むざむざとやられるよりかは一太刀でも、と義子が一歩前に踏み出し特攻の準備をし。
幸村が、今度は反対にそれを迎撃する構えを見せた。
瞬間、それを止める人影がその場へと現れ出でる。
義子姫!!」
背後からする甲斐姫の声に、義子が、そして幸村がそちらへと目をやる。
すると大分近くの茂みから、甲斐姫が浪切を手に近寄ってきているのが見えた。
その後ろには、北条の一団が控えている。
援軍か。
ほっとするのと、また幸村にやられるのではないかという不安が
ないまぜになった気持ちで、義子は甲斐姫の方へ視線を向けた。
けれど、幸村の姿を認めると、彼女はその歩みを鈍らせて
明らかな動揺を見せる。
「あ」
「甲斐殿」
名前を呼ぶ幸村と、動揺する甲斐姫。
二人の様子に、知己なのかと義子は知る。
その一拍の隙間を縫うように、幸村の背後に影が降り立った。
「幸村様!」
「くのいちか」
「伝令、伝令!お館様は無事撤退!幸村様ももういいからさっさと来いって言ってたよ」
「まことか、くのいち!分かった。退くぞ!」
「あ」
後ろに立った忍びの言葉に、幸村は喜色もあらわに撤退を始める。
その後をついて走ろうとした忍びは、一瞬だけ、ちらりと甲斐姫の方を振り返る。
甲斐姫も、忍びの方を物言いたげで眺めた、が。
忍びは甲斐姫へ背を向けると、一言も残さず、武田信玄公を追う真田幸村の後を追いかけ始めた。
…………助かった。
見る見る間に遠ざかる幸村のその背中に、へなへなとへたり込みたくなった義子だが
そうは問屋がおろさない。
真田幸村に殺されたものはともかくとして、負傷者、ならびにそこいらで腰を抜かしている者たちは
義子が率いて安全圏まで撤退をしなければならない。
そうして、その中には隣でぼさっとしている甲斐姫も無論、含まれる。
「甲斐姫、しっかりして下さい。撤退しますよ!」
そう言って、行きがけのお返しとばかりに
ばしりと背中をたたくと、彼女は夢から覚めたように
ぱちくりと目を瞬かせながら、きょろきょろとあたりを見回して
「あ、あ、あぁ、うん、ごめん」
本当に、申し訳なさそうにそう言った。
………。
友達、なのだろうか。
彼女は武田と同盟を結んでいた時から、戦場に立っていたはずだ。
だから、そのときのいずこかで、あの二人と甲斐姫はあっているのかもしれない。
けれど、感傷に浸らせてやる時間は今は無い。
義子はざっと周りを見渡し、負傷者と生存者が数少ない、三十名程であることを確認すると
ばっと手を前にやって指示を下す。
できるだけ堂々と、できるだけ偉そうに。
「皆、武田信玄が撤退に成功した以上、これより先の戦いは無意味。
こちらも撤退を開始します。無事な者は可能な限り負傷者を抱え
速やかに本陣へと移動を開始してください。
殿は私と甲斐姫が務めます。…よろしいですね、甲斐姫」
「あ、うん!勿論。守って見せるわ、ゼッタイ!!
私は大事な人との大事な今を守るために、戦ってるんだから!」
いつもの勢いを取り戻し、負傷者の中に混じる北条の兵たちを見ながら言う甲斐姫に
ほっと一息つきながら、義子は刀を構えなおし。
周囲に目配せしながら撤退を開始した。

