氏真が、地面に転がった。
刀が折れて、離れた場所に突き刺さるのが、スローモーションで見える。
だから、槍が、氏真の体を袈裟切りにして、彼の体から血が噴き出したのも、見えた。
「あ、に」
「………お強い人だ」
「ここで、褒められてもね」
袈裟切りにされて、痛くないはずは無かろうに
いつもの調子で、いつものように、義兄が言う。
その体からみるみるまに、血が流れ出す。
その失血の様子から、傷はまだ浅く、致命傷ではないことが知れたが
けれど、それも時間の問題だ。
あの傷では刀もろくに握れまい。
そうなれば、氏真は幸村の手にかかって死ぬしかない。
だのに。生命にこだわらない彼らしく、褒められてもと言う表情は
日常にいるように穏やかで、義子は自分の唇が震えるのを感じた。
…義兄が、死ぬ。
氏真が、死ぬ。
いつでも嫌というほどそばにあった氏真が死んでいなくなる。
殺すのはあの赤鎧の真田幸村だ。
彼はなぜ義兄を殺す、氏真を殺す。
王道のためだ。
王道とは何か。
武田信玄の言葉だ。
彼はお館さまの王道のためだと言った。
そのために人を殺すと言った。
世を平たくするためお館さまが王道を布く、そのために北条を獲り、天下を統一すると言った。
そんな、曖昧な、事のために、氏真が、死ぬ。
北条をとって武田は何とする。
その北条の屍の元、天下をとっておいて、王道を布き、民を幸せにするというのか。
ここに、こんなにも、人の死体が転がっているというのに!!
義子の眼に映るのは、沢山の人の死体だ。
人が死んでいる。
沢山沢山沢山沢山。
臓物を飛び散らせ、血を流し、眼球を飛び出させ、首を無くし
そうして地面に転がる屍を踏みつけておいて
そのくせお綺麗な顔をして、王道を布くために、義兄を殺すとあの男は言った。
王道が成ればお前の居場所は無いよ?と言った氏真に
私はお館様を信じて戦うのみと、それしか返せなかったくせに。
思考停止のくせにその癖に、自分で考える頭を捨てたくせに、殺すのか、氏真を、義兄を!
「ふざ」
怒りが胸にこみ上げる。
それに頭のどこか冷静な部分が、死ぬぞと耳元で囁いた。
義子は未だ、氏真に勝ったことが無い。
その氏真をあぁ、あっさりと打ち破ったあの真田幸村に、義子が敵うわけは無かった。
死ぬぞ、死ぬぞ、死にたくは無いだろう。
お前は死にたくないから草を食み、死にたくないから今川の養子となった。
そうして、死にたくないから義兄の傍にあって、死にたくないから、氏真の、車輪の申し出を、受けたのだろう?
………死ぬぞ、ここで声を出せば死んでしまうぞ。
鬱陶しい囁きが耳元で聞こえる。
あぁ、うっとう、しい!!
「ふっざ、けんなああああああああ」
それにますますの怒りをこみあげさせて、義子は刀をきつく握って一歩前へと踏み出した。
義子の行動に、氏真を殺すため槍を振り上げていた幸村がこちらを見る。
その彼を真っ直ぐに睨みつけ、彼女はさらに一歩、彼らに近づく。
義子、なにをして」
「兄上はお黙り下さい。
武田が将、真田幸村とお見受けする。
我が名は今川義子。お前が義兄を殺すというのなら
先にこちらを相手してからにしてもらおうか」
刀を構え、義兄を黙らせ、義子は相応の覚悟と怒りを持って真田幸村と相対した。
あぁ、気にいらない気にいらない。
王道などで、人が死ぬのが気に入らない。
その王道とはなんだ。
誰のためのものだ。
武田信玄のためのものだろう。
ならば、王道などというおためごかしの言葉を使わず
お綺麗な面もせず、天下をとりたい欲望のままに人を殺して天下をとると、そう言うが良い。
だから死んでくれ、殺すと。
それが、死にゆく者たちへ、お前らができる唯一だ。
おまけに、それも気にいらぬというのに、目の前のこいつときたら
借り物の言葉で殺しつくすというのだから、到底許せるものではない。
ぎりりと歯を食いしばり、睨みつける義子を見て
幸村が戸惑ったように瞳を揺らす。
いや、事実戸惑っているのだろう。
義子は未だ、身体的には十三なのだ。
しかも女児である。
戦場に立つにはおおよそ相応しくない少女の言葉に、真田幸村は動揺を覚え
若い、若く見える彼女を窘める声で言う。
義子義子殿、あたら若い命を散らすこともないでしょう。ここは」
「うるさい。黙れ。誰がお前の意見を聞いた。
さっさと相手をしろ。お前は本当に腹立たしい」
それに返す、義子の声はにべもない。
…腹立たしい。
彼女がこの赤い清潔さにあふれる侍に覚えるのは、その感情唯一つだ。
それだけを相手に向け、お前の意見など聞く耳もたぬと
はっきりと言えば、真田幸村は瞳を揺らしながらも、氏真から離れ、義子と向かい合う。
「…気は進まないが、その意気やよし。この真田幸村、相手を務めよう」
「だ、そうです。兄上はとっととお逃げくださると、私が助かります」
勝てる見込みは万に一つもない。
その相手に立ち向かう理由は、胸からふつふつと沸く怒りと、それから向こうで転がる義兄の二つだけ。
理由のうちの一つに、ここから立ち去れとそう言えば、彼は予想もつかない言葉を聞いた顔で義子を見た。
義子、お前。死にたくない根性だけが、お前のとりえみたいなもので」
