そうして。
くのいち、ひいては武田信玄の謀略に嵌った今川・北条の一群はといえば。
義子は。
…戦前に、武田の赤備えとは当らぬようにと言った義兄の忠告の意味を、噛みしめていた。
「助けてくれ、死にたくない、死にたくねぇよぉ!!」
「無様なことを言うな、貴様それでも武士か!」
「おらは農民だっ!」
「知らぬ!戦場にて武器を持ったならば、それが武士よ!」
なんとも非情なことを言いながら、また一つ。
命が刈り取られてゆく。
武田信玄を追おうとしてぶち当たったのは、武田の赤備えであった。
義子たちの進軍を阻むように現れた、その数百の小勢は、しかし圧倒的な強さでもって
義子たちの指揮する軍の兵、一人一人の命を奪ってゆく。
助けてくれ、死にたくない。まだ家に残してきた家族がいる。
あの子を置いて死にたくない。殺さないで。
誰が戦なんか起こすんだ。
俺が何をしたっていうんだ。
助けてくれ。
死にたくない。
殺さないで。
あちらこちらで聞こえる悲鳴。
今も、
義子の目の前で一人、
義子たちについてきた北条の兵が赤備えに殺され
てんっと首を地面に落した。
「…………子供か」
「…………」
呟きはそれだけで、もった刀を赤備えが振り上げた。
それに死の匂いを感じて、
義子は体をひきつらせながらも刀を構える。
ある程度、使える人間なら分かるものだ。
相手に勝てるかどうか、自分と、相手の力量差が。
そして、赤備えと
義子の力の差は、かなり絶望的であった。
どのくらいかといえば、池の中に落した針を手探りで見つけるぐらいだろうか。
砂金の一粒でないだけましなのか。
自分の思考に反論をして、どうしようもない気持ちでごくりと唾を飲み
男の攻撃を待つその瞬間。
今度は、赤備えの首がてんっと落ちた。
落したのは、氏真だ。
「
義子、無事かね」
「はい、兄上」
息を切らせて聞く義兄に、
義子はこくんと頷き、死が過ぎ去ったことを喜ぶ。
けれども、死は過ぎ去ったとはいえ、未だ近くにある。
「それは重畳。しかし、状況は絶望的だ」
「………はい」
死が近くにある、その証拠が眼前に広がる状況であった。
連れてきた、数を減らした今川の兵は、見る見る間に更にその数を減らし
農村から徴収されてきた人間たちは、目の前の光景に堪らず戦場から逃げだしている。
生きているこちら側の兵は、もういくらもいなかった。
対して赤備えはといえば、反対にいくらも数を減らしてはおらず、殆どが、健在なのである。
「出鱈目すぎる」
それを視認して漏らした声は、思ったよりも鋭く尖っていた。
出鱈目、過ぎる。
あぁいうものがいたのでは、いくら策をうちたてた所で
まともにあたるのでは意味がない。
奇策、奇襲、卑怯な手段を使って初めて対抗しうるだろう。
そう理解できる相手相手に、この小勢。
全く数が足りぬのだと心底理解して、
義子は出どころの不明な怒りと絶望に襲われた。
それは、おそらくとして奪われるものである弱さの彼女が
圧倒的な力を持つ奪う者に対して覚える反感であり、碌に反抗もできぬことへの虚しさでもある。
死が再度忍びよってくるのを本能的に理解しながら
義子は自らの足ががくがくと震えているのに気がつく。
…山賊退治の時にも、恐ろしいだけでここまでにはならなかったのに。
そうしてそこに気がついてしまえば、手が震えているのにも
歯が鳴りかけているのにも、背中にびっしょりと汗をかいていることにも
義子は気がつかなければならなかった。
…そう、
義子は恐れている。
この目の前の光景を。
人がごみのように死に、躊躇いもなく命が損なわれていく光景のその中に
自分が加わることが、恐ろしい。
怖い、怖い、怖い。
一度恐怖心を自覚してしまえば、もう駄目だった。
恐れと絶望だけが
義子の心を支配して、彼女は立ちすくんで動けなくなる。
それは、戦国時代に来てより常に動いてきた、動かざるを得なかった彼女が
初めて立ち止まらされた瞬間であった。
「……
義子、お前はお下がり」
「え」
そうして、立ちすくむだけの
義子を見てとった氏真は
彼女に優しくそう告げる。
それに短く声を上げ、正気を
義子が取り戻そうとした時
赤備えが、動いた。
太鼓の音と共に、法螺貝が聞こえ、…進軍してくるかと思われた赤備えは
撤退をしてゆく。
助かったのか?