「………それにしても、丁度いいところに現われましたが、甲斐姫」
「あぁ、あんたのお兄さん。氏真様がこっちに救援を呼びに来たのよ。
で、急いで駆け付けたってわけ」
「兄上が?でもあの人は負傷して徒歩で逃げたはずで」
「あぁ、徒歩でってことは、どっかで殺して馬奪ったんだ。
…凄かったわ、あれ。
内臓飛びださせながら血まみれで馬に乗って駆けてきたんだから、あの人。
至急救援を頼みたいって、鬼神みたいな顔して」
「……鬼神」
「しかも、馬で武田の兵を轢くわ、その武田の兵の喉元を突いて止めをさすわで…
戦場に立つと、性格が変わる性質なの?あの人」
「いえ、そんなことは無いはずですが。
…ところで、義兄は」
「あぁ、こっちについてこようとしたんだけど
その傷じゃ邪魔だからって、無理やり本陣に連れ帰らせたわよ」
その前に、失血のせいで気絶したけど。
と言わないのは、甲斐姫なりの義子への気遣いだった。
だが、悠長に話をしていられたのもそこまでだ。
負傷兵を抱え、撤退をしている小勢は格好の獲物である。
同じく撤退をし始めている武田兵が、蹴散らしても蹴散らしても寄ってきては
首を取ろうとするのだ。
義子たちも、無論奮戦はした。
全員で本陣に戻ろうと、必死で戦った。
けれど、戦場は甘いものではない。
無情に、よって来る武田の兵たちによって
負傷兵達が見る見る間に殺され。
それを背負っていた兵が、巻き添えを食って槍で串刺しになる。
負傷しておらぬ兵は、抱えていた負傷兵を地面に投げ出し
いつの間にか五十名程いた手勢は、両手で足りるほどとなっていた。
そうして今もまた、横道から現れた武田の兵、十名が義子たちへと襲い掛かる。

「ぎ、ぃっ……あ」
槍で貫かれた北条の兵が、断末魔の叫びを上げて事切れた。
横道から現れた武田の兵に反応し切れなかった彼は
刀を振り上げる前の中途半端な動作のまま、あっけなく死んだ。
本陣まではあと少し。
けれど武田信玄撤退の報に沸く武田の兵士達は
士気高く、北条、そして今川の兵たちを屠ろうと爛々と目を輝かせている。
………あと、少しなのに。
身も知らぬ他人同士である義子と撤退をともに行なう兵たちだが
危地においてともに行動していることによって
僅かに、奇妙な連帯感、親近感が彼女らには生まれていた。
生きて帰りたい。
その願いを胸にともに進んできた兵が、また一人死ぬ。
戦場の非道さを味わい、絶望と悲しみにくれる義子を置き去りに
がっくりと槍に身を預ける北条兵から槍を引き抜き
武田兵が殿を勤める義子たちへと狙いを定める。
「戦功がねぎをしょって現れたわ!」
「…………」
何も言う気力がなく、義子は無言で刀を構えた。
うるさいとは思ったが、もう喋ってやるのも鬱陶しかったのだ。
「…甲斐姫、右を。私は左を」
「刀、大丈夫なの?」
「相手から取ります」
ひびのいった刀を未だに使う義子を案じる甲斐姫に、安心をさせようと
きっぱりと言った義子は、彼女に宣言したとおり左に向かって走り出す。
すると、武田の兵たちがそれに一斉に反応したが
少し遅れて右から向かいだした甲斐姫に、半分の者がそちらに向かった。
「小娘がっよいかもよ」
「………」
