重傷を負った今川兄妹は、すぐに今川領へと帰還することもできず
北条へと留め置かれ、静養をしていた。
そうして、北条で静養を始めてしばらく。
義子は大変に暇を持て余していた。
今川兄妹は、北条の居城の内、客間として用意された中でも
立派な一室を割り当てられていた。
そのことに不満はない。
むしろ不相応とすら思える。
義子は現在は今川の姫であるが、拾われもので、海の物とも山の物ともつかぬものなのに。
もっと言えば、誰にも明かしてはいないが、
義子は現代から来た異邦人だ。
拾い物よりも、より怪しい。
けれど、遠慮をしてしまえば怒られるのも分かり切ったことだから
黙ってだだっぴろい一室を享受しているわけだけど。
けど。
一人でぽつねんと置かれていると、本当に暇で仕様がない。
義兄氏真は少し離れた部屋にいるらしいが、
義子も氏真も
絶対安静を言い渡されている身であるので
出歩くことは許されず、もう二週間ほども会っていない。
そうして、最初の頃こそ甲斐姫だの風魔だの氏康だのが
何くれとなく顔を出してくれていたが、一週間を過ぎたころから頻度を減らし
二週間目を過ぎた今は、来客の一人もなかった。
「あぁ…暇」
布団の中で
義子は呟く。
両腕の骨にひびがはいり、かつ肋骨は折れ、腹部は刺されたのだから
全身が痛いには痛いが、それよりも暇で仕方がなかった。
人を殺すには刃物はいらない。
ただ怠惰を与えればいい。
退屈は本当に人を殺すと思いながら、
義子はただじっとしている。
動くと耐えがたい苦痛が全身を襲うからだ。
…痛い。痛い、畜生。
置かれた状況を思えば、命があるだけめっけものなのだけれども
助かってしまえば更に上を望むのが人間だ。
もっと軽傷だったらよかったのに。
自由に歩くこともままならない我が身にため息をそっと零して
義子は天井を見上げた。
…暇だ。
暇すぎて、色んな事を頭が駆け巡る。
人間暇にし過ぎていると、ろくなことは考えないもので
ここ二三日、
義子の頭の中は、王道とは何ぞやということでいっぱいだった。
…王道。
北条に、そして以前は今川にも攻め入った武田信玄が言う言葉である。
民の苦しみを除き、戦国に幕を引くには、天下に王道を布く必要がある。
そう主張して、彼は自分の天下を築こうとしているらしい、が。
義子は思うのだ。
…王道とは何だ、と。
そうして今日も考える。
王道とはなんだ。
世が平たくなることか。
平たくするというのなら、戦を起こしても良いのか。
天下泰平とは世の中がよく治まり、穏やかな様子の事を指す。
その渦中が、どれほどに血に塗れ、どれほどに人が死んでも
そのがそうならば、それで良いのか。
…良いのだろう、良いのだろうよ。
義子のいた時代も、そうやって泰平を手にして
後の世の人間は、渦中にあったものたちの苦痛も知ることなく
大層に穏やかに暮らしていた。
無論、
義子も。
―天下泰平。王道。
後の世の人間にとっては、大変に良いことなのだろうけれども。
それでも、やはり武田信玄のやり口は、
義子の気には食わなかった。
その理由を考えてみれば、やはり彼の唱える王道の背後には
ちらちらとちらつく野心の影があるからだろう。
天下に現在一番近いのは織田信長だ。
一刻も早く民衆に平和をと願うのなら、信長に従ってやるのが一番早い。
信長はやり方こそあれだが、戦のない世を築くだろうことは予想に容易い。
そうせずに、王道という曖昧な言葉を持って天下を制すと
自分が自分がと手を上げるのだから、やはり武田信玄公は
「己が」天下を取りたいと、そういう野心を持っているということだ。
別に、野心が悪いとは言わない。
人は欲望で動く生き物だ。
理性で動くと言うものもあるが、その理性だとて元をたどっていけば
所詮は欲にたどり着く。
だから、野心が悪いとは
義子は決して言わない。
言わないけれども、その野心が気に食わぬと思うのは
それを奇麗事で覆い尽くしている、そこが、やはり、気に食わない。
「………捻くれている」
ぽつりと呟いて、窓の外を見る。
北条の城下は戦があったとは思えぬ程に人がわらわらと
