氏康に連れてこられたのは、城の近くを流れる川だった。
小川のせせらぎが聞こえる、綺麗な場所だが
なんとなく最初に落ちた地点を思い出して、義子は微妙な心境になった。
非常に、微妙だ。
草の味が口の中に広がる気がする。
けれど連れてきてくれた氏康を思えば、それを表情に出すわけにはいかない。
知らぬ顔をしながら氏康と歩いていると、彼はある地点でどっかりと川べりに座り込んだ。
そうしてそのまま持ってきた長い袋の中から、釣竿を取り出して組み立てる。
「はぁ、釣りですか」
「釣りだな」
氏康は、義子にも釣竿を持たせて、袋の中から木箱をとりだす。
その蓋をあけると、入っていたのはミミズだった。
あぁ、餌か。
思いながら氏康に倣って平然とミミズをつけ、義子は川の中に釣り糸を投げ入れる。
ぽちゃんと音を立てて沈んだつり針は、静かに流れる川の流れに沿って
つつぅと動いてはくるくると回った。
そうしてそのまま二人とも黙りこんで、釣果を待つ。
待つ。
待つ、が、一向に釣れない。
「連れてきたのは良いが、子供にゃつまらねぇか、これ」
「いえ、私は良いです」
暫くの後、氏康に問いかけられた。
もう半刻は過ぎただろうか。
会話も少なく、ただ黙って釣り糸を垂れるだけというのは
確かに子供には酷なのだろうけれども。
静かで穏やかな時間は、義子は好きだ。
この光景は微妙だが、静かに釣り糸を垂らしているのは癒される。
だから素直にいいえと否定をすると、そうかと氏康は口の端をくっと上げて
「あんまり悩んでくれるな」
静かにそう言った。
………それに、連れ出された理由を知って、義子はせせらぎに耳を澄ませながら
いえ、と答える。
「いいえ、氏康叔父上。私の悩みは私の理由があってのことです」
「だが、それは三増峠のことだろうが」
「はい。それは肯定しますが、私は私では力不足であると思って
どう方向転換して力をつけるか、それを悩んでいるだけなのです」
おそらくとして、死者たちになんとすればよいのか。
そう義子が考えているはずと、思っているだろう氏康に釘をさすと
彼はその通りだったようで、動きを一瞬止めて、義子の表情を見た。
氏康の思うことも分かる。
普通の人間ならば、まずあれだけの死者を出したことを悔いて
どうしてああだったのか、こうだったのか、戦場での自分の判断を悔いて
こねくりまわし悩むのだろう。
けれど、義子はそんなことは二の次にしようと思ったのだ。
過ぎた時間に対してもの思うのは悪くない。
けれどもそれは、義子にとっては今するべきことではなかった。
義子が考えるべきなのは。
「…氏康叔父上。私は、武田の赤備えと相対した時に、何もできませんでした。
何一つとしてです。義兄に守られ、一人も殺すこと叶わず
ただぼうっとしているだけで。だから、思ったのです」
「なにをだ」
「…ごく普通の人間が、あの武勇を誇る集団を殺すにはどうすればよいのか。
それをまず考えなければ、状況が違うにせよ、再度繰り返すと」
釣り糸が、くるりくるりと川の流れに捕まって、踊り揺れる。
それを眺めながら言った義子に、氏康は眉間に皺を寄せこちらを見る。
けれどもそうだろう。
義子は普通だ。
普通でしかない。
今までの山賊退治などで、戦前は調子に乗っている部分があったが
いままでのあれこれは、ただ単に運がついていたのと
自分よりも弱いものを取り囲み、一方的に数の暴力で嬲り殺していたにすぎなかった。
それをはぎ取って、純粋な力だけでみれば、義子はそこまで強くない。
一般兵よりかは、さすがに強いけれど名のある武将と戦えるほどではなかった。
ましてや、赤備え、真田幸村を殺すのには全く足りない。
そこの差分を補うにはどうすればよいか。
どうすれば良いのか。それを義子はずっと考えている。
それに対して氏康は、お前の歳ならば、と反論しようとしたが
戦場に出る以上はそれは関係のないことだと気がついて、飲み込む。
そうして飲み込んだ言葉を再び口に上らせることなく、それで、と彼は先を促した。
