「改めまして、過分にも、今川義元公の養女にしていただきました
今川
義子と申します。
以後お見知りいただければ、幸いにございます」
「面を上げよ」
「は、寛大なお言葉、感謝いたします」
………………たまたま通りかかった運の悪い義兄のせいで
義子たちは今、織田方の逗留する宿屋の一室。
織田信長の止まる部屋へと案内されていた。
室内にいるのは、織田信長、豊臣秀吉、
義子、氏真の四名だ。
後、幾名かの武将が宿には居るようだが、必要最小限で良いと
信長が指示したため、後の者は別室にて控えている。
それにしても、近いと更に威圧感がある。
目の前に悠然と座る織田信長の姿に気押されながら
義子は面を上げ居住まいを正した。
「私の方は、改めての挨拶はいりませんね、信長公」
「うぬの事は信長も知っておる。知っておることを、信長は求めぬ、な」
そうして、義兄はといえば、いつも通り命が惜しくないがゆえか
織田信長という人に向かい、まるで知人にでも話しかけるように気安く接して
信長に微苦笑を浮かべさせている。
相変わらず、この人はこの人で、突き抜けたお人だ。
いつものことながら何とも言えない気持ちになり、
義子が前に置かれた茶を飲んでいると
義子の前に居心地悪そうに座っていた豊臣秀吉が、ぽかんとした顔で
上二人の様子を見ているのに気がつく。
「………義兄は、いつもああですので」
「あ、は、いや……呆気にとられるわ―…」
慌てて何事か言おうとした秀吉だが、呆然としていた顔をさらしているのに
今更取り繕うこともないかと、正直な心境を吐露する。
それに全くと頷いて、
義子はずずーっと茶を啜った。
「まぁ、本当にいつもあの調子ですので、秀吉殿におかれましては
気にしない方が胃のためかと」
「わしは、気遣い感謝と言ったほうが良いんじゃろうか」
「どちらでも、お好きなように」
こちらが子供だからか、気安い口調で話しかけてくる秀吉を咎めることもせず
義子はただ秀吉の好きにさせた。
本来ならば気安いというべきなのだろうが、なんとなくそういう気にはなれなかったからだ。
豊臣秀吉、人たらしと呼ばれるだけのことはあって
なんとなく初対面だろうがなんであろうが、彼の好きにさせてやりたい魅力がある。
なるほど、人材の層が厚いとはこういうことか。
義子は織田配下、豊臣秀吉を上から下まで眺めた後
自分のところの人材と見比べて、うぅんと内心唸りを上げる。
今川家の家臣団において、豊臣秀吉級の人物をあげろと言われると、難しい。
しかも、織田家臣においては、彼のような人物がいくらもいるというのだから
まったくふざけている。
浅井と婚姻を結び、美濃を平定し、時代の寵児となるわけだ。
情報から、そのことに納得をしていた
義子だが、実物を見ると更に納得をする。
織田信長、という人は、一目見ただけで唯人ではないと分かるような何かがあった。
跪き、支配を請い願いたくなるような何かだ。
…怖い人。
義兄が言っていたのと同じ感想を抱きながら、
義子は信長の顔を見つめた。
彼は、人間であるのに、人間をやめているかのような気配を漂わせながら
ただ周囲を圧倒している。
それは酷い魅力を彼に与えていたが、同時に人間を足元にも近寄らせぬ孤独を彼に与えてもいた。
そうして、信長が一番怖いのは、その孤独をまったく気にかけてもおらぬことだ。
人は一人では生きられない。
それは普遍の定理で、人が集団生活を営む最大の要因だというのに
信長は、たった独りでも気にしてはいないようだった。
いや、むしろ、誰かを求めてもいない。
それを直感しながら、
義子はもう一度、怖い人、と思った。
風魔のように完全に人外ならばともかくとして、人であるのに人でなしとは
まさに第六天魔王の名にふさわしい。
「…しかしところで、信長公。このような所、このような形にてお会いできるとは思いませんでした」
「ふふ。信長もこのような所で、今川のに出会うとは思わなんだ。
答えよ、うぬは何のためにここに来た」
「答えよ、か。怖いですね。私はここにはただ冷泉為益殿と一緒に
公家との顔つなぎに来たにすぎませんよ、あなたと違ってね」
