時は少し戻る。
どのぐらい戻るかと言えば、氏真が義子の願いどおり、真田幸村の前から退いた程度、前だ。

義子の渾身の願いを請け、真田幸村の前から撤退した氏真だが
その心中に宿るのは、安堵で無く深い後悔と怒りだった。
幼い義妹を自分の身代りに、おめおめと長らえる。
無論、家のことを思えば氏真が死ぬわけにはいかない。
義子の行動は正しく、氏真の行動は最善だ。
だから氏真は義子を逃がそうとしていたのを思いなおして、退いた。
だが、これで良いはずもない。
良いはずもない。
氏真はやる気が無く、面倒くさがりで、死ぬこともどうとは思わぬが
今川の家だけは残したいという願いを持っている。
むしろ、それだけしかない。
が、それは幼い義妹を犠牲にして果たすようなものか?
否。
否否否!
それは決して認められない。
認めていいものではない。
義子を左の車輪にと望んだのは氏真だ。
氏真が望まなければ、義子は戦場に立たず、あぁして危機に陥ることもなかったはずだ。
ならば、氏真には義子を助ける責任があり、義務がある。
今度ばかりは面倒とすらも思わず、面倒とすら、感じない。
………義子を、幼い少女を戦場に引っ張り出す道を選んだ時から
氏真は決めていたことがある。
幼い少女を戦場に引っ張り出すのは、自分の欲望ゆえだ。
一人は寂しい一人は嫌だ、だから、誰かにいてほしい。
そうして、その相手に選んだ人間は、今川の家を潰す道でないのなら
氏真が責任を持って、助けると。
袈裟切りにされた傷からは血が絶えず流れ、止まる気配もないが気にもならない。
「居たぞ、今川氏真だ!討取れ、討取れ!!」
「………あぁ、丁度いい」
低く低くつぶやいて、氏真は馬に乗って駆け、自分へと向かってくる将へと手を伸ばし。
刀を持ったその将の腕を掴んで、馬から引きずりおろして地面へと叩きつける。
早い速度で駆けてきた馬に乗った武将を引きずりおろしたのだから
腕が奇妙な方向に曲がったが、まぁ、いい。
問題ない。
氏真はぴくりとも動かなくなった将から刀を奪い
背中の重みが無くなったことに戸惑い立ちすくんだ馬の手綱に手を伸ばしその背へと乗った。
馬は一連の流れについていけないように、きょときょとと頭を左右に振っていたが
氏真が手綱を引くと、嘶きを上げて颯爽と駆けだす。
それを巧みに失血を続ける体で操ると、北条の鎧を身に付けた集団を視界に捉え
そちらへと一目散に駆け寄った。
すると、同じように武田の兵もその一団を見つけたようで
全力で北条方の兵に攻め寄ろうとしていたので、氏真は無言で馬を向け
武田の兵を一目散に馬で跳ね飛ばした。
ただし、自分はその衝撃には耐えられまいと思ったので
直前でひらりと馬から飛び降りて、だ。
………袈裟切りにされた傷から、噴水のように血が飛び出たが
まぁ、問題あるまい。
それと、内臓も僅かに飛び出てしまったようだが、こちらもまぁ、問題なかろう。
問題あることを、問題ないことにしてしまっていると
北条の一団が、氏真に気がついたようで一斉にこちらが注視される気配がする。
「あ、あんた!」
耳に届く特徴的な女の声に、北条の一団は甲斐姫の指揮するものであったかと気がついて
顔をほころばせながら氏真は迷わず刀を振るい、まだ動く様子の武田兵、その息の根を止めた。
…顔をほころばせている氏真の頬に、びしゃりと武田兵の返り血が飛び、彼を朱に染める。
その返り血を手で拭いながら、氏真はゆっくりと振り向いて。
「…救援を求めたいのだが、よろしいかな」
返り血を浴び、自らも血を流し、袈裟切りにされている傷が見え
腕は捩じれ曲がり折れ、その状態でなお、いつものように微笑む氏真を
その北条の一団と甲斐姫は、鬼神のようであると、戦慄を覚えた。



………ここまでが、義子と真田幸村が、一合目の刃を交わしたまでの
出来事であり、そうして、場面は再び彼らの元へと戻る。