北条の軍勢と合流した今川の援軍は、そのまま北条氏康と共に
一路、三増峠を目指すこととなった。
合流した北条氏康からの話を聞くと、忍びのもたらした情報は若干古いらしく
既に武田信玄と北条氏邦らとの間で、合戦が始まってしまっているらしい。
「せがれどもじゃあ、あの胡散臭いのを止めようとしても
逆襲を食らうのは分かってる。
その前になんとかしねぇとまずい」
「信用のないことよな」
「山岳戦に長けた信玄、せがれどもの手に負えると思ってんのか、風魔」
茶々を入れた風魔小太郎は、その北条氏康の返しに無言で答えた。
即ち、肯定。
山岳戦に強い信玄相手に、未だ経験の足らぬ「せがれ」どもが
敵うわけがないと、彼もそう思っている。
やれ、やっかいそうだ。…それと戦うのか、自分は。
ここまで警戒される武田信玄相手に、義子が怖気づいていると
後ろから猛烈な勢いで駆けてきて横に並ぶ馬があった。
それに視線をやると、馬には美しい女性が騎乗している。
「あ」
北条の、戦場に立つ美しい女性、が示すものに義子が声を上げると
彼女はにこっと微笑んで
「あんたが義子姫?手紙で書いてあった通り小さいんだ!
私が甲斐姫、手紙ありがとね!」
…………。
ものすごい気安く挨拶された。
快活なその調子に気押されつつ義子
「改めまして、今川の義子です、甲斐姫。噂通りお美しい」
と名乗り返せば、彼女は美しい、のところでパッと顔を輝かせて
義子の背中をばぁんと叩く。
「やだ、小さいくせに上手ね、あんた!でもありがと」
「…いえ、本当のことですから…」
…………今の、このちょっとのやり取りで分かった。
この人、見た目と中身が合ってない。
美しい外見とは裏腹に、がさつと言うか、なんといういか。
馬に乗っている人間を叩くか?普通。
落ちたらどうするんだと思いつつ、義子は顔をひきつらせて笑う。
なんていうか、なぁ。
黙っていれば花のようだというのに、口を開けば少年のよう、に印象が変わってしまう女性相手に
何を言おうかと義子が思っていると、先に彼女がそれにしてもと口火を切る。
「あんた、そんなに小さいのに戦うの?大丈夫?」
「はい。山賊討伐には何度か行きましたし、兄上もおりますから」
「…山賊討伐、かぁ…………」
心配をしていくれる甲斐姫を相手に、安心させようと自らの経験を語った義子だったが
甲斐姫は難しい顔をして黙りこんでしまった。
そりゃあ、なにもないよりかはましだけど、さぁ。と言うのを聞くに
彼女にとって山賊討伐ではまだ、戦場に立つのには足りぬらしい。
甲斐姫は不安げな様子で、義子を見て、前方で氏康と話す氏真を見
そうして、言うのだ。
「あのさ、お兄さんの傍、離れちゃだめよ、ゼッタイ。
初めての戦は誰にもあるけど、よりによって相手が武田信玄公なんだから
ゼッタイ、ゼッタイ、油断しちゃだめ。
あんたのこと守れなかったら、きっとお兄さん、凄い後悔するんだから」
酷い脅し文句だ。
これから戦場に出向くもの相手に言う言葉とは思えない、脅すような言葉。
けれどその言葉が、会って間もない子供に心の底からかける言葉だから
義子は義兄にしたのと同じように、頷き、素直に言葉を受け止める。
「…ありがとうございます、甲斐姫。あなたの忠言、胸によく留め置きます。
あなたは、心の優しい人ですね」
よく知らない子供相手に、ここまで心の砕ける、がさつだけれど綺麗な人に
義子はふんわり微笑んで礼を言う。
何の下心も裏もない親切は、やはり受けると嬉しい。
だから、戦国の世に来てから、ついぞ見せたこともないような顔で言ったのに
甲斐姫は眉間にしわを寄せてしょっぱい顔をした。
…なぜ。
「………あんた」
「……はい」
「すごい子供らしくない」
「……えぇ、はい。それはよく言われます」
そりゃあそうだろう、大人だもの。
戦国の世に来る前から二十歳超えをしていたのだ、子供っぽいほうが恐ろしい。
口に出せたら楽な言葉を飲み込んで、仕方なく肯定する義子の頬を
甲斐姫は眉間にしわを寄せたまま突っつく。
「あのさぁ、もうちょっとこう、楽にした方が良いんじゃないの?
子供なんだし、もうちょっと子供らしくっていうか」
「やめておけ。その藁はそれが素だ。うぬと違って」
馬に乗って駆けたまま、頬を突っつく甲斐姫は器用だと思うが
どうしたものかと義子が困っていると、横やりを風魔が入れてきた。
「…ちょっと、どういうことよ。一見聞いてりゃどうでも良さそうな言葉だけど
今の私のこと馬鹿にしたでしょ、あんた」
「どうかな。うぬがそう聞こえたのならば、そうやも知れぬ」
「むっかあああああ!!あんたどうしていっつもそうなのよ!」
「くく、さて、な」
肩をすくめる風魔の様子は、誰がどう見ても楽しそうだ。
どう考えても遊んでいる、こいつ。
しかし甲斐姫はそれに気が付いていないらしく
ぽっぽと頭から湯気を出しそうな調子でぎゃんぎゃんとわめく。
その光景と、周りの空気にこれがいつものことなのだと気がついたが、さて。
いい加減黙らせないと、氏康から文句が飛んでくるのではないかな。
氏真と何事かを真剣に尚も話し込んでいる様子の前方を伺い
義子は無駄だと思いつつも、仕方なく二人に割って入った。
「………………風魔殿、戦前です。
甲斐姫をからかって遊ぶのはやめていただきたい。
あなたは、いつもいつも性格がくそ意地悪い」
「何のことか、分からぬな」
義子の諌めの言葉に、風魔小太郎は平気で嘯きそらとぼける。
「…あなたという人は。手紙の件にしてもそうですけど、周囲を玩具にして
退屈しのぎをしないで下さい」
「そうよそうよ!義子姫、よく言ったわ!
