砦を攻めた中に、島左近という男の姿は無かった。
物見の話を聞いた伝令から聞くに、甲斐姫と戦闘となり
砦の外へと彼女の勢いのままに連れ出されていったのだという。
狙ったことかどうかは知らないが、思わぬ僥倖である。
勢いに乗り、一息に砦を攻め落とした
義子たちだが
勝利に沸く暇もなく、状況が一変した。
「伝令!!」
北条の旗を背負った使番が、
義子たちの元へと転がり寄ってきて叫ぶ。
「武田信玄、東南に順調に撤退中!至急食いとめられたし!」
「我らだけでは数が心もとない。他は近くには居らぬのか」
「今、ここにいる今川の軍が一番に武田信玄に近うございます」
……………。
その言葉に氏真と
義子が返せたのは、ただの沈黙であった。
今川の軍が北条の要請に応え、兵を出したのは北条と同盟を結んでいたからであるし
薩った峠での援軍の借りがあったからでもある。
けれどそれは二の次で、結局のところ、武田信玄をここで屠り
甲斐・武田の力を削ぐという戦略的な目的の元
今川は北条へと援軍を差し向けたのだ。
だが、それは自分たちが、武田信玄を討ち取るということではなく
ただの北条の手伝い。
北条がより確実に武田信玄を討ち取るのを補助するための兵。
それが、今川兄妹以下四千の兵の役割だ。
…考えても見ろ。
自国を攻められもしていないのに、どうして本気で戦争をせねばならない。
ましてや軍を指揮するのは、今川の跡取り息子とその補佐である。
死ねば、どうしようもない。
死んではならない。
だから、
義子と氏真には、ここで退くという道も残されていた。
が。
…しかし、だ。
それは伝令が北条の兵で無くば。の話であった。
北条の要請に応え兵を出した今川の跡取りが、自分の命惜しさに
撤退する敵総大将を見逃す。
それは仕方がないとも言えることだが、民衆が家臣が、それを聞いて
どう思うかは予想の容易い話だ。
…勝てる戦しかしないのは、大変に素晴らしいことだ。
だけれども、しかし。
今は戦国乱世。
民から、家臣から、大名が求められるのは、ただ強い力である。
他国の侵略から国を守り、安定をもたらす力。
そうして、今ここで兵の数が足りぬからといって退くのは
臆病者の誹りを受け、侮られても仕方がないことで
それは、戦国大名となる者にとっては、致命傷とも言えることであった。
…これが、北条の伝令でなく、今川の伝令であったのならば
握りつぶすこともできようが。
他国の者では金を握らせ口を封じるのも、後が心もとなく
殺して口を封じるのも、難しい。
故に。
氏真は決断を迫られる。
義子ではない。
彼女はそのような権限は持ち合わせてはいなかった。
だけれども、彼女も同じだけの権限を持っていたならば
彼と同じ選択をするだろう。
彼女は頭がよく、氏真も愚かではない。
後に待ち受けるのが何か分かっているから、そのために、彼は選択をする。
…
義子は、氏真の顔を見た。
他の部隊との合流も許されず、この数で武田信玄を追わねばならない。
それは、無謀に等しい。
分かっているから、氏真の顔色はただ蒼白で
義子はそっと義兄の、年下の少年の手に自らの手のひらを重ねた。
「兄上」
…死にたくはないなぁと、思う。
けれども、
義子は選択をした。
選択をしたのならば、その選択に対して
義子は責任を負わねばならない。
生きるというのはそういうことで、選んだ道に対して
無責任であることを
義子は好まない。
だから、逃げない。…逃げずに、いられた。
珍しくも無く動物的でなく人間的に、逃げずに。
本当は、何もかもを放り出して逃げだしてしまいたい気持ちがないといえば
嘘になるのだけれども、意地と根性だけでその場に踏みとどまって
彼女は義兄を、もう一度呼ぶ。
「兄上」
「…………いやぁ、これだから、戦場というものは面倒くさい」
「はい」
「私はね、命が惜しくて躊躇うのでは、ないのだよ」
「はい。分かっております」
…今川氏真は、今川の跡取り息子だ。
命に対してなんら思う所のない氏真が躊躇うのは、そのためだけで
しかし彼は、もしもの時でも今川義元の三男、つまりは自分の弟がまだ居ると決断を、した。
「………皆。今より武田信玄公を追う。使番は急ぎ周りの部隊に知らせを出し
我らの後を追い、武田信玄を討つよう伝えよ」
「はっ」
使番が四人、すぐさま伝令にと駆けてゆく。
その姿を見送って、氏真は知らせを持ってきた北条の使番に
下がるように動作で示すと、颯爽と馬で駆けだした。
その後に続くのは、
義子と、幾人かの武将
そして、北条の混じった今川兵。
その数約、千。
四分の一に数を減らした部隊を率い、
義子たちは駆けてゆく。
その先にあるものが何かも分からず。
そうして、下がるように指示された使番は、そのまま砦を抜けて行き。
…抜け切ったところで使え番服を脱ぎ捨て、目にもとまらぬ速さで走ると
先を行っていた、救援を求める今川の使番の背後へと忍びより
「ばいばーい」
さっくりと。
使番の首筋にくないが突きたてられた。
使番は自らの死も分からず、どすりと重苦しい音を立てて倒れる。
その背後であーあ、よごりちった。と暢気な声を出しているのは
先ほど木の上にいた忍び、くのいちだ。
「…お館様もすんごいこと命令するよねー。
幸村様に足止めをせよ、だなんてさー。武田の赤備えがいくら優秀だって
あれ以上数を行かれたんじゃたまんない。
だから、さ」
ぎりっと歯を食いしばって、くのいちは更に先を行く使番の背中めがけてくないを鋭く投げた。
そのくないは正確無比に使番の背中へと刺さり、彼らをのたうちまわらせる。
微かに彼らの悲鳴が聞こえた気がして、くのいちは眉間にしわを寄せた。
「しらないよぅ。幸村様じゃない人の命なんて、あたし、知らない。
だから、死んでよ。あの人が死んじゃうなんて、あたし耐えらんないんだから」
ぽつねんと、置き去りにされる子供のような声で、彼女は言う。
その脳裏に浮かぶのは、茶色い髪を揺らす姫武者で
だから、もう一度くのいちは、忍びは、知らないよぅと
泣いていないのに、泣いているような声でそう嘯くのだ。
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