「…それは、褒められているのかけなされているのかどちらでしょう。
だけとはなんです、だけとは」
こんな時でも空気を読まない発言は、もういっそ愛おしい。
聞きおさめとなるかもしれないそれを、しっかりと耳に焼き付け
義子は自重の笑みをその顔に浮かべる。
「だって、仕方ないじゃないですか、兄上」
「仕方がない」
「えぇ、仕方ありません。私、この状況が大変気に入らないのです。
じゃあ、自分でどうにかするしかないではありませんか。そうでしょう」
だから、去れ。
暗にそう言い、義子は氏真に目もくれず、ただ真田幸村だけを視界に捉える。
「しかし、義子
「兄上、今川はあなたがいれば繋がります。
どうぞ、ご無事で」
あっはっはと、戦国に来てから初めての、声を出す笑いを上げながら
義子は義兄に別れの挨拶をした。
おかしかった。
おかしくて仕方なかった。
草まで食べて生き延びたというのに、義子はただのつまらない怒りと氏真への愛着によって
命を落とそうとしている。
これが、笑わずにいられようか。
そうして、その義子の笑いに何かを感じ取ったのか
氏真が体を起こし、立ち上がる。
それを目の端に捉えながら、義子は真田幸村に意識を集中させて、刀を構えなおした。
「………全く良い覚悟です」
「お前に褒められても」
微かに笑いを浮かべてこちらを褒める敵/幸村に、言う礼は持ち合わせていない。
鼻を鳴らして受け流し、義子は相手と自分の戦力差を冷静に分析して
絶望的な結果を受け入れる。
受けられるのは、おそらく一合。
二合目は、義兄が受けたのと同じように刀が、そして自分も、確実に持つまい。
その間に氏真はどこまで逃げられるか。
いや、命を頂戴すると命を受けたと言ったところで、この戦は武田方にとって撤退戦だ。
この場を少し離れさえすれば、真田幸村は武田信玄を追い
勝手に退いてくれるはず。
で、あるならば、義子の役目は既に終わった。
あとは、義兄がおかしな気を起さないことを祈るのみ、だ。
じりりと近寄ってくる死の匂いに、笑うしかない義子
戦場で微笑み相手と相対すという異常をなしえながら
足を動かし、地面を鳴らした。
「では、参る」
「参られよ!」
暫くの間、そうやって相手の出方を探っていた双方だが
先に動いたのは真田幸村だった。
時間が延びればよい義子と違い、彼は武田信玄を追い守らねばならぬ身。
余裕のない彼を、その場にて待ち受け刀を頭上で構える。
持って一合。
ならば、一合は持たせてみせる。
足に力を入れ、歯を噛みしめ、槍を振り上げる幸村を待ち構える義子の腕を
激しい衝撃が襲った。
「くぅぅ!!」
幸村の槍が、刀に当ったのだ。
義子の予見通り、刀は、その刀身にひび割れを入れ
確実に次は無い様相になってしまっている。
そうして、義子の方も、襲った激しい衝撃に食いしばっていた奥歯が欠け
腕の感覚がなくなったのが分かった。
いや、それだけでなく、肋骨が、槍を受け止めた瞬間にみしりと軋み
足裏など半分地面に埋まってしまっている。
……痛い、というよりも、じんじんとした鈍い痺れが
全身を支配して、槍を一合受け止めきった義子は、思わずほぅと息を吐いてしまった。
…一合でこれとは、予想はしていたことだが
真田幸村恐るべし。
赤備えに紙のように兵たちが斬られてゆくわけだ、と納得はしたが
それは到底受け入れられるものではない。
この幸村・赤備えによって、どれだけの兵が屠られたことか。
こいつらさえいなければ、武田信玄に追いつけ
もしかしたら仕留められていたかもしれぬというのに。
…赤備えがいたことで、この有様だ。
大した数ではなかったくせに、個人の武勇によって、戦況を彼らはひっくり返してみせた。
それだけでも気にいらぬのに、赤備が個人の武勇を使い、組織の連携を使わなかったのは
使えないのでは無く、使う必要性さえ無かったから。
歴然と横たわる事実に、ますます頭に血を上らせながら
義子は痛みに耐え叫ぶ。
「どれだけ馬鹿力なのです、お前は。一撃で刀にひびを入れるなど!」
「まさか、我が槍を一合受け切るとは」
「馬鹿にしないで頂けませんかっ!」
力を抜き、後退しようとした幸村に、低空蹴りをお見舞いしようとした義子だが
槍が動いたことで足を慌てて引き戻す。
と、義子の足が蹴りあげる予定だった場所に、幸村の槍が鋭く振られた。
危く足が斬られる所であった義子は、ぞっとしない思いに背筋を凍らせたが
そのままぼやぼやとしているわけにもいかない。
ヒビの入った頼りない刀を相手に向け、息を整え体勢を立て直す。
「………時間がありません。次で決めます。どうか、恨まないでいただきたい」
「馬鹿を言う。恨まぬわけがないでしょう」
幸村の頭の中では、義子が死ぬことで確定なわけだ。
それに皮肉でも言ってやろうかと思ったが、確実に死ぬのは自分でもわかるので
何も言うべきことが無い。
…全く。
初めての戦場で死ぬとは、運のないことだ。
視界の中に、氏真の姿が無いことだけを唯一の救いとしながら
義子が一歩前に踏み出し特攻の準備をし。
幸村が、今度は反対にそれを迎撃する構えを見せた所で、状況が、動く。