だから、義子も続きを答える。
「…刀は、駄目です。先の戦いで使って負けた。
槍も駄目です、長刀も。接近戦であれに勝てる気がしません。
では弓ならどうかといえば、貫くには私の力が足りない」
強弓を引くには義子の力は弱すぎる。
かといって矢数を掛ける弱弓では赤備に突進されてしまえば終わりだ。
あくまでも、一対一で、殺せるのが望ましい。
で、あるのならば。
喋っているうちに頭の中が整理されてきて、義子の脳裏に閃くものが一つあった。
刀も、弓も、時代遅れになった現代で、進化を遂げつつも使われている武器。
引き金を引くだけで人を殺せる、その名前は。
「…だから、そう、うん。銃に持ち替えて
遠距離から殺すというのはどうかと、今閃きました」
槍も駄目、刀も駄目、長刀も駄目、弓も駄目。
一朝一夕で素晴らしい腕になるものでは全て無いし
大体が同じ土俵に立っていたのでは、絶対に義子は奴らに勝てない。
だが、銃ならどうだ。
あれは弾を込め、狙いを定めて引き金を引くだけで人が殺せる。
そうして、引き金を引いて撃ちだした弾丸は、頭に当たれば脳みそを散らさせ
腕に当たれば腕を使いものにならなくし、足に当たれば歩行不能に追い込むだろう。
そして何より鎧が貫ける。
戦国の世において、未だ合戦で銃が一般的でないのは
火縄が弾込めに時間がかかること、高いこと、そうして武士の矜持が原因としてあげられた。
しかし、武士の矜持は義子にはない。
であるならば、銃の引き金を引き、赤備えの、幸村の頭に鉛玉をくれてやれ!
たどり着いた答えに、無双者たちを殺す糸口をつかんだ義子
目をキラキラさせてどうでしょう!と、氏康の方を見ると
「…………お前、な」
氏康は何故かひどく疲れたような顔をして、義子の方を見ていた。
…何故だ。
いつかの挨拶の時と同じく、理由の分からぬ反応に
義子が戸惑っていると、氏康がはあああああっと
猛烈なため息をついて頭をがしがしとかく。
「今泣いた烏がもう笑うじゃねぇんだ。
悩めとはいわねぇが、なんなんだ、その猛烈な攻撃思考は」
「え、だって、殺さないと殺されるのはよくわかったので、つい」
殺さなければ殺される一方。
こちら側の命が損なわれるばかりの一方的で
凄惨な光景を脳裏に描いてそう言い訳すると
氏康は眉間にしわを寄せて、義子の腕を押す。
「ついじゃねぇだろうが、おい」
「す、すいません」
「ったく、てめえは血がつながって無いのが不思議なぐれぇに
あの兄貴とあの甥にしょっぱさが似てやがるな」
「…………」
その言葉に複雑な感情を義子は抱いた。
似ているといわれるのは嬉しいが、しょっぱいは嫌だ。
そうやってうぐっという擬音のつきそうな表情をしていると
氏康はふっと息を吐いて空気を変えると、ぽんぽんと義子の頭をたたき
真剣な声で、言う。
「よりにもよっての初陣があの胡散臭い野郎で、案の定の結果だ。
折れてるかと思って誘ってみたが、まぁ、そういう悩みなら良い。
守りてぇんだろ?」
守りてぇんだろ?
それが指す、義子の守りたいものを、氏康は理解している。
そう思ったから、義子は躊躇い無く首肯をした。
「はい。決めましたので」
前々から決めていたことではあるが、本当に決まったのは、三増峠での戦いな気もする。
あそこで逃げなかったというのなら、義子は本当に選択をしてしまったのだ。
だから、必死になって生き延びさせる方法を考える。
殺しはしないと真剣な顔で肯定して、義子はきゅっと唇を引き締め。
氏康は自らと同じ結論にたどり着いた少女を歓迎するように、優しげな眼をして口の端を上げる。


そうして、その背後で混沌の風がゆらりと揺れた。
会話を全て聞き届けていた風は、そのまま姿を現さず、ふらりと立ち去り。
けれどもその場には、どこか満足げな空気が僅かに残って、そしてそれもすぐに消えさった。




時は、永禄六年の夏の終わり。

この後すぐに彼女は今川領の義父今川義元へと、銃剣が欲しいと願う文を出したのだった。