ぱちんっと音を立てて駒が盤上に置かれた。
「………父上、待ったは」
義父の部屋で彼と向かい合い正座して、将棋の盤を挟んで
向かいあう義子は、義元に向かって問いかける、が。
無情にも義元はあっさりと横に首を振って否という。
「なしだの」
「先ほどはありだったではありませんか」
「先ほどは先ほど。今は今、じゃの」
王手一歩手前まで追い詰められて、義子はむぐぐと言葉を詰まらせる。
「…義子、父上はお強いから、諦めたらよいのではないの」
「嫌です」
畳に寝転がりながら言う義兄に即答して、義子は盤上をぎりぎりと鋭く睨む。
相手が誰であろうが、負けるのは嫌だ。
生来の負けん気を発揮させ、懸命に次の一手を考えていると
義兄がごろっと転がった。
しかもあまつさえ、ふぁぁと気の抜けたあくびをするので
義子は息を吐いて氏真を抗議の目で見る。
「…兄上」
「うん?私邪魔かね」
「はい」
「……即答か」
三年目ともなると、遠慮もくそもない。
集中の邪魔であるときっぱりと言い切った義子に、氏真は肩を落としたが
それも一瞬で、彼はごろりと転がって、義子の傍に来て膝頭に額を付けた。
最近分かったが、義兄は義子を猫か何かのように思っておいでだ。
いや、彼は確かに義子を真実好いているのだけど
義子の振り分けが可愛い可愛い義妹兼女、ではなくて可愛い可愛い義妹兼猫っぽいなにかというか。
だから抱き上げるのにもなにするにも、抵抗が一切ない
かまってくれ、と全身で示す氏真の頬を、残った将棋の駒でぶっすりと刺すと
彼はあっはっはと声を上げて笑った。
「………父上…」
「麻呂にもするかの?」
「いえ、遠慮させてください、後生ですから」
子供のようなこの人を窘めてくれという気持ちで言った義子だが
義父は頼りにならないどころか敵だった。
そりゃ、むっちりとした頬に将棋の駒を埋めれば面白いであろうが
義子は義父であり主人である義元に向かってそんなことはしたくない。
…まぁ、こういう展開もいつも通りか。
義子が諦めの気持ちで再び盤上に意識を戻そうとすると
それにしても、と義元が口を開く。
「美濃は落ち、浅井との婚姻がなり、織田は勢いに乗っておるの」
「そうですねぇ、全く。時代に愛される、ということですかね」
行き成り他国情勢に話を飛ばした義元に
相槌をうつ氏真は、いかにも面倒くさそうだ。
他者に興味のない彼は、他国の争乱に巻き込まれるのが面倒で仕方ないらしい。
その一方で、きちんと情報を仕入れているのだから、今川を守る気はあると。
領地だけ残ればよい。
それをあくまでも貫き通すつもりの氏真の態度は、一貫している。
それに対して天下統一を諦めた義元は、仕方がないとでも言いたげな顔をして
そうだの。と頷く。
「耳にはさんだ話では、うつけ殿は印章を天下布武に変えたらしいの」
天下に武を布く。武力を持って天下を取る。
そういうものに印章を変えた。
それは織田信長が、天下統一、上洛の意思ありと、きっぱりと日の本に対して
意思を示し始めたということだ。
義子の世界では、その志半ばで死んでしまった織田信長公であるが
さて、ここではどうなのか。
桶狭間で死ぬはずの今川義元という狂いを目の前に捉えながら、義子は考える。
習った歴史通りに死ぬのか、それとも幻になった天下統一を果たすのか。
けれど、義子にとってそこは重要でないので
まぁどうでもいいかと、義子はすぐにそれを脇に置いた。
言ってしまえば、義子は、信長公が死ぬのでも死なぬのでも何でもいい。
重要なのは、その経過までの道のりで、今川がどういう立ち位置に身を置くのか。
それが義子、ひいては今川にとって生死を分ける判断となる。
しかしそれにしても、天下をとるのに印章を天下布武に替えるとは。
「随分と直接的でいらっしゃる」
「まぁ、信長公には似合いなのでないかなあ。
桶狭間でちらりと見たけどね。あの人は怖い人だよ」
遊びを許さないわけではないだろうが、こういうところにそれを求めない人である。
そう言って、氏真はため息をついた。
それは桶狭間で見た織田信長の姿を思い出してのことなのだろうが。
…一体どのような人物であるのか。
義子が歴史の時間に習ったり、テレビで特集を組まれたりしていた彼は
時代の革新児だとか、改革者だとかそういう風に言われていたけれど。
実際の織田信長がどうであるのかは義子は知らない。
どうなのだろう。
思って考えていると、義元が信長殿であるかの、と心を読んだようにそう言った。
思考を見破られていたことにどきりとしながら、首を縦に振り肯定すると
「で、あるか」
義元は、ただそれだけを言った。
えぇ、と。
………一体それが何を意味するのか、義子は意図が分からず目を白黒させる。
何なのだ、それは。
義元の言動が読めないのはいつもだが、今回は特に読めない。
糸口すらも分からぬそれに困り果て、義子は仕方なく問いかけた。
「あの、父上それは一体」
「うつけ殿のまねじゃの。信長殿はこういう口癖を持っておるの」
「………私が知りたいのはそういうことでなく…!」
そんな空気じゃなかっただろう!
