そうしたやり取りがあっての次の朝。
倒れた半兵衛に押しつぶされかけるという珍事がありながらも
なんとか朝の支度を済ませた義子が、部屋で寝むしろを片していると
したっと背後に何者かが天井から飛び降りてきた音がした。
それに背中の銃に手をかけながら振り向いた義子は、がっくりと項垂れる羽目になる。
「…あの、おねね殿…。昨日普通に入ってきてくださいませんか、とお願いしなかったでしょうか…」
「あ、ごめんごめん。うっかりしてたよ」
「………はい」
あははっと明るく笑う人には何も言えず義子が微妙な表情で居ると
ねねは何故か、良い子良い子と義子の頭を撫でた。
…何故。
完全な子供扱いに、微妙な気持ちになる義子だが
ねねが本当に嬉しそうにこちらに構ってくるものだから、文句の一つも言えやしない。
やはり、この人は苦手だ。
真実苦手だというのでなく、扱いが苦手、という意味で思って
義子は黙ってされるがままになりながらも、ねねの方に向かって首をかしげて見せた。
「あの、おねね殿。それで何かご用でしたか?」
「あ、そうそう。あたしは義子姫のことを呼びに来たんだった。
そろそろ出立するみたいなんだけど」
「そうですか、では降ります」
「うん、一緒に降りよう!」
にこにこ。
朗らかに太陽のように笑うねねは、言うが否や義子の右手をとって
鼻息混じりにこちらを引っ張ってゆく。
えぇと。
少し体温が低めの義兄とはまた違う、高い体温に戸惑いながらも
その手を振りほどくこともできず、理由も持たず
義子はただ黙ってされるがままに、下に引っ張られてゆくのだった。
…昨日彼女が言った通りに、義子はこの手の人間には、弱いのである。
けれども、義子は今川の人間だから。
心を傾け過ぎないようにしなくてはならないとも、思うけれども。
義子は今川で、ねねは織田の人間だ。





下に降りると、既に全員揃っていた。
「おはようございます」
一番最後ということで、早く教えてくれれば早く下りたのに。と思いながら挨拶をすると
全員が口々におはようを返してくれる。
…いや、官兵衛と三成は会釈をするだけなのだけれども。
愛想なしの二人は、けれど一緒にいるの楽そうなのだが。
自らもさほど愛想があるわけではない義子は、どちらかといえば
余計なことを話しかけてきそうにないあちら側と
一緒にいるのが楽そうで良いと思うのけど、残念、到底ねねが手放してくれそうにない。
「お前様、義子姫連れてきたよ!」
「そうか、わざわざすまんかったな、ねね」
「いいんだよぅ」
秀吉の横に並びながら、にっこにっこして彼に話しかけるねね。
その彼女の表情からは心底秀吉が好きだ、と言うのが読み取れて微笑ましいことこの上ないが
彼女は義子と手をつないだままである。
なので、義子の方も秀吉の傍に寄ることになって、夫婦の親密なやり取りに挟まれることになった。
…気まずい。
秀吉には目で謝られたが、謝られてもな…という話である。
夫婦間のやりとりに挟まれていても気まずいだけだ。
少し距離がとりたい。
けれど、嬉しげに手を握るねね相手に、直接手を離して欲しいというのは憚られるので
ごく自然にふりほどこうかと思って試みる。
が、ねねに手をぎゅっと握られていて無理だ。
……。
少しだけ困りながら握られた手を見て。
嫌じゃないんだけどと思いつつも、視線を滑らせると清正と何故か目があった。
どうもこちらを見ていたらしい彼は、義子と目があった途端に気まずそうに目をそらす。
何だ、一体。
ぱちぱちと目を瞬かせる義子だが、その反応の理由には思い当たる節が無い。
はてなと首を傾げていると、宿の者が馬屋から馬を引いてくる。
その馬をを皆皆がそれぞれ受け取るが、ふと官兵衛が秀吉の馬を見て僅かに眉を寄せた。
そしてそのまま秀吉の傍に近寄ってきて、馬の鞍を指さす。
「秀吉様、鞍が外れかけておりますが」
「お、あぁ!ほんまじゃ。すまんな、官兵衛」
「いえ」
この官兵衛、自らに感謝をする上司に対しても
他と同様に無表情かつ平坦な声である。
だが、その彼の瞳に僅かに浮かんだものに、義子は少しだけ驚いた。
秀吉の傍に並んで、上を見上げる姿勢だったからこそ見えた官兵衛の瞳には
小さく秀吉への気遣いがあったからだ。
へぇ。へええ。
半兵衛と秀吉は、好ましく思っているのか。
半兵衛の方を好いているのは、昨日の銃談話で分かっていたが
秀吉の方もとは、少し意外であった。
黒田官兵衛と言う男は、他者へそうそう心を動かさぬように見えたから。
自分や、子飼いたちへの態度を見るにそうだと考えていた義子
へぇ、っともう一度思った。
分かりやすく感情を瞳に見せるとは、意外と人間らしいではないか。

