今川兄妹の傷は、
義子の方が軽く、氏真の方が重かった。
ので、
義子の傷が癒えても、彼らは今だ北条にあった。
「兄上、お元気ですか?」
「死にそう」
「………縁起でもないことを言わないでいただきたい」
「言いたいのだよ、暇なのだよ、退屈なのだよ、遊んでくれ」
布団の中でわめく氏真は、非常に元気そうだ。
内臓が飛び出したにもかかわらず、割に元気そうな氏真は
本を読んでいたようだったが、
義子が来たことで本を置き
彼女を手招きして横に座るよう促す。
「すっかり傷はいいのかな、お前の方は」
「はい、おかげさまで」
尋ねられて頷くと、それは良いことだと真剣な顔で頷かれた。
その表情に羨ましさがあるのが見て取れて、
義子はさもありなんと思う。
寝ているだけというのは暇なのだ。
だから、
義子は氏真への見舞いに懐から本を取り出し傍に置いた。
「これは?」
「兵法書です。床にあった折に氏康様から借り受けました。
それを兄上にまた貸ししても良いかと聞いたら、是と言われましたので」
「………叔父上のことはお前も叔父上とお呼びしなさい。手紙ではそうだろう?
それにしても兵法。そんな小難しいもの、お前床で読むかね普通」
若干の呆れが声に混じった。
氏康もそう言って、兵法書が読みたいとねだる
義子に言ったけれど。
「………………………だって」
そう言われて、
義子の胸に去来するのは悔しさと怒りである。
思い出すのは無論、あの三増峠での敗戦だ。
あそこで手も足も出なかった自分が嫌で
だからなんとかしたくて
義子はあがいている。
だから、兵法書を読み漁り、知識をつけて、早く早く力をつけろと
急く心を宥めていたのだ。
…が、まぁ、それと義兄に貸すこの行為とは関係がない。
ただ単に近くにあった手近な本を、暇だろうと思って持ってきただけだ。
「では、いらないなら氏康叔父上に返しますけれども」
だから、ひょいっと本を床から上げて懐にまたしまおうとしたところで
氏真が手を上げて、
義子から本を奪う。
それにぱちくりと目を瞬かせた
義子に、氏真は少し笑って
「まあ、ありがたく頂いておこう」
その表情に、いつもとは違うものを感じた
義子は
あぁ、義兄も悔しかったのだと、察して黙って頷いた。
暫く。
その後も氏真と会話を続けた
義子だが、余り長々といて傷に障ってはいけない。
早々に部屋を退出し、氏真の見舞いを終えた所で、廊下を歩きながら
義子は考える。
両腕の骨にひび、肋骨骨折、腹部刺傷。
義子が戦場で負った傷は以上だ。
そうしてその傷の半分程度、真田幸村の槍の一合を受けただけで負ったのだから
あの若武者の力がいかほどであったか知れるというものだろう。
「………」
…そう、一合だ。
義子は自分の手のひらを眺める。
小さな手だ。
この手で、一合。
しかし、一合でしかない。
ただの一合しか、真田幸村の槍を受けられなかった、手。
赤備えという、連携も何も無く個人の武勇だけで
戦況をひっくり返して見せた者たちに何もできなかった、手。
「…個人の武勇によって、戦況がひっくり返る、か」
それは味方であれば、この上なく頼もしいのであろうけれど
敵であるなら、この上なく鬱陶しい。
そして、その鬱陶しいものを殺す手段が、
義子には欠けている。
「私じゃ、あれは、殺せない」
一合うけただけで、骨が砕けるような
義子の柔な体では
どれほど鍛えた所であの赤い武士を倒すには至らないだろう。
ではどうすればいいのか。
今使っている刀は駄目だ。
それではない武器と言えば、思いつくのは
槍、弓、刀、長刀。
けれど、どれもこれもまだ足りない。
義子が真田幸村を殺すには、一つも二つも足りていない。
あの戦場を思い出す。
兵を紙屑のように屠っていった赤備えたちの力。
義兄を簡単にあしらった幸村のあの武。
心の底から湧きあがってくる悔しいという気持ちのまま
義子はぎゅっと拳を握る。
と、その瞬間。
「なに廊下でぼさっとしてやがる」
「あ、氏康叔父上」
背後から聞こえてきた声に、
義子は振り向いて頭を下げる。
「こんにちわ、氏康叔父上。どちらかにお出かけですか?」
出かける恰好をして長い袋を持っている彼に問いかけると、氏康は素直に頷いて
義子の頭に手をのせてぐりぐりとする。
「まぁな。ところでお前は兄貴の見舞いか?」
「はい、今済んだ所です」
大人しく犬のようにわしゃわしゃと撫でられながら肯定すると
氏康は氏真の部屋の方を見ながらそうかと呟いて、それから
義子へと視線を向けた。
「その格好なら、まぁ大丈夫そうではあるな」
「あの、氏康叔父上?」
「お前、俺と一緒に出かけるか?」
何を検分されているのかという戸惑いは、その氏康の誘いによって無くなる。
義子は自分の服装が、簡素であることを確認して
それから氏真の誘いを考える。
体調は、良い。
暫くの間動いていなかったせいで、体の動きが悪いのはあるが
動くのに支障があるほどでもない。
…で、あるのならばリハビリも兼ねて外に行くというのも良いのかもしれなかった。
それだから、
義子がこくんっと頷き了承すると、氏康はにかっと笑って
彼女の頭をまた撫でる。
「わっ」
「悪りぃな。あんまり良い位置にあるもんだからよ」
「いえ、構いませんが」
ぼさぼさ頭で謝る氏康の謝罪を否定する
義子は、女子からぬ。
恐らく甲斐姫辺りにやったらとんでもなく怒られるのだろうが。
思いながら
義子に向かって「じゃあとっとと行くぞ」と声をかける氏康に促され
義子は彼と連れだって城外へと出かけることとなったのであった。
→