言でねねから渡された
竹の皮でくるんだ弁当を括っている紐をほどく。
中から出てきたのは、おにぎり二つと香の物だ。
「いただきます」
小さく呟いて、おにぎりにかぶりつくとほんのりとした塩気が美味しい。
うんっと頷いて、うまうまとありがたく頂く。
美味しい美味しい。
そうして食べていると、秀吉の頬についた米粒をとって
自分の口に運びながらねねが
「美味しい?義子姫」
「はい。とても」
「そっかー良かった」
ほっとした顔で嬉しげに笑うねねの表情に、好かれているのだなと感じて
義子はどうしてかくすぐったくなった。
絶対格上げはしないけど、可愛い人に好かれるのは、義子でも少し嬉しい。


『あなたももっと、笑えば良いんじゃない?』

そうしてちょっとだけ、昨日半兵衛に言われたことを思い出す。
笑ってなかったのは、余裕が無いから。
でも、余裕が無いことに気がついた以上は、余裕があるふりぐらいしたいものだ。
だから、ほんの少しだけ笑みを浮かべると
隣からさっすがおねね様という呟きが聞こえた。
…そのさすがとそのセリフはどういう意味だろう。
視線をそちらにやると、頬が突かれる。
「…半兵衛殿」
「笑ってるなーと思って」
「あぁ。あぁ。そういう」
頷いて、昨日あなたに言われましたから、と言おうかとも思ったが、止める。
気恥かしいだろう、それは。
だから無言で、けれど抵抗もせずそのまま半兵衛の行動を受け入れていると
偉い偉いというように、彼が義子の頭を撫でた。
だから、義兄といいねねといい半兵衛といい、お前らどうしてこっちの頭を撫でる。
義子は子供扱いに(正確にいえば義兄と半兵衛は猫扱い)に微妙な表情を浮かべたが
…結局半兵衛の好きにさせた。
好きにするがいい。
氏真の容赦のない可愛がり接触によって、いい加減義子もこういう扱いには慣れている。
抱き上げられないだけ、まだまし。
自分の総合年齢を考えると、ひたすら微妙な気持ちになるが、無視。無視。考えない。
見た目が子供なのだから、子供扱いは仕方ないと内心でこっそりとため息をついて
されるがままになっていると、横からもう一本手が伸びてきて、義子の頭を撫でる手が追加になった。
「…えぇっと、おねね殿」
「だって半兵衛だけずるいじゃない」
「私がねだったわけでもなんでもないんですが」
「そういう反応で来るか。義子様って、案外面白いよね」
かいぐりかいぐり。
面白がって撫でる半兵衛と、純粋に義子を構いたいねね。
ねねの横で落ち着かない顔をする秀吉と、無表情に弁当を食べる官兵衛、三成
どこか義子を羨ましげにする清正と正則。
そういうどうしようもない大人に囲まれながら義子
死んだ魚のような目をしておにぎりをもう一口ぱくっと口に入れた。

※ストレスがたまるので、猫は構いすぎないようにしましょう。