義父の回答に、明らかにからかわれていると知りつつも
義子は頭を抱えて床に倒れ込んだ。
どうしてこういう真剣な場面でふざけるのだこの人。
そんな義子の苦悩を面白そうに眺めて、義元はひらりひらりと
袂から扇子を出して自分を扇ぐ。
「分かっておるの。真面目に答えるのなら、うつけ殿はこーわいの。絶望を知らぬの。
桶狭間で麻呂の率いた軍と、うつけ殿の軍。
総数が違いすぎて、普通なら諦めるところを
奇策・奇襲・徳川家康殿の引き抜きによってひっくり返し
見事勝利を収めて見せた、戦の天才だの」
「これが戦だけならまだしも、内政の方も良いときているからますます、怖い。
おまけに面倒にも人を惹きつける何かがあるのか
人材の層も日増しに厚くなってきている、と」
義元の言葉を引き継ぎ、氏真が説明し
織田信長に対しての二人の感想を聞いた義子は、眉をしかめて空気を吐き出す。
「………それは」
「それは?」
「分かってはいたことですが、このまま順当にいけば上洛は織田信長公が果たされる。
で、あるならば、将軍を擁立するであろう信長公は
本当に手がつけられない存在になる、と、そういうことですね」
「まぁ、こ面倒なことに、ね」
戦、内政、人材。
全て揃い、京までの道も開けた織田信長が、上洛を果たさぬはずがない。
そのための天下布武という印章。
そのための意思表示。
そうして…その織田信長を叩くならば今しかない。
天下布武の通りに京へ信長が上ったならば、確実に幕府将軍を擁立し
彼の権力・威光の元、信長は天下統一を始めるだろう。
その時になってしまえば、もはや彼を止められる者は誰もいなくなる。
戦が強いということは、負けぬということ。
内政も強いといううことは、戦のための金を生むところがあるということ。
人材が厚いということは、一人二人将を殺したところで織田の勢いは衰えぬということ。
知れば知るほど厄介である織田信長、その扱いをどうするつもりであるのか
今川家当主今川義元に視線で尋ねてみると、彼は手を広げて、仕方がないの。
その一言だけを言った。
「仕方がない、ですか」
「仕方がないの。信長殿が上洛を果たすは時代の流れ。
流れをつかんだ者は、時代の寵児として受け入れるより他ないの。
下手に逆らえば、家がつぶれるの」
例えば、武田上杉北条と組んで、織田を潰すという手もある。
だが、それを下手に行えば、あとは関東同士で食い合いが起こるのは必至。
今川はその渦中に置かれる。
それならば下手につつかず、織田信長公の天下の元
今川を残す方向で事を進めるとそういうことか。
戦を下手に起こさぬという流れは、命を大事にしたい義子にとっても好ましい。
織田との停戦など、今までの流れに沿うた義元の回答に、義子は深く頷き
「わかりました、そのように承知しておきます」
「の。そういうことだの。氏真も宜しく頼んだの」
「分かっております、父上。今川は、織田にそれとなく迎合する方針で」
永禄六年、初春の頃。
こうして、いつか織田の両兵衛が予測した通り、今川家については
親織田勢力に徐々に傾ける方向で、主家の中では話がついたのであった。