秀吉たちは、湯治に行った帰りだったらしい。
まぁとりあえずはその血を何とかしようということで
近くの大きな町まで連れて行かれ、宿をとり、行水をさせられ
おまけに着物まで買い与えられた。
あまり借りを作り過ぎるのはまずいと、遠慮をしようとした義子だが
「子供が遠慮なんてするもんじゃないよ」
というねねの母親じみた言葉に、何も言えなくなって結局受け取ってしまう。
……ねねは、苦手かも知れない。
買い与えられた着物に袖を通しながら、ふぅとため息をつく。
最初のあれがああだったせいか、どうにもいつもの調子が出せない
対ねね相手の自分に頭を振って、義子は小さな声で情けないと呟いた。
もっと、ちゃんと対応したいのに。
思いながら眉をはの字にすると
「なにが情けないんだい?」
「う、わぁあああ!?」
行き成りかかった声が、自分が考えている相手の声だったため
大声で悲鳴を上げてしまった義子は、部屋の壁に張り付く。
すると、後ろから声をかけてきたねねはきょとんとした顔をして義子を見た。
「そんなにびっくりしなくてもいいじゃないの」
「いえ、あの。……ふすまが開いた気配はありませんでしたが」
閉まっている入口を見ながら言えば、ねねはあぁ!と手を叩いてにっこりと笑う。
「あたしは忍びだからね!入口からじゃなくてもいくらでも入れるよ」
「いえ、あの、出来れば平時は入り口から入っていただけると助かります」
「驚くかと思って」
「十分驚きましたから!」
ことんっと首を傾げたねねは、人妻と思えないほどに可愛らしい。
それが余計に困って、義子は文句も言えずにただそれだけを言う。
義子はどうにも、この手の類の押しが強くて人の話を聞かない人間に弱い。
その辺りが地味に義兄に似ている気がすると、直感したから苦手に思ったのか。
自分の心の動きを分析して。
…けれどその分析は全く役に立たない。
そう言う人間に弱いなら、どうしようもないからだ。
どう対処するかと思いながら、義子がねねの顔を見ると
彼女は義子が着替えた着物を見て、うんっと手を叩いて喜ぶ。
「やっぱりねぇ。義子姫にはそういう色の着物が似合うと思ったんだよ!」
「は、あ。そうですか。ありがとうございます」
行水中に宿の女将に渡されたので、誰が買ってきたのかは知らなかったが
この口ぶりだと、選んだのはねねか。
てっきり、誰ぞ人を行かせて買ってきたのかと思えば奥方自らとは。
自分も大抵型破りだとは思うが、この人ほどではあるまい。
苦労をしているのだろうなと思いながら、夫と、その配下たちを思い浮かべて
微苦笑すると、ねねが義子のその顔を見てにこっと笑う。
「何か?」
「んーん、ただ、男の子も可愛いけど、女の子がいるともっと良いなぁと思っただけだよ」
にこにこと微笑むねねだが、この人と秀吉の間には子供すらいなかったはずだ。
眉をひそめかけた義子だったが、子飼いたちの存在を思い出して
この人はもしやあの将たちを自分の子供の様に思っているのかと、閃く。
だとすると、相当に恩義を感じているのだろうと
とりたてられ、子飼いの将にまでしてもらっている三人の
脳内の記述欄に、備考としてねねの事を付け加えていると
失礼してもいいじゃろうか、とふすまの向こうで秀吉の声がする。
それに、はい。と返事を返すと、ふすまが開き、秀吉が室内へと入ってきた。
「ねね。お前なんでおるんじゃ」
義子姫の様子を見に。お前さまは?」
「いや、わしは今後の予定を義子姫に確認しようとじゃな」
言って秀吉はちらっと義子を見た。
その視線にねね抜きで話がしたのだと察した義子
ねねに向かって振りむいて
「すいませんが、おねね殿。私は秀吉殿と少し話をしてまいりますので。
また、その後で御迷惑でなければお話をしていただけますか」
「あ、うん。そりゃあもう!」
ぱっと顔を輝かせて頷くねねは可愛い。
義子はひらりとねねに手を振って、秀吉を促しながら宿の部屋を出た。
義子姫、ねねが色々と迷惑をかけてすまんな」
「いえ。可愛らしい奥方殿ですね、秀吉殿」
「はっはっ!そうじゃろ。ねねはわしなんかにゃ勿体ないんさ」
謝ったくせに、義子がねねを褒めると途端に秀吉はのろけた。
それに若干呆れを感じながらも、仲が良いことだと肩をすくめるだけに終わる。
余計な口をはさめば、もっと酷くなることは容易に予想できた。