この彼女の感想は、彼女が官兵衛と会って日が浅く
無用な先入観にとらわれなかったが為のことである。
泰平を得るためには、全てを焼き尽くすことも厭わず、情を切り捨て
力こそが全てであると判じる彼は、義子とは違いすぎて相容れない。
だから、もしもこれが日が経ってから起こっていたのであれば、
泰平をなによりも大事にする官兵衛の言に惑わされ、眼が曇り
このような感想は抱けなかったであろう。
だが、彼女は官兵衛と言う男と昨日会い
僅かな人間性が垣間見れる瞬間を幸運にも見てきた。
それがあったからこそ、今、官兵衛の評価が動くことになったのだ。


しかし。
人間らしいではないかと思ったところで、それを素直に口に出すようならば
今川の娘の今川義子ではない。
彼女は彼女の思った感想を秘めたまま、へぇと思っただけで。
口に出すこともなく、秀吉のほうを見る。
本題本題。
義子は余計なものはばっさりと切り捨てて、ねねのことも置いておいて
秀吉に聞くべきことを聞く。
「して、秀吉殿。どういう道を辿っていかれるのですか?」
「街道沿いじゃな。裏道を通ったほうが近いんじゃが」
「別にそちらでもよいのですけど」
「ぶはっ」
近いんじゃが、で言葉を切った秀吉に、道が険しいという理由であるならば
近い方を通りたいと思いながら、自分は構わないと言えば
どうしてか、向こうの方で複数人が吹き出した。
「……え?」
「い、いや、何でも。おい馬鹿押さえろ」
いや、面白いことは何一つ言ってないけど。
昨日の夜の会話を知らぬ義子は、怪訝な顔をして声を上げる。
それに吹き出すまではいかず、ただ笑いをこらえるような顔をしていた清正が
思い切り吹き出した正則を咎めた。
…ちなみに半兵衛も同様に吹き出していたのだけど
そちらの方に注意をする勇気はなかったようだ。
「い、いや、だ、だってよ清正」
「……馬鹿が」
「お、お前だってちょっと震えてたじゃねえか、この頭でっかち!」
「うるさい」
言い訳をしようとしていた正則相手に、三成が要らぬちょっかいをかけるから
また三成と正則の間で言い争いが始まる。
それに嘆息した清正は本当に長男気質だ。
なにせ面倒そうなのを顔にもろに出しているのに、仲裁に入ろうとしているのだから。
「…とりあえず、いいから黙れ馬鹿」
「仲良しだねぇ、三人とも。いいと思うよ」
「………おねね様、空気…あなたが読めるわけはありませんね」
まさに全方位攻撃。
上司の奥方だというに、やはりつんけんした態度で接する三成は本当にあれだ。
生きにくそうな人だ、となんだかんだ言いつつ他者にそつのない接し方をする義子
生ぬるい視線を彼に送ってしまうのだけど、言われたねねの方は小さな子を咎める母親のような表情をして
「む、三成はまたそうやってそういうこと言う。悪い子はお仕置きするよ!」
「遠慮をしておきます。
警護上の問題で、街道沿いを通らせてもらいたい。
そういうことでしたね、秀吉様」
「うむ。そういうことじゃな、義子姫」
「あぁ、はい。思い至りませんで申し訳ありません」
話を戻してくれた三成に感謝しつつ、義子は自分の短慮に頭を下げる。
そうか、義子は近い方が良いのだが、警護上の問題があったな。
熟考せぬ考えを、思いつきのまま口に出すのはよろしく無いということだ。
うっかりと思いつきを口にしてしまった義子
身分上はこの場の誰よりも上、という自らの立場を弁え注意しようと考えていると
秀吉が笑いながら、ねねの方へ視線をやった。
「いやいや、じゃ、行くか。ねね」
「はいよ、お前様。じゃあ義子姫はあたしと一緒だよ」
「すいません、おねね殿」
自分の馬に飛び乗りながら言うねね。
優しく笑う彼女の姿に、同乗させてもらうことの申し訳なさを感じて頭を下げれば
ねねは、いいんだよ、と義子に向かって手を差し出す。
「あたしは嬉しいからさ。そんなこと言わないどくれ」
「おねね様は本当義子様気に入っちゃいましたね」
「可愛いだろ?」
「んー…んー。まぁ」
見た目と性格が可愛いかと言われれば首を傾げるが
しかしこの義子姫、動物めいた愛嬌はある。
であるから、否定をせずに頷く半兵衛だが、躊躇いはやはり混じった。
その正直さに苦笑をしながら、義子はねねの差し出した手を申し訳程度に握り
ひらりと馬に騎乗する。
そうすると、ねねに抱きかかえられるような姿勢に
どうしてもなってしまうが、それはもう致し方ない。
ねねの柔らかな胸が当たるのに無言になるが、仕方がない。
義子が座りの悪い気分になって、辺りに視線をうろつかせていると
ふと、官兵衛と目が合う。
無機質なモノを見るような目をした彼は、本当に義子に興味がなさそうだ。
ねねと彼を足して割ると丁度良いぐらいになるのではないだろうかと
どうでも良いことを考えて、義子はとりあえずぺっこりと頭を下げておいた。
どう反応していいか分からなかったからだ。
それに官兵衛が頭を下げ返した所で、秀吉がじゃあ行くか!と声を上げて。
一同は一路岐阜城へと出発することになったのであった。