無言。無言。無言。
無言のうちに、一番近い相手に駆け寄り、鎧の隙間を縫って、右腕の間接部分へと刀を突き立てる。
「いぎゃぁ?!」
それに相手が悲鳴を上げひるんだ隙に、義子は相手の腰から刀を奪い
鞘から抜かぬまま、思い切り武田兵の喉へと突き立てた。
すると、相手の男は喉を突かれた衝撃で呼吸が止まり崩れ落ちる。
そこをひびのいった刀を首筋に突き立てることで絶命させ
後ろから忍び寄ってきた男の振り下ろす槍から、横向きに飛んで身をかわした。
十名。
それを五・五の計算で片付けようとしていた義子だが
無論、健在な北条の兵も居る。
彼らは計算外に良く働き、四名の武田兵を背後で討ち取ったようだった。
そうして、甲斐姫もまた一人討ち取ったようで、あと四名。
「一人を囲み、全員で討ち取れ。離れて手柄を立てようとは思うな」
そうなってしまえば数は勝るとはいえ
なにしろ相手は士気高く、こちらは青色吐息である。
常の戦場であれば、卑怯といわれるかもしれないことを指示して
義子は持った刀を残った武田兵達へと向ける。
「…死んでやるつもりはさらさらない。
だから、お前達に死んでいただきたい」
「ふざけるな、手柄となるのはお前の方だ!」
仲間を殺されているというのに、未だ侮った様子の武田兵のその言葉に
義子はそうだよなぁと、思った。
そうだよなぁ、死んでくれって言われて死にたかないよな。
いや全くその通り。
向こうで一人、北条の兵が死んだのが見えた。
逃げているときに、先頭を行っていたものだ。
必死の形相で、死にたくないと時折呟いているのが
義子の耳にも聞こえたから、印象深く覚えている。
そうだ、彼も、死にたくはなかったはずだ。
そうして、義子も、相手も死にたくはない。
だけれど、どちらかは死ななくてはならない。
義子は逃げたいけれど、相手は逃がす気はなく
相手は義子を殺して手柄を上げるつもりで、義子は殺されたくはないからだ。
欲望と生存本能、この場にあるのはそれだけで
義子はまったくもってと口の端を上げて軽く笑む。
「下が上の鏡なのか、それとも上は上、下は下という事なのか」
刀を握りなおすと、真田幸村の槍を受けたせいか、二の腕と肋骨が酷く痛んだ。
が、それに顔をしかめている暇はない。
義子を狙い、武田兵が刀を振り上げる。
それを体をひねって交わしたと思った義子だが
後ろにもう一人いたらしく、背後から槍の柄を腹にまともに喰らって横に吹っ飛ぶ。
「が、っげっほ…!!」
痛い。
さらに肋骨が痛んだ。
腹の奥がずきずきとした痛みを訴えてくる。
けれどここでそれに折れてしまえば、もう痛みも感じられなくなってしまう。
武田の兵の向こう側で、甲斐姫が奮戦しているのが目に入ったが
彼女も大分苦戦しているようで、腕からは血が流れていた。
「けほっ………」
刀を支えに立ちあがり、義子は奪った刀を鞘から抜いて、ふぅと息を吐いて
気持ちを落ち着ける。
諦めたら楽になれる。
けれど、それは出来ない。
生きたい。
「必死は殺さるべきなり。必生は虜にさるべきなり。忿速は侮らるべきなり」
だから、生きるための最善の努力を。
いつでもそうしてきたことを、今回もする。