そうして、その義子の反応に相変わらず子供らしくない子じゃと思う秀吉も
やはり口には出さない。
義子は彼の部下で無く、他国の姫で、子供として気安く扱っても何も言わぬが
真の意味で気安く扱ってはいけないのである。
だからお互いに思うことは胸に秘め、暫く廊下を進んでいたが
秀吉のとった部屋に入ったところで、まず義子が深々と頭を下げた。
「それにしても秀吉殿。此度は大変な心遣い、感謝に堪えません。
宿のお金から着物まで用意していただき、なんと言葉を尽くせば良いのか。
このご恩、決して忘れはしません」
まずは礼を言うのが、人としての在りようである。
義子が堅苦しく礼を言うと、秀吉はからからと笑いながら横に手を振る。
「いいんさ、そんなこと。あそこで会ったのも何かの縁じゃろ。それより」
「これからの道中ですか?」
言いたいことは分かっている。
だから、分かっていると示すために、先に話題を振ると
秀吉は深く頷き義子を見た。
「そうさ。義子姫が強いのは、出会い頭の賊退治でよう分かった。
じゃが、それで放っておいていいかと言われれば、そりゃあ普通になしじゃろ」
そう言う秀吉の眼に宿るのは、心配と不安と手柄への野心だ。
子供の義子が心配なのも本当。
親書を持つ義子と出会っておいて、放っておくなどという選択がとれるわけがないので
断られるのは自分の立場上まずいという不安も本当。
そうして、親書を持つ義子を送り届ければ、自分の手柄となるという
功名心も本当。
人間とは複雑なものだ。
たった一つの物事の中に宿る一人の人間の様々な思いにそれを感じて
義子はこっくりと頷く。
「…そうですね。そうでしょうね、あなたのお立場であれば、なしでしょう。
…お願いしても?」
「良いに決まっとる」
「ありがとうございます。再度になりますが、御礼申し上げます」
「そんなかしこまらんでも。わしの方が身分は下じゃ」
「けれど、私の方が年下であります。秀吉殿」
きっぱりとなされた返答に義子ができるのは礼を述べることだけだ。
深々と頭を下げると、困ったように秀吉が言ったが
とても年上相手にぞんざいにできない義子の方こそ、そう言われては困る。
秀吉の眼を見ながら義子が断ると、彼は困ったように頭をかいたが
しかしすぐににっと笑った。
「なら仕方がない。義元公には、わしに強制されたとか言わんでくれよ」
「えぇ、秀吉殿。それはもちろん」
人好きのする笑い。
京でも思ったがこの男の魅力は酷い。
人たらし、か。
実力あるであろう家臣を従え、農民から天下人の家臣となった男。
義子の頭の中にある歴史では、後に豊臣秀吉という男は天下人になるはずだが。
さて、どうだろう。
思いながら、義子はさて。と話を切り上げる。
「道中、どの道を通るのかはそちらにお任せします。
織田の領地には詳しくありませんし、実は私、地図も持ち合わせておりませんので」
「…うわぁ。本当に一切合財持たせておったんじゃな」
「…まぁ、子供があまり色々と持つのも不自然ですから」
「そりゃそうじゃ。分かった、任せられよ。
じゃあ、話はこれで終わりじゃな。
今日は疲れておるじゃろ。ねねはわしが言って部屋から連れ出しておくから
ちょっとその辺を散歩してから戻ってきてくれるか」
「…私は、別に…」
苦手かもしれないとは思うが、ねねのことは嫌いじゃない。
そんなに疲れているわけでもなし、特に相手をするぐらい別にいいが。
そう思って秀吉の気遣いを断ろうとした義子だったが
「ねねにつかまると、えらい気にいりようじゃったから、多分一日離してもらえんぞ」
「お願いします」
まだ太陽が中天にあるのに一日中と言われ、意見を翻してお願いをする。
それにまたもからからと笑う秀吉に、くすりと笑いをこぼしてから
義子は部屋から退出した。
それにしても、今のこの短い、誰かに聞かれても良い話題をねね抜きでと
秀吉が言ったのは、ねねがいると、話が進まなくなるからだろう。
いちいち構いたがりたそうだったからなぁ。
義兄に勝るとも劣らない接触っぷりを発揮してくれた彼女が
こうも義子を気にいるのは、おそらく彼女に子供がおらず
義子が小さく、かつ周囲に居ない女児だからだと思われる。
条件が上手いこと重なったものだ。
顎に手を当て、冷静に考えながら外を散歩しようと
廊下を歩いていると
「あ」
「あ」
竹中半兵衛、黒田官兵衛が、丁度部屋から出てきたところに出くわした。