三増峠につくと、何故、皆からあのように義兄の傍を離れるなと
忠告を再三されたのか、その理由が義子にも分かった。
…そこには、死があった。
地面のいたるところに死体が転がり、その上を義子たちは行軍しなければならない。
でなければ、隙間がないのだ。
進む隙間がないほどに、人が死に転がっている。
馬で、人の死体を踏みつけ進む。
そのことに一瞬の躊躇いを感じた義子だが、そうしなければならないのだと
自分に言い聞かせて、他の者に倣って彼女は歩みを先へと進めた。
「…思った通りの状況になりやがった。
小倉山砦の氏邦が崩れたら、戦は仕舞いだ。
まずは、 山県昌景とくのいちの小僧を
片付けちまわねえとならねぇ。
風魔、お前は俺と一緒に進んで、小倉山砦の氏邦の救出だ。
成田の小僧。お前は撤退する胡散臭いのをぶちのめす前準備に
武田砦を落とせ。…守りは島左近とかいうのだったはずだ。
氏真、義子。お前らは小僧の手伝いをしてくれ。いいな」
「了解です、叔父上」
「任せてください、お館さま。行こ、義子姫」
「あ、はい。甲斐姫」
濃密な死の匂い。
それに飲まれかけていた義子は甲斐姫の呼びかけに、慌て首を振って頭を正気に戻す。
いけない、ぼうっとしていては。
氏康の命によれば、義子たちは甲斐姫と共に
武田砦を落とせば良いようだ。
誘われるがままに甲斐姫の誘導に従い馬を走らせ出すと
「…やれやれ、私は無視かね…」
氏真がぼやいたのが耳に入る。
それに、同じく耳に届いたらしい甲斐姫が、いや!そういうつもりじゃ!!と大仰な仕草で否定をし
氏真が疑わしい目で彼女を見て、ちらりと、義子の様子を伺う。
………全くこの人だけは。
そこで、ようやく義子は力を抜いて
じゃれていないで行きますよと、いつもの調子で
二人に声をかけることが出来たのだった。


戦場は、人で溢れかえっていた。
二万の軍を率いて攻め入ってきた信玄と、それを追う北条の軍が
峠にて激突をしたのだから、当たり前なのだけれど。
それでも。
視界の端で、武田の兵が北条の兵を槍で突き殺すのが通り過ぎる。
そのまた逆も、反対方向では起こっていて
どこもかしこも殺し合い絶えぬ状況であった。
まさに凄惨。
その言葉がふさわしい状況だ。
老いも若きも皆等しく、敵を殺すことだけを考えて
身分も何もなく命を奪いあっている。
転がる生首、散らばる臓物、上がり続ける悲鳴。
何もかもが山賊退治などとは比べ物にならぬぐらいの
そういう地獄がそこにはあった。
横で、若い、義子と同じぐらいの農村から徴兵されたと思わしき
男の子が袈裟切りに斬られて悲惨な声を上げて、死にたくないといったのが聞こえた。
助けてくれと叫ぶ老人もいた。
「…………」
その地獄を、義子たちは馬でひた駆ける。
目的は一路、武田砦へ。
どれほどの人間が殺し合っていようが、自分が向かえば助けられる人がどれほどいようが
武田の砦へ向かう一群は、わき目も振らずにそこへと走る。
それが、一番に早く戦を終結させられると分かっているからだ。
誰もかれもが殺し合い、誰もかれもが死んでいく。

