「さ、さ、桜の木」
「桜の木」
「桜の木…花が咲いてて、綺麗だな」
「………義子義子…」
義子姫…」
「む、無理です兄上、朝比奈殿!私には才能がありません!」
わっと顔を伏せた義妹に、氏真と泰朝が困った表情をしているのが分かった。
そういう空気を彼らは醸し出している。
…そんな空気出されたって。
寒緋桜がそろそろ咲くから見に行こう。
そう言って無理やりに義子を連れ出した氏真は
泰朝も誘っていたようで、彼らは揃って城近くの寺まで足を延ばしたのであるが。
……歌詠みが始まるとは予想外だった。
義子には芸術的才能が全くない。
現代にいた頃から、図画工作の時間の成績は1だった。
絵を描けば子供の落書きと言われ、版画は幾何学模様と評され。
そんな義子に風流、風情。
そのようなものを理解する心があるわけがない。
「…義子、あの咲いている美しい花を見てどう思うのか
それをただ歌にすればよいだけなのだよ?」
「さ、」
「さ」
「桜が咲いているなぁと思います、兄上」
正直な感想を吐露すると、氏真は美しく咲き誇る寒緋桜を見て
それから義子に視線を戻し、がっくりと肩を落とし首を振った。
「………駄目だ、お前、絶望的だ。諦めよう」
「はい、そうして下さい」
いつもとは正反対のそれに、情けなさを感じながらも
素直に頷くと、泰朝が苦笑しながら義子を見ているのに気がつく。
「………何か」
思わず何なんだと、恨みがましい視線で睨みつけると
彼はいえ、と慌てて手を横に振って誤魔化そうとする。
それを許さず、言え。と視線で命ずると、泰朝は微笑ましげなものを見る目をして
義子と氏真を見比べた。
「いえ、ただ、戦事には熱心な義子様は文化事がお苦手で
反対に文化事に熱心な氏真様は戦事がお苦手、というよりお嫌いなのが
面白いと思っただけです」
「あぁ。以前から分かっていたことです、兄上と私が
正反対であるというのは」
「うん。まあね。ただ、私も義子がこのように文化事が
壊滅的だとは思わなかったけれども」
義子の頭に手をのせ言う氏真の表情が語るのは
何とも情けない、だ。
それは義子だって日々思っている。
と反論を仕掛けた彼女だが、こと兵法戦事について氏真はここまで壊滅的なわけではない。
少なくとも一通りはこなせるのだと思い出して、義子は甘んじて
その義兄の反応を受け止めた。
…いや、自分でも桜の木、花が咲いてて、綺麗だな。は無いと思う。
それでも、赤々と咲く寒緋桜は、義子にとってはただ花をつけた木でしかない。
風流風情は、やはり遠いところにあるな。
思いながら桜の木を見上げていると、しかし。と氏真が義子を抱き上げる。
「よっと…大分重くなったね、義子
「もう十三です。無理に抱きあげなければ良いのでは?」
「まぁ、良いではないか。……しかしねぇ、泰朝。
この義子のこれで、連れていっても良いと思うかね」
「………連れていくのはよろしいでしょうが、やんごとなき方々の前に出すのは
避けた方が無難かと」
「やはり、お前もそう思うかね」
分からない会話をする二人に、義子はぱちりと瞬きをした後
氏真の肩を掴んで体のバランスをとった。
何の話をしているのやら。
「兄上、それは私が今ここで説明を求めてもよろしい話ですか」
無理ならば、城に帰ってから話をしてもらうが。
そういう意図で聞くと、義兄は全く構わないよといって
泰朝へと視線を送った。
義子様、氏真様へ歌の指南をしておられる、公家の冷泉為益様はご存じでしょうが
あの方は駿府滞在中ではありますが、公家として京へ出向かねばならぬこともあります。
そうした時には、たまに公家への繋ぎとしてご一緒させてもらうことも
氏真様、義元様においてはおありなのですが。
弥生の頃に、また京に上るとそういう話があるのです」
「で、その時には私も一緒にという話でしたか?」
「はい。その予定でしたが」
「……まぁ、ああいう歌を作るのでは、少なくとも公家方との接触で
お前は居らぬ方が良いだろうね…」
風流、風情、格式。
すでに廃れた過去の遺物であるというのに、謙虚さも見せず
そういう所には五月蠅いのが、公家の人間というものである。
そのようなところに、桜の木、花が咲いてて、綺麗だな。を連れていけばどうなるのか。
想像は難くない。
出自からして蔑まれるだろうに、それ以上に歌詠みも満足にできなければ
どういう扱いをされるのかなんて決まっている。
是非そうしてくれ、と義子がこくこくと勢いよく頷くと
義兄もまぁ、そうするけどねと気のない返事をした。
「でも、京までは一緒に来るのだよ、お前。
私も嫌々ながら行くのだから。道連れだ」
「ひょっとして、一緒に出席をしてほしかったのですか、兄上」
「本来ならね、でも、あれでは仕方がない」
本当に嫌そうな氏真の表情は、公家との会話が面倒くさいということだろう。
蹴鞠や、歌を読むのはお嫌いでない人だから。
そういうことをしながら行われる、ある種駆け引きのような会話を面倒くさがっていることが
容易にみて取れる義兄の姿に、なにか申し訳ない気分になって両手を合わせて見せると
氏真は、はぁっという表情をしてがっくりとうなだれる。
「…期待していたのだよ、義子
「…私だって別に、好きでこんなに駄目なわけでは」
気まずさに髪を触りながらもじもじとそう言う義子
泰朝が笑いをこらえるように口元に手を当て空を仰ぎ
氏真もまた、仕方がないというように苦笑した。






そうして、永禄六年。
弥生の月に義子と氏真は冷泉為益と共に京へと上ることになったのである。