永禄六年、秋の終わり。
………北条から今川領に帰ってきて三か月。
義子の姿は未だに庭にあった。

「………」
精神を集中して、飛ぶ三匹のカトンボに狙いを定める。
きゅっと唇を結び、引き金を引くと音と共に、真ん中の一匹が砕け散った。
それに散開しようとするカトンボを前に、慌てずハンマーと当り金の調整をし、もう一度。
たぁん。
音が響いて、もう一匹が仕留まる。
次、三匹目。
同様の動作をして引き金を引き
「あ」
三匹目は義子の撃った鉛玉をかわすと、ひらりと空を飛び、何処かへと消えていった。
「………外しちゃった……」
「外しちゃったじゃないの」
今のを落とせば完璧だったのに。
思いながら漏らした声に、返ってくる言葉があった。
その声の厳しさにびくりと体をすくませて恐る恐る振り向くと
そこにはこわーい顔をした義元と氏真が。
「………えぇと、父上、兄上、何か、ご用で、しょう、か?」
「用件は自分で良くわかっているはずだの。抵抗はやめて大人しく麻呂たちに付いてくる、の!」
ホールドアップ!とでも言いそうな調子で言う義元。
その義元の言葉にしっかりと頷く氏真。
………自分が無茶をしているなあという自覚があった義子
怒られるのだとびくびくしながら、踵を返し室内へと戻ろうとする彼らに
大人しく着いてゆくのだった。


「…義子、そこにお座り」
「はい」
連れられてきたのは義元の居室だった。
下座に座るよう指示された義子が、すとんと正座をすると
義兄と義父は上座に座り、はぁああああと、長たらしくも嫌味なため息をつく。
「………えぇと、その、申し訳ないなぁとは思っているのですけど
どうしても、ですね」
だから、言われることが分かっている義子
着物の裾を弄りながら先手を打ってごにょごにょと謝ったのだが
「聞く耳もたぬね」
「持ちたくもないの!」
「……………」
ものすごい全否定が来た。
一応謝ったのに。
だが、義子が悪いというか、周囲が心配しているのを分かっていて
がっつんがっつん訓練をしていたのは事実なので、黙っておとがめを受けようとする。
と。
「ぶっ!」
行き成り鞠が顔面にぶつかった。
なにしろ本当にいきなりだったので避けきれず、まともに顔面に食らった義子
堪らず顔を押さえて悶絶する。
そうして、その下手人今川義元は、義子の顔にぶつかって跳ね返ってきた鞠を
掬いあげて胸元へとかかげた。
義子、そちは麻呂の娘であるの」
痛みに耐える義子に、義元の声がかかる。
その声の中に寂しさが混じっているのに、義子ははっとして上を見上げた。
すると、義元は声の通りに寂しげな顔をして、義子を見ている。
その顔に罪悪感がざくりと胸に突き刺さり、彼女はたまらず胸を押さえて義父を呼んだ。
「あの、父上」
けれどもそれを制すように、義元が口を開く。
「麻呂は、そちのことを娘だと思っておるの。
そして、うちの娘は聡い子であるから、麻呂たちが余り怒らずとも
自分で気がついていけると麻呂は思ってるのだがの。
果たしてどうであるかの」
鞠に目を落としつつ言う義元の言葉は小狡い。
そう言われてしまえば、義子は肯定するしかなくなる。
しかもうちの娘と来たものだ。
ここぞというときに、ここぞという手札を使ってくる義元は、やはり人の上に立つ人間であった。
だから、義子はもう、あらん限り首を振って反省を示す。
「それは、それはもう」
が、しかし。
その義子の行動に、義兄がにぃっこりと笑う。
それは一見とても優しげな笑みだったが、目が。目が全く笑っていない。
それに冷や汗がだらっとでる。
何これ、怖い。
普段怒られない義子と、怒らない氏真。
それが今はこうだから、義子の恐怖もひとしおと言う所である。
そして体を硬くして、怒られるのを待つ義子に、氏真は優しい笑いを浮かべたまま
「本当に?我々は随分と心配して、この三カ月見ていたのだけれどね。
それをお前、分かっていながら訓練を続けていただろう」
「は、いや…それは…」
「そのくせ、怒られたら謝るという姿勢で居られてもね」
「…返す言葉もありません」
…兄上、容赦ない。
もうめった切りにされて、手も足も出ないとはこのことだ。
きゅうきゅうと絞られ身を小さくして、下を向く義子
その義子を眺める二人。
いたたまれないような沈黙がしばらく続いた後、義元がの。と小さく声を上げる。
それに顔を上げれば、彼は義子。と娘の名を呼んだ。
「反省、しておるのかの」
「はい………」
それはもう。
これからは、心配されたならば、その心配をきちんと受け止め
自重しようと思う程度には。
重々しく頷く義子だったが
「銃の腕、納得いったのかの?」
「いえ、あの…それは」
次の義元の問いかけには、全くそれを生かせずに終わった。
それに氏真がものすごくしょっぱい顔をしながら義子へと視線を向ける。
「………………義子
「だ、だって、まだ私の納得いく所ではないというか
戦場を見て、あそこで平時の腕を発揮するのは
並大抵の場数では無理だと思ったのです。
であるならば、場数の少ない私は、今よりももっと腕を高めておかねば、戦場では何割の命中率であることか。
それに、動く的に当てられるようになったからといって
相手が人間で無いのですから、それを想定した訓練ももっとしなければ
到底納得できるものではありません…という…あの…」
彼の責め立てる視線に焦りを感じながら
反射的に出てしまった正直な気持ちをごまかそうと考えた義子だが
そうそうごまかせるような状況ではない。
仕方なく、だから、素直な感情を吐露するべく、義子は口を開いて
…ますますの墓穴を掘った。
多分二・三人ぐらいは埋められる。
だから、説教する側の義元と氏真は、いつも自分たちがされているような
諦めきったひきつった笑いを洩らす。
…なというか、かんというか。これは間違いなくうち(今川)の子だ。
どこがってそりゃあ、残念具合が。
「………駄目だの、これは」
「全く駄目ですね。父上」
遠い目をして虚空を見る二人。
それに、ほんっとうにいたたまれない気分で義子がいると
いち早く立ち直った義元が、復活してきてため息をつく。
「仕方がないの。義子
「は、はい…」
「そちに重要な任務を任せたいの。織田に書状をひとつ、届けてはくれないかの」
「書状、ですか」
いきなり飛んだ話題に、パチッと目を瞬かせながらも
問い返す義子に、義元は書状だの、と肯定をした。
「供を一人つけてあげるの。出来るだけ迅速に、織田のうつけ殿に書状を届け
ばっちり終わらせて帰ってきて欲しい、の」
「その途中で賊と出会うこともあるだろう。
その時には、存分に自分の腕がどうであるのか、試してきなさい」
「あ、はい。はい!」
義元の言葉を引き継いで、義子に優しく言う氏真の言葉に
書状を届けるという任務に込められた意味を知って
義子は勢いよくその任を承った。
自分のためを思って任される任ならば、喜んで承って
その期待、応えてみせるとも。
即断。というのがふさわしい速さで受けた義子
義元はにっこりと福笑いめいた顔で笑い、毬を差し出す。
「さて、楽しくない説教は終わるの!これから楽しい蹴鞠をするの!
義子はその銃を置いて庭に集合であるの!」
「はい、父上」
その義元の誘いに、泣いた烏がもう笑ったを体現したような空気で、義子は勢いよく頷き
銃を置きに急いで、しかし礼儀正しく部屋を飛び出すのだった。