一瞬はそう思った
義子だが、どうやらそれとはまた違うらしかった。
赤備えは、一人の若武者を残して武田信玄が撤退しているらしい方角へと進んでゆく。
その若武者を捉えた瞬間に、氏真の表情が嫌そうに歪んだ。
「…真田、幸村か」
「お久しぶりですね。氏真殿」
「お久しぶりたくなかったのだけれどね、私は。
お前もお退き、幸村。お前の居場所はここではないだろう」
しっしと手を振って相手を追い払おうとする氏真は常通りだ。
けれどもその動作の中に若干の焦りと苛立ちを敏感に感じ取り
そうして
義子は、氏真の呼んだ若武者の名に、文字通り血の気の引く音を聞く。
…真田幸村。
武田の若き猛将。
赤備えの中でも、一際武勇に優れたる、天下無双と名高い兵。
そうして、その兵は手に持った槍を鋭く構え
「生憎と。私にもお館様の命が下っております。
今川氏真殿。お館様の王道のため、その命、頂戴する」
絶望を覚えるようなことを言った。
それに危く刀を取り落としそうになるほど動揺する
義子だが
対して氏真は苛立たしそうに片眉をあげ、真田幸村へと話しかける。
「また、お館様の命で、お館様の王道かね、真田よ。
お前はいつでも変わらないねぇ。変わらぬことは良いこともあるが
お前のそれは害悪であるよ」
「氏真殿は、いつもそう言われるが、私には何が害悪なのかが分からないのですが」
「ふむ。そうかね。それは残念だ。
私はいつもいつも言っているのだがね。
お前の言うお館様の王道を敷いた場合、お前たち武士の居場所は無くなるのだよと」
「そうして、私はいつもこう答えさせていただいております。
それでも、私はお館様の王道を信じて戦うのみ、と」
きっぱりと真田幸村は言いきった。
その言葉の端々からは、お館様、武田信玄公のことを信じて疑わない無二の信頼が窺い知れる。
けれど、氏真はその言葉にますますの苛立ちを募らせたようで
「もっと直接的に言おうか。王道が成れば、武田信玄公の傍に、いや、世の中にお前の居場所は無いよ?
泰平の世において、優れた武勇を持つだけの者など無用だからね」
きっぱりと、厳しい言葉でもって真田幸村に対して言った。
その内容は、それはそうだと思えるもので
義子は状況も忘れて真田幸村が何と反論するのか、固唾を呑んで待ったのだけれど。
「…それでも、です。それでも私はお館様を信じて戦うのみ」
真田幸村の答えは、大層、
義子の気にいらぬものであった。
………それは、思考停止というのだ、若武者。
恐れも忘れて、今川
義子は真田幸村の顔を見た。
整った顔立ちをした、清潔さのある若武者。
なるほど、彼は強いのだろう。
とてもとても
義子は彼には敵いそうもない。
先ほどのあの赤備えと相対して勝つ可能性が、池の中に落した針を手探りで見つけるぐらいなら
彼に勝つ可能性は、日本のどこかに落した氷の一欠けらを一瞬のうちに見つけるようなものだ。
けれど、お前、それは。
そこで初めて義兄がどうしてああも苛立たしげだったのか
その理由を理解して、
義子はほんの少しの息を吐く。
これは、この若武者は駄目だ。
いけない、いただけない。
他人を信じるのは良い。
尽くすのも良い。
けれども、お前、信じているという言葉の元
全ての判断思考を他人に丸投げするのは駄目だ。
それは大変に楽かもしれないが、そんな堕落した人間に殺される人間が哀れで痛ましい。
…まぁ、要するにそれはこれからの我々であるのだけれど。
腰が抜けたか、もしくは怪我人、それだけを残して
義子と氏真以外が無くなった戦場で、
義子は考え到って絶望してため息をつきたくなった。
…
義子の横には義兄がいる。
義兄は、未だ大した怪我もなく健在。
そして
義子の方も、義兄が守ってくれたおかげと、前線には突っ込まなかったおかげで
そこまでの怪我はない。
けれど、そのような状態の兄妹が揃ってかかっても
真田幸村という武人には勝てる気がしなかった。
それほどまでに、真田幸村は強い。
こいつに殺されるのは、いやだなぁと思いながらも
精いっぱいの抵抗をしようと刀を胸の前へと上げた
義子に
氏真が声をかける。
「
義子」
「はい、何でしょう兄上」
「あのね、さきほどは途中になったけれど、お前はお逃げ」
右からかかれとか、左からかかれとか。