氏真の物言いに、秀吉の顔が凍りついたのが分かる。
けれど、氏真の言葉は、表面上こそ不遜であるが
よくよく聞けば柔らかく、それを感じ取った信長は、で、あるか。と目を閉じ頷いた。
そのまま、暫く場には沈黙が流れる。
静やかな沈黙は、重苦しく場にいる…いや、信長と氏真以外の者へとのしかかった。
気まずい。
それもあって、話が続かないのを見てとった
義子は、躊躇いながらも信長に話しかける。
団子の礼を改めて言っておかなくてはならないと思ったからだ。
「それにしても信長様、先は団子をに馳走になり、ありがとうございました。
改めて御礼を述べさせていただきます」
「ただの戯れぞ」
「はい、それでも感謝いたします」
「よい」
ゆったりと手を振り、
義子の言葉を止めた織田信長は
まさに支配者といった風情だ。
義父、今川義元とも、隣国北条の北条氏康とも異なるその様子に、
義子は自然と体が強張っているのに気がついた。
…織田信長、彼は殿というよりか、王だ。
家臣団の中心にある殿よりも、全ての人に頂かれ上に立つ王然とした
彼に、
義子は緊張をしている。
…しかし、
義子がただの
義子、であるのなら緊張して飲まれていても良いのだが。
義子は今川
義子である。
今川の人間である自分が、飲まれていては話にならないと
無言で目を細め、意図的に体の力を抜くと
彼女は膝の上で手を組み合わせて姿勢を直す。
そうした
義子の行動に、信長は気がついたようで彼は僅かに表情を変え
―そうしてそのまま沈黙を保った。
何を考えているのかが読めない主の動向を懸命に探っている
秀吉が、その信長の様子にぴくりと体を動かすが
身分として下の彼は、率先して話すことも出来ず、ただ、やはり沈黙する。
…話が続かない。
どうも、織田信長という人は多くを語る人では無い様で
話題を振ってもすぐに話が終わってしまう。
それであるなら、最初から宿に招かないでいてくれればよかったのに。
正直な感想を
義子は抱いたが、そうも行かないのが大人の付き合い、という奴だ。
それを理解しているから、微妙な面持ちをして
義子が場を持たせるための
話題を探っていると、氏真が何の気ない様子で、信長に話しかける。
「それにしても、そういえば、近頃印章を天下布武に変えられたとか」
…その行動は良いのだが、振った話題が話題だ。
軽くぽーんと言い放った兄に、それはもう少し気を使って話す話題ではなかろうかと
思った
義子と秀吉だが、信長の方はやはり泰然としながらゆっくりと氏真と目をあわす。
「ただ、世に示しておるだけよ。この信長の志を、な」
子供に言い聞かせるようにゆっくりと、それでいて
有無を言わさぬ調子の声だった。
王の下知を申し渡すような声。
そうして、彼の答えに、気圧された様子もなく氏真もまた、ゆったりと、頷く。
「志ですか。結構なことです」
「志が、武をもって天を制す、ですか」
どうやら、この話題は大丈夫らしい。
信長の様子よりそう判断した
義子が、彼に向かい
かねてより疑問であった分かり安すぎる印章の内容に対して、どうしてか、と問うた。
天下に向けて示すのならば、もう少し綺麗な言葉でもよいだろうに。
あまりに印章のきつい天下布武に対して、そう思う
義子は、常々それが疑問であった。
すると織田信長公は、機嫌良さそうに口の端を上げ
「この信長、古きものを憎み、新しきものを打ち立てる。
で、あるならば、古きものは壊すが、重畳」
「なるほど」
……頷くのは頷いたが、信長の喋った内容に対して、背筋を駆ける寒気があった。
なんという事を言うのだ、この人は。
怖い人。
その意味を真に理解して、
義子は立ちすくむような気持ちで、手のひらをぎゅっと握る。
そうして、その後二・三の話題の後、信長逗留の宿で行なわれた
偶然の会談はお開きとなった。
宿に帰って、部屋に入った
義子と氏真は、同時にはぁと溜息をつく。
疲れた。
「…どうしてあそこで私に声をかけてしまったのです、兄上」
「いや、信長公達が見えていたなら、話しかけなかったのだけれどね。
あいにくとお前しか見えなったものだから」
超ごめん。
