後から思い起こせば、この頃義子は事がうまく運んでいて、慢心していたのだと自分で思う。

「洞窟の中で戦うのは避けたい。で、あるならば今回は洞窟の外が風下になりますから
煙を使って燻し出すこともできませんので、洞窟の入り口を崩落させてやりましょう。
火薬玉の準備を」
「はっ!」
手を振り上げ指示をする。
すると、兵が忠実に従い、洞窟の入口へと火薬玉を仕掛け
義子たちは戦わずして山賊退治を成功させた。
三度の討伐を経て、補佐にと望まれるに相応しいと周囲に認めさせた義子だが
力は『示した』、のでは足りない。示し続けなくては、ならないのだ。
そういう事情で此度も討伐へと向かわされたのだが、一度勇猛であると認めさせたのならば
正面を切って戦う必要性もない。
それならば義子であるから、死ぬ危険性のある道よりも、確実に死なない方の道を選ぶ。
そうして、彼女は討伐戦において、戦うことなく相手を殺す。
という戦法で先の討伐戦と同じく三勝をおさめ、計六勝。
知略にも優れる。という評価を更に手に入れていた。

順調にいきすぎていて怖い。
揺り返しが来るのではないかという思いが胸中に生まれるのを止められず
義子は不安な気持ちを抱えながら、馬から降りて、馬番へと手綱を渡す。
「………」
上手く、行き過ぎている。
夏も近くなったせいか、収穫前の作物を狙い略奪を繰り返していた賊たちを
退治し終わった義子は空を見上げて、そう思う。
義子は、現代にいた頃一般人であった。
人を殺したこともなく、人から殺されかけたこともない。
その義子が六勝を賊からおさめ、未だ無傷と言うのは
天運を使い果たしていっているような気がしてならなかった。
しかも、これで義子に武芸ごとの天賦の才が、とかいうのならば
話は分かるのだけれども、義子はそこまで強くない。
いや、日がな一日鍛錬できる環境と、強い指南役を持つおかげで
同い年足す三年ぐらいの武家の男子、そこらの雑兵、よりかは強いのだけど。
それでも、名の知れた武将なら四分も持たず、義兄相手なら二分も持たない。
義子の実力はそう言ったものであった。
それなのに、未だ傷一つも負わないとは。
六戦の内三戦は、戦っていないのだからそのせいだろうか。
思いながらも不安に思う気持ちは止められない。
ふぅっと、ため息をついて己の手を見た義子、その瞬間。
義子
後ろから声をかけられる。
兄上であると声を聞いて分かった義子はパッと振り向いたが
後ろにいた氏真は、いつものような飄々とした表情で無く、固い顔で
義子を見てこう言った。
「…義子、北条の小田原城が攻められた。敵は武田信玄。
我らは先の戦いの返礼をしに、北条へと向かう。
…お前も、ついてきなさい」
………この時にそうか、とうとうか。としか思わなかった、それこそが、義子の慢心であった。
彼女は、もう少し考えるべきだったのだ。戦場と言うものについて。








北条の小田原は堅城である。
かつて上杉謙信が十万以上の兵力で落とせなかった城を
武田信玄は二万で攻めた。
その数で小田原が落ちるわけがない。
そのことは、北条氏康も、また援軍を求められた今川義元も分かり切っていた。
それでも北条が援軍を、と望んだ理由とは、攻めてきた武田信玄を討ち取る好機だからである。
そうして、薩った峠での戦いにて、援軍を出された今川としては
二重の意味で断ることができず。
また氏康自らが率いて援軍を出した薩った峠での戦いから
今川氏真、今川義子を援軍として送ることとしたのだった。

「釣り合い、というのは案外に大事なものなのだよね」
「そうですね、兄上」
今川が出した援軍は四千。
それを率いながら、義子と氏真は鎧甲冑に身を包み
馬に乗って北条領へとひた走っていた。
その後ろを四千の兵がついて歩く。
鎧甲冑に身を包んでいる者は少なく、その殆どが農村から徴収されてきた人々だ。
刈り入れ時を前にして、男どもを出すことを嫌がる家は多かったが
そういう家は、金を包んで兄弟の多い家に、身代わりを出させる。
そうして集められた四千は、略奪ができるわけでもない行軍に
士気低くついてきている。
四千ともなれば、酷い人になるかとも思った義子だが
全くその通りで、つらつらと並んで歩く列は長く
その中にはまだ幼いものも、また、年老いた者も数多くいた。
年齢が極端に高いもの低いものは、行軍の列から遅れていたが
それに構わず義子たちは、進む。