…王道とは何ぞや。
泰平ならば、今この光景は、何か。

それにしても、戦場を駆け、馬に乗ったまま敵兵を殺す。
甲斐姫は武勇で名が知られるだけあって、鬼のように強かった。
義兄と同じぐらい強い人を初めて見た。
けれど、それを甲斐姫に戦いの合間に言えば、氏康と小太郎は更に強いのだという。
それだから、余計に心配するのか。
大層な心配し具合の理由を更に納得して、それから義子
敵兵を刀で突き殺し、馬で踏んで、更に一人絶命させた。
義子は決して弱くない、が、強くもない。
そういう義子が前線で戦うことに、甲斐姫は微妙な顔をしていたが
すぐにそんな余裕も無くなった。
武田の兵の抵抗が、凄まじいのだ。
道を馬で駆ければ、後から後から湧いてきて
己たちに襲いかかってくる、彼らの心境を推測すれば、こうだ。
これを、乗り切りさえすれば、甲斐に帰れる。
甲斐に帰れれば、また生きていかれる。
生きていくためには、抵抗して、勝たなければならない。
背水の陣に立った、諦めぬものは総じて強いものだ。
おかげで、今川より連れてきた兵たちは
武田の兵によって大分足止めを食い、半分ほどに数を減らしていた。
…少し待てば、まだ数は多かったのかもしれないが
相手の撤退を阻止しなければ、武田信玄を殺し、甲斐武田の力を削ぐという
戦略目標は果たせなくなる。
真なる敵は、武田兵で無く、信玄の撤退を許す、時間。
故に足止めを食う兵たちを見捨て、その総数を減らしながらも
義子たちは最短の時間で武田の砦へとたどり着いた。
幸いにして、武田信玄へと続く道をふさぐ砦の門は脆く
すぐに打ち壊されると判断した中の敵兵たちは
一気に攻め込まれるよりかは、と反対に一気に城門を開き
義子たちへと襲いかかった。
わぁっと声が戦場に木霊し、砦の中より武田兵約三千が飛び出てきて
北条・今川兵へと踊りかかる。
その士気の高さと、それから砦を目前に捉えた瞬間の出来事に
義子たちは固まることもできず、ただ武田兵が紛れこむのを許す。
なんということだ。
完全なる失態。完全なる失敗。
あっというまに紛れ込む武田兵の、幾らかの首をとりはするものの
到底殺しきれる数ではない。
混ざる敵軍自軍の境目がなくなるのに、義子は行儀悪く舌打ちをした。
なんということだ。
…門が開いたことに関しては、良い。
閉じこもられては、余計な時間をとられるだけだ。
それは、義子たちにとってよろしくは無い。
けれども、こうも速攻で門をあけられたのでは
命令をするような時間も無く、策を練る隙間もない。
「やれ、さすがは島左近。見事な手並みだ」
一糸乱れぬ統制で攻め込まれるよりも、乱戦ともなれば数の利は僅かに消える。
混戦になれば、敵味方の区別がつかなくなり、混乱が生まれるのは必至だからだ。
それを即座に選択した敵を、褒める氏真の声が横で聞こえたが
そういう悠長なことは、後回しにしてほしいと義子は真剣に思った。
門が即座に開いたのに、一瞬虚をつかれた北条・今川連合は
むざむざと敵の思惑通りに乱戦に持ち込まれた。
後ろの方までも武田の兵に紛れこまれ、統率もおぼつかない状態では
敵を褒めるのは後回しにしていただきたい。
義子姫、気をつけんのよ!」
「はい、甲斐姫」
声を引き締め叫ぶ甲斐姫に頷き、義子は刀を握り直す。
その義子の様子に満足げな色を彼女は浮かべ、そうして馬を駆って、武田砦の中へと突進した。
「あ」
退きとめる暇もなく、見る見る間に姿を遠ざける甲斐姫の後ろ姿に
短く声を上げた義子だが、彼女にも何か考えがあるに違いない。
将としては、この乱戦、どうにか押さえて統率をして数の利を生かし
敵をたたきつぶしたい所、なのだけれど。
「………兄上、乱戦となれば数の利が生かせぬことは必至。
こうなれば東側に固まった後、武田の砦に一気に攻め込む形を取りとうございます」
馬を攻撃しようとした武田兵の顔面に刀を突きたてながら
進言する義子に、義兄は頷きつつも微妙に困った表情を浮かべ頷いた。
「なるほど。…が、北条の兵に命ずるには、甲斐姫がいなくなってしまったね」
「…………致し方ありません。甲斐姫にも何か考えがあってのことかと」
あぁ、うん。どうかな
そういう声が横から聞こえたけれども、聞こえないふりをした。
将たるもの、何も考えずに突っ込むなどという暴挙を
甲斐姫がしたとは、到底信じたくなかったからだ。
とりあえず、そういうのは無かったことにして。
義子と氏真は目配せを交わすと、同時に馬の腹を蹴り、東側へと走り出す。
「今川の兵は我らに続け!今より武田の砦を踏みつぶす」
「殺されたくない者も続け!武田の砦を潰せば戦の終わりは近いぞ」
叫びながら、混戦の中を突き進む。
馬鹿みたいに人の死んでいる最中を突きぬけることに
義子の臆病な手が震えたが、怯むことこそ死につながる。
義子は手綱を握る手に更に力を込めると、あらん限りの声で叫ぶ。
「死にたくないものは我らに続け!
良いか。この戦、武田信玄の首を取れば終いだ。
そうしてその戦を終わらせる最短が、今そこにある!」
女の甲高い声はよく響く。
怒号と悲鳴の飛び交う戦場においても、また。
義子の叫びは大気を震わせ、思ったよりか広い範囲へと届いた。
その後に続くように備え太鼓が鳴り響く。
そうして、その内容に従うものは、武田の兵を振り切り義子たちへと続き。
北条・今川連合の兵はなんとか体勢を立て直したのだった。
その数は、二千。
四千と、甲斐姫配下の兵を入れての一群が、たったの二千である。
そのはぐれていったうちのいくらかは、未だ混戦の中にあるが
到底待ってはいられない。
「兄上」
「分かっている。全軍、突撃!一挙に砦を落とす!」
氏真の命に従い、貝役が法螺貝を吹いた。
懸太鼓が叩かれ、持ち直した今川と、そうして幾らかの北条を交えた集団は
一挙に武田砦へと攻め込んだのであった。


「…へぇ。あそこから持ち直すんだ。
あの子だけなら楽勝だと思ったのになー」
………そうして、その様子を木の上に立ち見る者が、一人。
可憐な声に苛立ちを含ませ、その影は長い髪の毛を指に巻きつけ、そして吐き捨てるのだ。
「あーあ。あれ、やるのやなんだけどな。あの子だったら、絶対大丈夫だと、思ったのに」
少女にとっては主が全てだ。
その主を失う可能性が高くなるようなことは、したくない。
けれども忍びである少女には、逆らえぬものがあるのもまた事実で。
彼女は顔を歪ませながら、木から飛び降りかき消える。
その後には、少女がいた残滓に、僅かに揺れる木の枝だけが、静かに取り残された。