動いているのが見えた。
…あそこに居る人を殺すなら、せめて、嘘をつかずに殺すと良いと、
義子は思った。
戦場で思ったのと同じように、それが、せめてもの手向けであると。
耳障りの良い嘘で殺されたのでは、殺される側の
義子からすれば
ますますたまったものではない。
そうして、
義子は連鎖的に考える。
武田信玄が気に食わぬのは、野心の影がちらつくからで
では、そうでなかった場合にはどうか。
無私の思想で立ち上がり、戦ごとを起こし、世に泰平をもたらさんと
野心も何もなく思ったものならば、
義子は受け入れるか。
「…………うぅん」
それに関して考えて、唸り声を上げる。
野心を、覆い隠しているよりかは、まし。
けれど、そういう輩は確実に人間として壊れているだろう。
………いや、壊れているぐらいで、施政者などはちょうど良いのだろうか。
けれど、なぁ。
その無私の心で世の中を誰かが作ったとしても、結局、そいつはいつか死ぬ。
そのときに、作った世の中がどうなるのかといえば、それは誰にも分からない。
いや、そういう無私の世の中だけでなく
野望を持った誰かが作った世の中も
なにもかもが、その人間が崩れれば瓦解する可能性は、孕んでいるだろう。
なにしろ、人一人が先頭を走って作った世の中なのだから。
先導者を見失ったその他大勢が、思うことなどたかが知れている。
そうしたならば、どうするのが一番良いかといえば
一人でなく、複数人、いや皆で世の中を作り上げることなのだけれど。
「………一足飛ばしに民主主義…!!」
自分の思いつきに、
義子はくらりと眩暈を覚える。
皆でというのなら、この日の本に生きる人皆に他ならない。
農民も、商人も、皆。
改革は、武士、特権階級だけでやったところで、それは今までの歴史の繰り返しである。
それを防ぐためには、総数を増やし、そこの土地に生きる者全ての意思決定として
政府を作るほかないのだけれど。
…国家を全員で塗り替えるのなら、もうそれは民主主義の始まりだろう。
そうしてそれを特権階級のものが進んで行なってどうする…!!
民主主義の始まりは、下からの突き上げによって生まれるものだ。
ブルジョワジーの台頭から始まり、その他市民の意識変革を経て
国民を財産とみなす支配者側と、自分は自分自身が所有者であるとする民衆が戦い
民衆側の勝利をもって始まるもの、それが、民主主義である。
それを、指導者側自ら、与えてどうするのだ。
もう、なにがなにやら。
というか、そもそも上に立つ人間は勘違いしがちだが
下に位置する名前もない人々は、安全とある程度の生活の保障さえされれば
上がなんであろうがどうであろうが
思想がどうこう言われたところで、どうでも良いのだ。
先に出た、民主主義の始まりだとて、結局は下の不満が爆発した結果
自分たちの良いようにする政治を彼らが行い始めたにすぎない。
そこを踏まえて考えてみれば、まったく、王道だの義の道だのは
義子にとっては無意味なものにしか見えなかった。
…もういっそ、戦わずに今居る大名連中で、連合国家でも作ればいいじゃない。
そうしたら戦争なぞしなくて済む。
そう思った
義子は、それがいつか誰かから聞いた考えであることに
はっと気がついて戦慄を覚える。
「兄上と一緒とか…!」
「え、お兄さんと一緒だと何か不都合あんの?」
布団の中で一人愕然としていた
義子の耳に届いたのは、きょとんとした女の声だった。
それに、そちら側を
義子が向くと、甲斐姫がいつの間にか室内に入ってきている。
いつの間に来たのだろう。
ぱちくりと目を瞬かせながら、
義子が甲斐姫を凝視していると
彼女は咎められていると勘違いしたらしく、あっと声を上げて気まずそうな顔をした。
「ごめん、あの、声をかけても返事がなかったから
寝てるか痛くてどうにかしてるのかと思って」
「いえ、少し考え事をしていただけです」
「あぁ。その考え事で、お兄さんと一緒になったんだ」
布団の横まで来て座り込んだ甲斐姫は、
義子の方を首を傾げて見て
「でも、お兄さんと一緒で何か不都合あんの?