そうして義子が去った後、部屋の中に落ちるのは重苦しい沈黙だった。
「………父上」
「…仕方ないの。あの様子じゃ絶対またやりだすの」
頭痛がするように、米神に手をやる義元。
いつもは彼がされる側だが、今回はする側になってしまった。
普段は家臣はこういう気持ちであるのじゃの。と、彼は家臣のことを思ったが
まぁそれはこれ、これはこれ、だの!
と自分のことは速攻で棚に上げる。
良い根性である。
それよりも問題は娘のことだ。
未だに納得がいっていない様子の彼女は、隙を見ては訓練をするだろう。
いい加減それをさせないためには。
「…まぁ、冷却期間、ですね…」
「可愛い子には旅をさせろというの、諦めるのじゃの」
不承不承という調子で了承する氏真を、義元はいつも通り
福笑いに似た笑いで諦めるよう諌める。
彼女に体を壊させないために、わざわざ織田まで出すのだから。
けれども、いつのまにやら過保護になっている兄上は
その父上の促しにそっと溜息をつく。
「……………心配なのですけど、ねぇ。
ほら、あの子、のら猫みたいだから。誰かの家猫になるんじゃないかと思って」
もう充分に、あれは今川の家猫であるの。
とは義元は言わなかった。
我が子ながら、うじうじとする氏真が大変にうっとうしかったからである。
彼ではないが、面倒くさい。
もうこの息子は放っておいて、可愛い娘と蹴鞠をするの。
面倒くさい息子を放って、彼は義理の娘と蹴鞠るべく
うきうきと庭に出て行く。
そうして後に残された氏真は。
「心配なことだなぁ…あの子、微妙についてないから」
事実だけれども不吉なことを呟いて、眉をはの字にしながら秋の高い空を見上げた。
空は澄み高く綺麗で、それがますます氏真の不安を加速させるのである。