―必死は殺さるべきなり

必死になり過ぎる者は危うい。
心のゆとりを殺してしまえば、大局の判断もできず、犬死をする。

―必生は虜にさるべきなり

生に執着しすぎる者は、危うい。
生に執着する余りに臆病になり、卑怯なふるまいをした挙句に
捕虜にされてしまう。

―忿速は侮らるべきなり

苛立つ者は危ない。
怒りをすぐに覚えるような者は、部下からも敵からも
足元を見透かされる。


義子に今欠けているそれを口に出し、彼女はすぅと、目を眇めた。
相手を殺す。
殺して本陣までたどり着く。

痛む体をそれでも支え、義子は武田の兵へと一直線にひた走る。
相手は二人。残りの二人は兵と、甲斐姫が相手取っている。
義子が相手をするべき敵の内訳は、刀が一人に槍が一人。
まずは、間合いの長い槍を仕留め、その後刀だ。
そう決めて、義子はわざと刀の方を一直に見た。
するとそちらに向かうと勘違いした彼らはそういう気構えで義子を迎えようとする、が。
一撃で決めなければ、人数・体格・力、全てで劣る義子に勝機は無い。
義子は男たちの前でぎゃりっと音を立てて急停止すると
軸で無い方の足で、地面を思い切りけり上げた。
「なっ!」
すると土煙が上がり、狙い通り目に入ったらしい男たちは一瞬だけ怯む。
その一瞬を見逃さず、義子は刀を思い切り、槍の男の眉間へと刺し入れた。
「はぁあ!!」
ごりっと、頭蓋骨の硬い感触が手に伝わり、刀が槍の男の頭を突きぬけ
向こう側から覗く。
それを視認して、刀を引き抜こうとした義子だが………抜けない。
頭蓋を貫通した刀は、その頭蓋に動きを止められているようで
引っ張ったところでぴくりとも動きはしなかった。
ぞわっと、義子の背筋を寒気が駆ける。
……武器が、無くなった。
ひびのいった刀は、先に殺した兵の所に放り捨てた。
で、あるならば。
義子の持った武器は、もう、ない。
焦りと恐れが義子の体を支配して、尚もがちがちと刀を引き抜こうとしていた義子だが
ふいに腹部に熱さを感じて下を見る。
…先ほど、自分が刺した槍兵と同じように、義子の腹から白銀の刀が突き出していた。
「あ、ぎっああああ!!」
一拍遅れて状況を把握した途端、途方もない痛みが義子を襲う。
痛い、熱い、苦しい。
悲鳴をあげ、のたうちまわる義子の背後で、耳障りな笑い声が上がった。
「あはははは、ざまあみろ、子供のくせに俺の、俺の仲間を殺すから!!」
先に、手を出してきたのはお前らだろう。
言ってやりたいが、痛すぎて言葉が出ない。
痛い、いたい、いたい、よぅ。
腹を貫通した刀が引き抜かれ、更に腹部が痛むようになる。
けれど、そう。
武田の兵は、そうして痛いと思っている義子を見下ろして
やはりけたたましい笑いを上げながら、刀を振り上げて。
……………。
………痛い。
その光景を見ながら、義子が思うのはそれだけだ。
痛い、痛い、痛くて何も考えられない。
自分が殺してきた人間たちも、このような痛みを味わっていたのか。
そうか、それは、義子が一撃与えると、次の一撃が簡単に決まるわけだ。
だって、こんなにも痛い。
尋常でない、今までの人生で味わってきた苦痛を何倍にも濃くしたような痛みに
義子の思考は停止した。
ゆっくりと、刀が振り下ろされる。
その狙いは脳天に定まっており、あれに当たれば確実に死ぬだろうことは予測がついた。
…あれに当たると、もっと、痛いのかな。
当然だよね、死ぬんだから。
白銀の刀が迫る。
真っ直ぐに振り下ろされるそれに当たって、そうして義子は楽になって
義子姫…義子!!」
けれど、それは許されなかった。
甲斐姫の悲鳴が空気を切り裂き、義子の耳を揺さぶる。
そうして一度瞬きをした後、目に映る光景は先ほどまでとはまったく違って見えた。
男が刀を振り下ろしている、危ない。
避けなければ。
なぜ避けなかったのだろうか。
ぼんやりとしていたのだ。
そう、初めての刀傷に、ぼんやりと。
…………なにをぼうっとしていた!ふざけるな、死にたくないのだろう、義子!!
そうして、その甲斐姫の悲鳴に正気を取り戻した義子は反射的に
刀を振り下ろす男のがらあきとなった胴体へと体当たりをした。
「ぐぅっ!!」
「がっ!」
まさか反撃が来るとは思っていなかった男が頭をしたたかに地面に打ち付け短い悲鳴を上げ
腹部に傷を負った義子も襲い来る痛みに歯を食いしばる。
体当たりをした時に、刀を手放した男は、それに気づかず
馬乗りの体勢になった義子へと手を振り上げたが、その手が当たる前に義子
男の両目へと指を突き刺した。
「いっぎぃああああ!!」
凄まじい悲鳴が場に響く。
男は苦悶の表情でのたうちまわろうとしたが、義子はそれを許さない。
馬乗りになったまま、眉間を殴り、米神を打ち、喉を拳で突いて
男に更に悲鳴を上げさせる。
鬼気迫る表情で義子は男の喉を殴打し続け、そうして、気がついたころには
男はぴくりとも動かなくなっていた。
「……………」
男の息がないのを手のひらを口に当て確認して、義子は男の上から立ち退く。
…あぁ、良かった。死なずに済んで。
もう思う所はそれしかない。
腹部は痛いけれど、死なない為には一刻も早く本陣への撤退を。
義子は据わった目をして周囲を見渡し、武田兵が全員死んでいるのを
安堵の感情で眺めた。
そうして、痛みによって残存兵を見逃しているかもしれないと、甲斐姫へと声をかける。
「…………敵兵は。姿はありますか、甲斐姫」
「ない、け、ど。…あんた」
信じられないようなものを見る目で甲斐姫が言ったが、義子はその彼女の様子を気にすることなく
黙って一つ頷き、本陣の方向をすっと指さした。
「………では、本陣へ帰還します。生きている方は続いてください」
……………目の前で、ある意味で凄まじい戦いをした義子に気圧され
甲斐姫も、兵たちも頷くことすらできず。
先陣を切って歩きだした彼女へと、ただ黙って従うのであった。