小田原にて戦端が開かれてから、二日。
一日で早馬にて知らせてきた北条氏康の即断は褒めるべきだと、氏真は言う。
「武田信玄公は、大した軍略家であるから。
落とせぬと思ったならば、早々に兵を引き上げるだろう。
ゆっくりとしていたのでは、それこそ後の祭りになる。
…面倒なことにね」
最後の一言が余計だが、武田信玄という大名を、北条も今川も警戒しているのが
その氏真の言葉と、早馬にて援軍を要請してきた氏康の行動からは読み取れた。
だが、それも桶狭間にて今川義元が敗れたと知るや、韋駄天のような早さで
同盟破棄、侵攻を行ってきた男に対しては、当然と言える。
武田信玄は、手強い。
これが、今川・北条における共通認識であった。
………その男相手に、戦争をするのか。
思うと、体が震えたが、怖がっているのだと周囲に悟られてはならない。
義子は将だ。
彼女は殊更厳しい表情を作ると、姿勢を正して出来るだけ威風堂々とした調子を形作る。
内心がどんなに恐怖していても、せめて形だけはと思っての行動だが
氏真には見破られているらしい。
褒めるような目つきで彼は義子を見て、それから前を向き直して口を開く。
「…さて、義子。武田軍と戦う時の心構えを教えておこう」
「はい」
「幸いにして、と言うのもなんだが。此度の戦、主役は北条と武田だ。
我らは舞台に土足で上がる邪魔ものにすぎない。
で、あるから。…義子、赤備えの集団を見たらすぐに退きなさい」
「……兄上、それは」
「言っただろう。我々は邪魔者にすぎないと。
主役ならば許されないが、今回はそうであるのだから。…いいね」
「はい」
一度は口をはさみ掛けた義子だが、氏真が真剣な調子であるのを見てとって、素直に頷く。
赤備え、とはあらゆる武具を朱塗りにした部隊のことだ。
戦場でも特に目立つため、軍の中でも武勇に秀でた将が率いた精鋭部隊であることが多く
中でも、武田の赤備えは最強、勇猛の名を欲しい侭にしている。

その相手とはぶつかるな。今回は許される。

援軍であるがゆえに、許されることだけれど。という義兄の根本にあるものは
義子の心配に他ならない。
だから、義子は黙ってただ素直に従うのみ。
武田の赤備え、その中でも特に精強だというのは、真田幸村という若武者であるとの話だが。
当りたくはないな。
真田幸村と出あわないことを切に義子が祈っていると、後方でけたたましい怒号が聞こえた。
思わず後ろを振り返ると、後ろの方で、馬に乗った将二人が喧嘩をしている。
義子はその将たちの顔を見て、はっと思い出すことがあった。
花見の時に、義子に嫌味を言った者たちではないか。
思わぬ一方的な再会に驚く義子だが、そんな彼女に構うことなく
嫌味の彼らは、汚い言葉で互いを罵りあっている。
「………気の立っていることだねぇ」
「なにがあったのでしょう」
「言っている内容を聞くと、恐らく馬同士がぶつかりそうになったようです」
「なるほど、ありがとう」
親切に教えてくれる斜め後ろの将に礼を言い、義子は氏真と顔を見合わせて
しかめっ面を作って見せた。
やれやれ、なんとも。
その途端、横の木の枝が、がさっと音を立てて軋む。
それに急いでそちらを向くと、忍び装束の男が
木の上を走りながら義子たちの横をついてきていた。
一瞬身構えた義子だが、その彼に向かい氏真が
「どうした、なにかあったか」
「はっ。前方に、北条氏康様の率いる北条軍を発見。
このまま進めばかち合うかと!」
「……叔父上が?」
「どうやら武田信玄は小田原から撤退中の模様。
このままいけば、後詰めでくる北条氏照様・北条氏邦様の軍勢と
三増峠にて激突するかとの話」
「なるほど」
どうやら彼は、今川の忍びであるらしい。
忍びから現在の状況を聞いた氏真は、後方を振り返り、声を張り上げ叫ぶ。
「聞こえたか、皆の者。このままいけば、撤退中の武田信玄を追う
北条氏康公の軍勢と合流するらしい。
このままの速度を維持し、前進を続ける!」
おお!!っと、返事が返ってくるのに氏真は頷き、そうして少し目をつむってため息をついた。
「…どうされたのです、兄上。何か気にかかることでも?」
「いや、………声を出すのが面倒くさいなと思ってだね」
「………頑張ってください、頑張って、それぐらいは…!」
「頑張るとか、私から一番遠くないかね」
義兄の言うことにいい加減脱力する義子は、無言で首を振って駄目だこれは、という表情をした。
戦前の緊張感が抜けていくようだ。
その彼女の脱力に、微かに氏真が微笑んだ、その時。
前方に大勢の人間が焦った調子で行軍していくのが目に入る。
「北条の軍勢」
あちらもこちらに気がついたらしく、兵たちがざわざわとざわめき立つ。
それを捉えながら、義子はこれから戦が始まるのだと、手綱を持つ腕に力が籠るのを感じた。



………思えば、そう、思えば。
命などに執着をせぬ義兄が、武田の赤備えとは当るな。そういった意味を、義子はもっと考えるべきだったのだ。

時は、永禄六年、夏。
これが三増峠での、短くも長い戦の始まりであった。