あんたとお兄さん、仲良いじゃない」
「あぁ………不都合はないのですけど、義兄が先に言っていた考えに
私も行き着いたものですから、少し、真似をしたようで嫌だなと」
嫌と言うほどではないけれど、嫌。
その複雑怪奇な感情を読み取ったらしく、甲斐姫がうぅんと唸りを上げる。
甲斐姫の方にも、身に思い当たることがあるらしい。
よくわかる、と言いたげな顔を彼女はしたが、けれどその後すぐに微笑んで。
「でも、あんたとお兄さんの場合はあれじゃない。
真似とかじゃなくて、気が合うとか、そういうことじゃないの」
「気が合う」
「え、だって、仲良いじゃない」
先ほどから繰り返し言っていることを、もう一度言って甲斐姫が笑った。
その表情は微笑ましいといった感情が見て取れて
義子に彼女が真実そう思っているのだと伝える。
…仲が良い。
他人から改めて言われると、これもまた複雑な気分になる。
嬉しいような、面映ゆいような。
そうして、気が合うという言葉もまた、これまた照れくさい。
………そうなのだ、実際、正反対の
義子と氏真だが
不思議と意見の対立はない。
これを気が合うと、人は言うのだろう。
事実、
義子は義兄に一度きり聞いた彼の構想に、全くの意識なく思考の末にたどり着いた。
在り方は正反対で、才能も似ていなくて
それでも、進む方向が同じとはまた希有な例をお互い引き当てたものだ。
思わず苦笑をしてしまう。
そういう人間だったから、車輪の話が出てきたのか。
それとも全くの偶然であるのか。
しかし、どちらにせよ、
義子にとって氏真は既に、気の合う大事な義兄になってしまっていて
おそらくとして、あちらさまも、そうだ。
「………………大事な人との、大事な今を守る、か」
「え、あ、ちょっと、それそんなの、私の前で繰り返さないでよ!!」
「あぁ、すいません。良い言葉だと思ったので」
ぽつんと呟いた言葉に、露骨に反応して慌てる言葉の主相手に
義子は悪びれず返して、物思う。
王道の意味も、泰平の意味も、国家の意味も考えるのは良いけれど
義子のやるべきことは決まっている。
今川は既に方針を定めた。
野心によっての天下統一は諦め、今川家をとり潰さぬように残すと。
そうして、そうであるならば、先ほど考えていたこと全てに意味はない。
いや、意味はあるけど、価値はない、だろうか。
天下争いから撤退する今川は、ただ潰されないように
機を読み流れを読み、歴史の進むままに天下人となるものに従い、うまくやりすごすだけだ。
そこに
義子が一生懸命に考えていたことを挟む隙はない。
大体が、やりたい構想をやるには、余りに構想が先進的過ぎて、無理だ。
時代を先取りしすぎている。
し、その構想を持つ者は民衆の中から現れなければ。
だから、構想は構想のまま終わらせて
その先の時代で誰かが果たしてくれることを祈りながら
歴史に身を任せ、そのまま突き進む。
…天下を誰がとろうと、どういう思想であろうと
気に食おうと気に食わまいと、
義子はただ今川と共に進んで義兄と義父を守るのみ。
天下取りの思想を抱くには、
義子は
自分に才と魅力がないことを認める現実主義者過ぎたし
野心が足りなさすぎた。
だから、彼女は決めるのだ。
自分の手に抱え切れようが、抱え切れなかろうが、義兄も父も今川も守ると。
それだけ、守れれば良い。
思いながら、
義子は甲斐姫を見た。
…それにしても、この人が見舞いに来るのも最近は珍しい。
「それにしても、どうかされましたか、今日は」
だから、その感情のままに素直に問いかけると
甲斐姫は懐からさっと何かを取り出して
義子の方へと突きだす。
それに視線をやると、甲斐姫がとりだしたのは鮮やかな千代紙の束だった。
「これは」
「えっと、お見舞い。寝てるのも暇だろうなと思って」
「それは。お気遣いありがとうございます」
心からの感謝をして、
義子は甲斐姫から千代紙の束を受け取る。
結構な分厚さをしているその束をしげしげと眺め、
義子は
これで手慰みでもしていれば、余計なことは考えなくてすむだろうと思った。
そう、暇すぎて、やることもないから余計な意味のないことを考える。
「再度、感謝を。甲斐姫、あなたは優しいですね」
「え、いや」
頭の痛くなるような、意味のない考えにふけることに飽き飽きとしていた
義子は
甲斐姫に心からの笑顔を向けて。
滅多とない彼女のそういう表情と、その優しい声・内容に、甲斐姫はあたふたと顔を赤くした。
いや、だの、そんな、だの。
言葉にならないような可愛らしい甲斐姫の様子に、
義子はくすりとして
彼女とも戦う事がないと良いな、と、可愛くて優しい人に、そう強く思った。
…永禄六年、夏の終わりの話である。
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