こいつときたらいつもいつもいつもいつも
人を小馬鹿にしたようなこと言って!
いつかゼーッタイぎゃふんといわせてやるって
私ずぅっと思ってんのよ!
……………………ん?手紙?」
呆れの表情で風魔を見る義子
義子の言葉に引っかかりを感じて、ん?という顔をする甲斐姫。
その二人の様子を可笑しそうに眺める小太郎。
三者三様の表情を浮かべながら、実に和やかな空気を醸し出しているその一角。
けれども、その様子に気がついた氏康と氏真が、揃って呆れた表情をして
氏康が動いたその瞬間。
ゆるやかに、風が吹いた。
夏の風は生暖かく、ぬるい空気に義子が顔をしかめた所で
ぱらぱらと上から何かが降ってくる。
「……??灰?」
頭の上、腕、足にどんどんと降る灰に義子がきょとんとしていると
前方で氏真が氏康に向かって、文句をたれる。
「あの、叔父上。注意をしようと思って灰を降らすのは良いですが
うちの妹だけにかけるのは、止めていただけませんか。
可哀そうではないですか」
「悪い。成田の小僧と風魔にかけるつもりだったんだが、風が吹いたもんでな」
「………あぁ…。そういう。別に良いのですけど」
片手を上げ、義子に謝る仕草をする氏康に、降ってきた灰を落としながら義子
氏康が相手では怒るに怒れず、というか、そもそも怒るほどでもないので
ぱたぱたと灰を落として終わらせる。
が、それではすまないようなのは横にいる甲斐姫で
彼女は義子の頭につもった灰を落としてくれながら
「お館さま、ひどっ!」
「おい、元はと言えばお前らがぎゃいぎゃい騒いでんのが悪いんだろうが。
風魔、てめえもだ。なに一人で我関せず顔をしてやがる」
「さあ、我が何かしたか。氏康」
どういう厚顔だ。
元凶でありながら、知らぬ顔をするという偉業を達成した風魔は
そのまま木の上に飛んで、義子達の視界から消えた。
…逃げやがった。
一同の胸に去来するのは、やりようのない微妙な感情である。
ひっかきまわすだけひっかきまわして、あの野郎。
しかし、逃げたものは仕方がないので、氏康がごほんと、咳払いをして
空気を一変させた。
「今川氏真、今川義子。改めて、今川からの援軍感謝するぜ」
「なに、氏康叔父上。薩った峠での借りを返しているだけにすぎませぬ」
「ですが、もったいないお言葉、ありがたく頂戴させていただきます」
「………相変わらず、お前は固いな」
氏真の言葉を引き継ぎ、堅苦しく締める義子に呆れにも似た表情を向けて
それから、さてと氏康は甲斐姫、義子、氏真の顔を見回し
最後に木の上を走る小太郎がいるであろう方へと視線を向ける。
「今川兄妹。再度言うが、小田原から撤退した信玄の野郎は
三増峠でうちのせがれどもと、先ほどから交戦中らしい。
だとすると、俺たちがついた頃にはせがれどもは苦戦中の立ち往生。
と、なっている可能性が大いにありやがる。というか、ほぼ多分そうだ。
忍び、斥候に様子を探らせはするが、そういう心構えで向かいやがれ。
小僧も、風魔も、良いな」
言った氏康の言葉に、即座に全員が反応をした。
「わっかりました、お館さま!」
「了解です、叔父上」
「はい」
離れた小太郎は、木の枝を揺らすことでそれに答えた。
そうして、その四人の答えに満足げに頷いた氏康は
ひたっと、義子に目を合わせて、言うのだ。
「…それで、義子。お前は今日が初陣だったな」
「あ、はい。そうですが」
突然に水を向けられ、一瞬の戸惑いが生まれたものの
即時に頷き氏康の問いを肯定すると、氏康は顔をしかめてふっと息を吐く。
その表情は、義子を憐れんでいるようでもあったし
何かに怒りを覚えているようでもあった。
「よりにもよって、こんな戦を初陣にさせるあの義兄のド阿呆さにゃ
頭が下がるが、それとは関係なく、だ。
義子。お前は義兄の傍を離れるな。絶対に、離れるな。分かったか」
繰り返される、義兄の傍にいろという指示。
それに対して義子の背中をつぅっと汗が伝った。
……一体、どれほどまでに。
出立して以来何度も繰り返し抱いた考えを、また頭に過ぎらせた所で
義子の耳に、静かに声が響く。
「氏康の言うとおりにせよ。でなくば、壊れるのはうぬよ」
よりにもよって、風魔小太郎にまで忠告されてしまった義子
恐怖に指先を震わせつつ、こっくりと氏康と風魔と、それから甲斐姫へと向かって頷くのだった。