そういう言葉を予想していた
義子は、それを裏切る氏真の言葉に
ただ固まった。
…何を言っているのだ、この人は。
思わず敵が目の前にいることも忘れ、ばっと彼の顔を見ると
氏真はいたく真剣な顔をして、真田幸村の動向をうかがっている。
仕掛けてきたら、すぐに対応できるような状態を維持しながら
氏真は尚も
義子に向かって言葉を紡ぐ。
「いいかい、
義子。真田幸村に捕捉されてしまったからには
もう揃って逃げるのは、無理だ。
だから、お前だけでもお逃げ」
「兄上、兄上何を」
何を言われているのか分からなかった。
頭がくらりと傾いで地面に倒れ込みそうになる。
何を言っているのだこの人は。
つまりあれか、自分が相手を押さえておくから
義子に逃げろと。
そういう今日日流行らない自己犠牲の精神で、
義子を助けたいというのかこの人は。
それで、逃げれると、逃げると
義子が思うとでも、思っているのか。
兄上。
すがりついて揺さぶって、馬鹿を言うなと言いたい
義子であったが
状況がそれを許してくれない。
もはや
義子の方を見もせずに、氏真が真田幸村を見据えて、声を上げる。
「さて、では意味もなく価値もない言葉を交わすのは終わりだ、真田幸村。参るぞ」
「はい、氏真殿。参られよ。我が槍でお相手いたそう」
きっぱりという若武者に、負けると思っておらぬ所がまた腹の立つと呟いて
氏真が駆けた。
その迷いの無さに引きとめることもできず唯見送って
義子はその場に立ち尽くす。
本来であれば加勢するべきなのだろうが、
義子の腕ではただ足手まといになるのが目に見えている。
けれど、逃げるのは、嫌だ。
死にたくないという気持ちは十二分にある。
草を食んで生きていた
義子だ、死にたくない。絶対に、死にたくはない。
だが、それ以上に負けたくないのだ。
義兄を置いて逃げる、それは
義子が完全に負けてしまったことを意味する。
義子は右の車輪を務める義兄から、左の車輪を務めてくれと請われて頷いた。
であるのなら、逃げることは、それから逃げることで
先ほども思った通りに、それは責任を負わずただふらりふらりとしている根無し草と一緒で。
あぁ、とにかくそれは
義子は気にいらないのだ、酷く、強く、絶対に!
かかることもできず、逃げることもできず。
見守る
義子の目の前で戦いが始まった。
やはり真田幸村の実力の方がいくらも上のようで
氏真が、氏真と稽古する
義子の側のように、簡単にあしらわれて槍を何度も食らいそうになる。
それを紙一重で避け続ける氏真の表情は険しい。
「相も変わらぬ武勇だ。戦事を考える知略もある。これで頭があったならば完璧だったというのにね」
「頭はあります。考えた末での答えです、氏真殿」
「そうは私には思えないよっ」
槍が振るわれ、氏真がそれを頭上で受けた。
みしりと音がするように、刀がしなって―持ちこたえる。
刀の様子に、押しきれぬと判断した幸村が槍を引く、その瞬間に
氏真が刀を横に払い、幸村を斬り殺そうとする。
が、けれど相手の方が一枚上手で、幸村は氏真の斬撃を、槍で勢いを殺し打ち払った。
そうすると、刀は弾かれ氏真の横手へと飛ぶ。
「っく」
短く声をあげ、刀を引き戻そうとする氏真だが、間に合わない。
今度は幸村の方が攻勢に出る番で、彼は槍を斜め左上から振り下ろし
勢いよく氏真を斬りつけた。
それを、氏真は身を引いてかわそうとしたが、無理だ。
槍の間合いは広い。
更に氏真は戻した刀で槍を受け流そうとしたが
一合まともに受けたことにより、その耐性に限界をきたしていたのだろう。
刀の上半分がぱきぃんっと、綺麗な音を立てて、宙を舞う。
刀とぶつかったことにより、槍は勢いを多少殺し
そこに、身を引いたことが加わって、多少傷は抑えれたものの
氏真は幸村の槍を食らい、地面に倒れ伏した。
その体から血が流れ出るのを、
義子は蒼白な顔をしながら、視認する。
「あ、に」
……呼ぼうとした声は擦れ、上手く声が出ない。
名前すら呼ぶこともできないまま、義兄の体からは、血がだらりだらりと流れて
地面が赤黒く染まってゆく。
…あぁ、死が近い。
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