そういう物言いが似合いの軽い感じで氏真は謝ると
転がっていた座布団の位置を直し、その上に腰掛ける。
「で、
義子は信長公と会話をしてどう思ったかな」
あぐらをくんで、こちらを見る兄に、
義子は織田信長の顔を思い出す。
紺色の着物を着た、身分も知らせず歩いているだけで
人並みを割って行ける人。
覇王、魔王。そういう単語が似合いの彼の姿に
義子は微妙な感情を抱いている。
怖い、が。魅力があるとは思う。
彼にかかれば、彼に抱く恐怖感すら、耐えがたい魅力に変わる。
有無を言わずに従いたくなり、抗うことすら許さないその姿は
天下人としては相応しいのだろうが。
「兄上の言うとおり、あの人は怖い人ですね」
それでも、
義子はあの人には心からは従いたくないと思った。
…なにはともあれ、怖すぎる。
存在が、生き方が、思考が。
短い間の邂逅でも十分に分かったそれに、顔を固くしながら
義子が言うと、氏真はその
義子の感情を理解して、そうだろうと肯定する。
「桶狭間でも思ったけれど、怖いよね、あの人、天下布武とか。
分かりやすく天下統一の意を示しているだけかと思ったら」
「…本当に、天下布武なんですね。
新しい世を作るために、自分に従わない勢力を皆殺しにして
天下を統一する、とは」
古きものを憎み、新しきものを打ち立てる。
で、あるならば、古きものは壊すが、重畳。
それは、今
義子の言った通りの意味で相違あるまい。
…怖い人。怖い人。
幾千幾万もの命を、信長はあそこであっけなく、従わぬなら、切り捨て殺すと言い放った。
造作ものないあの言い方では、彼は躊躇わず、その通りに実行に移すだろう。
一人殺せば殺人者だが、一万人殺せば英雄、か。
使い古された表現が頭の中に浮かんで、
義子はふっと眉間のしわを緩めた。
「………怖い怖い」
「怖いねぇ」
「怖いですねぇ、でも」
「でも?」
「でも、ただ。…えぇ、ただ、新しい世を作るなんて
志で殺されたんじゃあ、たまんないと思っただけです」
英雄。
その単語が浮かんだ瞬間、思い浮かんだことがある。
現代にいた頃には思いもつかなかったことだ。
けれど、当事者になってみれば、
義子は志で殺されたかぁないと、強くそう思った。
ご本人様一行たちは、そりゃあいいかもしれないが
殺される方は、たまったものじゃない。
一万人殺してなる英雄の、その下にある屍一万人分の中に混ざるのはまっぴらごめんだ。
生きるために殺し殺されるのは良い。
物をとるために殺すのも良い。
理由が大変わかりやすい。
けれど、天下を取るなどという曖昧なもののために、殺されるのは
義子は嫌だと思ったのだ。
「いやまったく。信長公のは分かりやすくてまだ良いけどね。
自分が作る世に逆らうものは、皆殺すといっているのだから。
考えてもごらんよ。天下泰平だとか、王道だとか、そういう言葉の元に殺されるのを」
「………あぁ。うん、嫌ですね、それは」
「嫌だろう、これは」
世を平らにするために、人を、殺す。
それは歴史が積み重ねてきたステップで、
義子はその上に生まれ、平和を享受してきたわけだが。
しかし、再度繰り返すが当事者になってみれば、志で殺されるなど一番嫌な死に方だ。
考えても見ろ。
泰平を謳う者に殺されて、泰平を謳ったものが天下をとる。
そうして、泰平を謳歌するその世では、
義子は死んで土の下だ。
それじゃあ、全く分けが分からない。
それを思えば、新しい世というだけで、平和を謳わない信長公の志は
義子の嫌さ具合で言えば、比較的まだましなのかもしれなかった。
が。
「…でも兄上、それは五十歩百歩と言いませんか?」
「まぁ、否定はしないね。皆、欲望をむき出しにして
支配者になりたいのだと、素直に言ってくれれば良いのに」
「一応とりなせば、恐らくは対外的な世間体というものがあるのですよ、多分」
面倒なことだと、そういう義兄のつぶやきを、
義子はただ黙って受け入れ
心の中だけで、全くだと同意する。
…永禄六年、弥生の頃の話である。
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